「石神櫂」は、この年の僕らの担任だ。
五、六年次の二年間、僕らの学年の担任を務めた男だ。五年生の頃は、隣のクラスの担任で、僕のクラスは、今の一組の担任の宮本先生だった。
石神は生徒に恐れられていた。それは体罰が原因だ。石神は生徒を過剰に指導していた。
暗い空き教室に生徒を連れていき、長い時では授業を放棄し一日中生徒を叱っていた。指導のように見えるが、実際は違った。こいつは生徒を鬱憤晴らしの道具として扱っている。
当然そんな先生が好かれることもなく、全員が嫌っていた。だが、十一歳の僕らには、立ち向かう術もなく、自分にその牙が向かないよう耐えることしかできなかった。
石神は、暴力を振るわなかった。怒号や罵倒といった精神的な体罰で文字通り生徒を支配していたのだ。
こいつは教師なんかではない。
いじめは何も生徒同士だけで引き起こされるわけではない。二組の生徒はこの一年間、石神によっていじめられる。優香だけでなく、僕らもいじめられるのだ。
それに石神は、今後『最悪』を引き起こすことになっている。
「それでは、六年生から順番に退出してください」
考え事をしていると、新学期の全校朝会か閉式していた。
教頭先生のアナウンスと共に、今度は六年生から順番に退出していく。他の学年の生徒は、周りの友達や担任の先生と愉快に会話をしながら待機していた。
すると、退出していく六年生に向かって石神がマイクでアナウンスをする。
「えー、すみません。六年生。今日九時集合ですよね。なんで遅れたの?」
そういえば、体育館に入ったときには九時を回っていた。
「まあいいや、下級生待たせてるし。考えといて」
後ろのドアに向かっていた生徒たちは、その場で固まってしまっている。
新学期初日、ここから悪夢が始まる。
教室に戻ると、朝と同じように全員がすぐに席につく。黒板に書かれた文字は、その恐怖を物語っていた。
石神はすぐに教室に入り、改めて挨拶をした。
「今年もどうぞよろしく」
これまでの生い立ちや先生の趣味などの雑談をすることなく、すぐに本題に入った。
「で、なんで遅れたの?」
中身が大人でも、この威圧に圧倒されてしまっていた。
「田中、去年学級委員だったよな。なんでだ?」
石神は優等生だった田中晃を名指しした。
晃はすぐにその場で立ち上がる。
「僕たちの行動が遅かったからです」
晃はクラスの中で最も身長が高い。そんな生徒がいきなり立ち上がると迫力があったが、それでもすぐ直角に腰を曲げて、頭を下げていた。
彼は優等生らしく、反発はしなかった。仮に僕が名指しされても反発なんかせず、ここは逃避するだろう。
「お前ら何様だよ」
怒鳴り声がフロア全体に響いている。
おそらく隣のクラスも、相当怯えているだろう。
理不尽だ。全てが六年生のせいではない。実際素早く列を作り、最速で体育館に向かっている。
「これからは、最上級生の自覚を持って行動しろ」
「はい!」
僕以外の生徒が口を揃えて返事をする。
すると、石神は一呼吸置いて、今度は別の人物を名指しした。
「おい、上田」
呼ばれたのは僕の名前だった。
「は、はい」
「今日何時に来た?」
どうしてか、遅刻したことを把握されていた。急いで立ち上がり頭を下げた。
「すみません…」
「何時に来たって聞いてんの」
ヤクザのような言い回しで、僕に詰め寄る。
「えっと、八時四十五分ごろです…」
「今日何時に集合ってプリントに書いてあった?」
「八時半です」
教室中に緊張感が走る。間違ったセリフや、正しくない選択をした瞬間、即ゲームオーバーの超難関のマルチエンディングのゲームをしているようだった。
「こういう奴がいるから、時間内に行動できないんじゃないの?」
全員が黙って話を聞く。
「まあ、今日は時間がないので、だらしない人は放っておいて、次に移ります。えー、まず…」
