何もかもが信じられない。こんなことがあっていいのか。過去に来てしまったのだ。
 どう考えても現実的じゃない。こんなことフィクションの中だけだと思っていたが、どうやら実際に起こるらしい。

 そんな時にふと思いたった。これが夢だと言うことを。どうして最初に思わなかったのか。あまりにも現実味を帯びている世界だったため、夢であると自覚するのに時間がかかってしまった。

 両頬を思い切り摘み、映画やドラマでよく見るワンシーンを再現した。しかし、その後の展開も、映画やドラマと全く同じで、僕が目を覚ますことはなかった。

 そんなふうに、僕が夢から目覚めるためにあらゆる手段を講じている最中、おじさんは気に留めることもなく質問をしてくる。
「それで、どうして学校にいるんだい?もう七時になるよ」
 怒ってはいないが、呆れている。
「あ、えっと…、先生に呼び出されてしまいまして…」
 そういうと、おじさんは表情を露骨に曇らせた。
「そうか、あの先生の…、君も大変だね」
 さっきまで懐疑的だったおじさんは、僕を車で送ってくれると言った。
 とりあえず、この場は流れに身を任せることにした。

 学校から家まで、車で十分ほどの道のりを、窓から覗きながら実家へ向かった。おじさんに家の位置を説明しなが、自分の故郷を確認する。
 朧気な記憶を思い出しながら、道案内をした。言った通りの街並みと建物が、窓の外に流れていった。夢にしてはとても鮮明で、気を抜くとすぐに現実だと錯覚させられる。

 家に着くとおじさんは「新学期は寝坊するなよ」と言って帰っていった。必死に小学校の頃の記憶を漁ったが、おじさんのことは思い出せない。
 玄関の前で、数分停止した。夢であると考えたいが、手に握られた尋常じゃない量の汗の感覚は、現実そのものだった。

 三年ぶりに帰ってきたと言っていいのだろうか。大学を卒業し、小学校の教員として働いてからというもの、一度も実家に戻ってきていない。忙しかったのもあるが、あまりこの家に帰りたいと思えなかった。

 玄関のドアを開ける。当時のように鍵はかかっていなかった。途端に懐かしい実家の風景とカレーの匂いが、緊張を吹き飛ばしていった。本当にこれは夢であるのだろうか。

 少し躊躇ったが、久しぶりの言葉を口にする。
「ただいま…」
 部屋の奥から「おかえりー」という声が小さく聞こえてきた。リビングに入ると、「遅かったわね」と若返った母親がキッチンから顔を覗かせる。あまり変わっていない父親は、ソファーに座り、テレビを見ていた。
「六時までには帰ってくる約束でしょ!」
 母は少し怒った表情で、僕を睨みつけた。父はテレビを見るのをやめて、「おかえり」と笑っていた。
 夕飯前に父がお酒を嗜んでいるのを見て、本当に過去に来たのかもしれないと思ってしまう。

「ご飯だから手洗ってきなさい」
 今度は笑いながら母が言う。
 洗面所に行き、しっかりと自分の顔を覗き込む。鏡には幼い頃の自分が、泣きそうな表情で映っていた。
 久しぶりの実家に、久しぶりの両親。
 先程まで頭をフル回転で働かせていたが、一旦思考を停止させ、この頃の自分を演じることにした。
 そういえば、大事なことを忘れていた。

「お母さん、優香は?」
「二階にいると思うわよ。もうご飯だから呼んできてちょうだい」
 三歳年下の妹とも、もう何年も会っていなかった。
 階段を上がってすぐ目の前に、妹の部屋がある。
「優香…、ご飯できたってよ」
 扉を開けず、部屋の前で声をかけた。妹にさえ緊張してしまっていた。

 すると物音がした後、優香は部屋から飛び出してきた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい!」
 元気で明るい優香を見るのは、本当に久しぶりだった。
「今日ご飯なーに。うん、この匂いはカレーかな?」
 優香の姿を確認すると、目から涙が溢れ出す。この頃の優香を見るのは、それこそ何十年ぶりだった。
「ただいま」
 泣きっ面のまま、優香にそう言った。

 慰められることもなく、優香は僕の横を通り抜け、足早に階段を降りていった。そうして、すぐに兄貴が後ろからついて来ていないことを確認すると、「お兄ちゃんー早く!」と元気な声が聞こえてきた。
「おう」とこちらも精一杯の元気で答え、後を追った。
 涙を拭い、リビングに再び入ると、そこには忘れ去られた光景が広がっていた。何年も忘れてしまっていた家族での団欒。拭いたはずの目元から、涙が溢れ出してしまう。
「ただいま」
 心の中で、改めてそう呟いていた。