ようやく、説教タイムが終わった。こんなの僕らの時代にやったら、一発アウトで親御さんから避難とクレームの嵐になっているだろう。
僕は今日、何度も未来に帰りたいと思ってしまっている。
その後は、春休みの宿題提出を行った。当然四月五日より前の僕は、この宿題に手をつけていない。二日前に来た僕も、こっちの世界について調べていたり、家族と過ごす間に、すっかり忘れてしまっていた。だが石神は、すぐに確認はしなかったのでその場では事なきを得た。
クラスの係決めに移り、黒板に役職が書き出されていく。委員会や号令係のような目立つものではなく、あまり目立たないような役職を望んだが、「遅刻した奴に任せられる役職はない」と嫌味ったらしく言われた。
結果的に何の役職にもつくことはなく望み通りになった。しかし、クラスでは大いに目立つことになり、石神にも目をつけられてしまった。
午前中で今日の日程の全てが終了し、下校の時刻になる。帰りの会を行い、全員が逃げるように急いで下校した。
拓哉と一緒に帰ろうと思い、帰りの支度をしていると、石神が目の前にやって来た。
「おい、ちょっと来い」
石神は、朝からずっと変わらない表情で、僕を凝視していた。言われた通り石神について行くと、見慣れた空き教室に入るように言われた。
その場所は、石神がよく生徒たちを呼び出し、説教を行なっていた部屋だった。その部屋に入ると、思い出したくもない記憶がより鮮明に映し出される。
石神はカーテンを開け、日差しを入れる。教室の電気はつけられていない。
教室は、机と椅子が前方へと寄せられ、中央から後方にかけて大きな空間ができていた。二つの椅子を教室のちょうど中央に向かい合わせて設置し、そこに座るように促される。
「お前、調子乗ってんな」
目の前に座った石神が、喧騒な眼差しで僕を睨む。
「何がですか?」
恐怖心はあった。だが中身が二十六歳の今となっては、小学生のように怯えてるわけにはいかない。
「あ?」
少し驚いたように言う。
「そんなに怒ることですか?」
思い切って反発した。こいつは先生なんかじゃない。
石神は立ち上がり、近くの机を思い切り蹴飛ばした。ものに当たっている姿は初めて見た。
生徒の生意気な態度を見て、相当苛ついているのだろう。これまで子供に反発されたことがないのだろうか。
「まあいい」
意外だと思ったが、すぐに別の話題に移った。
「でだ。ここから山ほどあるんだが…」
「宿題出してない。あと春休み、学区外に一人で行ったなお前。それも自転車で」
宿題を出していないことは把握され、なぜだかホームセンターに出かけたことも先生の耳に入っているようだった。
小学生には一応、一人で自転車に乗って、学区外に行ってはいけないという決まりがある。今の僕の立場が小学生だということをすっかり忘れていた。
石神は、僕が考え込んでいるのを見て先に声を発した。
「え、聞いてんの?」
反発した僕に、勝ち誇った顔をしている。
「すみません…」
「今日宿題終わるまで、学校に残れ。あと自転車乗るの禁止」
怒鳴られると思ったが、先ほど反発したせいか、嫌がらせで終わった。
ふと、なぜ学区外に行ったことを知っているのか気になった。
「あの、なんで僕が自転車で出かけたこと知ってるんですか?」
「学校に通報が入って、特徴から上田だと思って、釜かけたんだ」
あんまり納得いかなかったので、なぜ僕だとわかったのか聞きたかったが、先に先生が口を開く。
「歯向かいたいなら明日から学校来ないでいいから。邪魔」
呆れた表情で威圧する。
だが、なぜかそれは一度目の六年生の頃の記憶の石神と齟齬があるかのように思えた。本当なら、怒鳴りまくって生徒が泣くまで続けるのだが、今回は僕に触れないようにしている。
それからすぐに振り返り教室を出た。
一度目の六年生の時は、学校へ行きたくないと思うほど石神が嫌いだった。だが二十六歳の今の僕には、あの頃のような恐怖心は軽減されていた。
五、六年次の二年間、僕らの学年の担任を務めた男だ。五年生の頃は、隣のクラスの担任で、僕のクラスは、今の一組の担任の宮本先生だった。
石神は生徒に恐れられていた。それは体罰が原因だ。石神は生徒を過剰に指導していた。
暗い空き教室に生徒を連れていき、長い時では授業を放棄し一日中生徒を叱っていた。指導のように見えるが、実際は違った。こいつは生徒を鬱憤晴らしの道具として扱っている。
当然そんな先生が好かれることもなく、全員が嫌っていた。だが、十一歳の僕らには、立ち向かう術もなく、自分にその牙が向かないよう耐えることしかできなかった。
石神は、暴力を振るわなかった。怒号や罵倒といった精神的な体罰で文字通り生徒を支配していたのだ。
こいつは教師なんかではない。
いじめは何も生徒同士だけで引き起こされるわけではない。二組の生徒はこの一年間、石神によっていじめられる。優香だけでなく、僕らもいじめられるのだ。
それに石神は、今後『最悪』を引き起こすことになっている。
「それでは、六年生から順番に退出してください」
考え事をしていると、新学期の全校朝会か閉式していた。
教頭先生のアナウンスと共に、今度は六年生から順番に退出していく。他の学年の生徒は、周りの友達や担任の先生と愉快に会話をしながら待機していた。
すると、退出していく六年生に向かって石神がマイクでアナウンスをする。
「えー、すみません。六年生。今日九時集合ですよね。なんで遅れたの?」
そういえば、体育館に入ったときには九時を回っていた。
「まあいいや、下級生待たせてるし。考えといて」
後ろのドアに向かっていた生徒たちは、その場で固まってしまっている。
新学期初日、ここから悪夢が始まる。
教室に戻ると、朝と同じように全員がすぐに席につく。黒板に書かれた文字は、その恐怖を物語っていた。
石神はすぐに教室に入り、改めて挨拶をした。
「今年もどうぞよろしく」
これまでの生い立ちや先生の趣味などの雑談をすることなく、すぐに本題に入った。
「で、なんで遅れたの?」
中身が大人でも、この威圧に圧倒されてしまっていた。
「田中、去年学級委員だったよな。なんでだ?」
石神は優等生だった田中晃を名指しした。
晃はすぐにその場で立ち上がる。
「僕たちの行動が遅かったからです」
晃はクラスの中で最も身長が高い。そんな生徒がいきなり立ち上がると迫力があったが、それでもすぐ直角に腰を曲げて、頭を下げていた。
彼は優等生らしく、反発はしなかった。仮に僕が名指しされても反発なんかせず、ここは逃避するだろう。
「お前ら何様だよ」
怒鳴り声がフロア全体に響いている。
おそらく隣のクラスも、相当怯えているだろう。
理不尽だ。全てが六年生のせいではない。実際素早く列を作り、最速で体育館に向かっている。
「これからは、最上級生の自覚を持って行動しろ」
「はい!」
僕以外の生徒が口を揃えて返事をする。
すると、石神は一呼吸置いて、今度は別の人物を名指しした。
「おい、上田」
呼ばれたのは僕の名前だった。
「は、はい」
「今日何時に来た?」
どうしてか、遅刻したことを把握されていた。急いで立ち上がり頭を下げた。
「すみません…」
「何時に来たって聞いてんの」
ヤクザのような言い回しで、僕に詰め寄る。
「えっと、八時四十五分ごろです…」
「今日何時に集合ってプリントに書いてあった?」
「八時半です」
教室中に緊張感が走る。間違ったセリフや、正しくない選択をした瞬間、即ゲームオーバーの超難関のマルチエンディングのゲームをしているようだった。
「こういう奴がいるから、時間内に行動できないんじゃないの?」
全員が黙って話を聞く。
「まあ、今日は時間がないので、だらしない人は放っておいて、次に移ります。えー、まず…」
ようやく、説教タイムが終わった。こんなの僕らの時代にやったら、一発アウトで親御さんから避難とクレームの嵐になっているだろう。
僕は今日、何度も未来に帰りたいと思ってしまっている。
その後は、春休みの宿題提出を行った。当然四月五日より前の僕は、この宿題に手をつけていない。二日前に来た僕も、こっちの世界について調べていたり、家族と過ごす間に、すっかり忘れてしまっていた。だが石神は、すぐに確認はしなかったのでその場では事なきを得た。
クラスの係決めに移り、黒板に役職が書き出されていく。委員会や号令係のような目立つものではなく、あまり目立たないような役職を望んだが、「遅刻した奴に任せられる役職はない」と嫌味ったらしく言われた。
結果的に何の役職にもつくことはなく望み通りになった。しかし、クラスでは大いに目立つことになり、石神にも目をつけられてしまった。
午前中で今日の日程の全てが終了し、下校の時刻になる。帰りの会を行い、全員が逃げるように急いで下校した。
拓哉と一緒に帰ろうと思い、帰りの支度をしていると、石神が目の前にやって来た。
「おい、ちょっと来い」
石神は、朝からずっと変わらない表情で、僕を凝視していた。言われた通り石神について行くと、見慣れた空き教室に入るように言われた。
その場所は、石神がよく生徒たちを呼び出し、説教を行なっていた部屋だった。その部屋に入ると、思い出したくもない記憶がより鮮明に映し出される。
石神はカーテンを開け、日差しを入れる。教室の電気はつけられていない。
教室は、机と椅子が前方へと寄せられ、中央から後方にかけて大きな空間ができていた。二つの椅子を教室のちょうど中央に向かい合わせて設置し、そこに座るように促される。
「お前、調子乗ってんな」
目の前に座った石神が、喧騒な眼差しで僕を睨む。
「何がですか?」
恐怖心はあった。だが中身が二十六歳の今となっては、小学生のように怯えてるわけにはいかない。
「あ?」
少し驚いたように言う。
「そんなに怒ることですか?」
思い切って反発した。こいつは先生なんかじゃない。
石神は立ち上がり、近くの机を思い切り蹴飛ばした。ものに当たっている姿は初めて見た。
生徒の生意気な態度を見て、相当苛ついているのだろう。これまで子供に反発されたことがないのだろうか。
「まあいい」
意外だと思ったが、すぐに別の話題に移った。
「でだ。ここから山ほどあるんだが…」
「宿題出してない。あと春休み、学区外に一人で行ったなお前。それも自転車で」
宿題を出していないことは把握され、なぜだかホームセンターに出かけたことも先生の耳に入っているようだった。
小学生には一応、一人で自転車に乗って、学区外に行ってはいけないという決まりがある。今の僕の立場が小学生だということをすっかり忘れていた。
石神は、僕が考え込んでいるのを見て先に声を発した。
「え、聞いてんの?」
反発した僕に、勝ち誇った顔をしている。
「すみません…」
「今日宿題終わるまで、学校に残れ。あと自転車乗るの禁止」
怒鳴られると思ったが、先ほど反発したせいか、嫌がらせで終わった。
ふと、なぜ学区外に行ったことを知っているのか気になった。
「あの、なんで僕が自転車で出かけたこと知ってるんですか?」
「学校に通報が入って、特徴から上田だと思って、釜かけたんだ」
あんまり納得いかなかったので、なぜ僕だとわかったのか聞きたかったが、先に先生が口を開く。
「歯向かいたいなら明日から学校来ないでいいから。邪魔」
呆れた表情で威圧する。
だが、なぜかそれは一度目の六年生の頃の記憶の石神と齟齬があるかのように思えた。本当なら、怒鳴りまくって生徒が泣くまで続けるのだが、今回は僕に触れないようにしている。
それからすぐに振り返り教室を出た。
一度目の六年生の時は、学校へ行きたくないと思うほど石神が嫌いだった。だが二十六歳の今の僕には、あの頃のような恐怖心は軽減されていた。