「石神櫂」は、この年の僕らの担任だ。
五、六年次の二年間、僕らの学年の担任を務めた男だ。五年生の頃は、隣のクラスの担任で、僕のクラスは、今の一組の担任の宮本先生だった。
石神は生徒に恐れられていた。それは体罰が原因だ。石神は生徒を過剰に指導していた。
暗い空き教室に生徒を連れていき、長い時では授業を放棄し一日中生徒を叱っていた。指導のように見えるが、実際は違った。こいつは生徒を鬱憤晴らしの道具として扱っている。
当然そんな先生が好かれることもなく、全員が嫌っていた。だが、十一歳の僕らには、立ち向かう術もなく、自分にその牙が向かないよう耐えることしかできなかった。
石神は、暴力を振るわなかった。怒号や罵倒といった精神的な体罰で文字通り生徒を支配していたのだ。
こいつは教師なんかではない。
いじめは何も生徒同士だけで引き起こされるわけではない。二組の生徒はこの一年間、石神によっていじめられる。優香だけでなく、僕らもいじめられるのだ。
それに石神は、今後『最悪』を引き起こすことになっている。
「それでは、六年生から順番に退出してください」
考え事をしていると、新学期の全校朝会か閉式していた。
教頭先生のアナウンスと共に、今度は六年生から順番に退出していく。他の学年の生徒は、周りの友達や担任の先生と愉快に会話をしながら待機していた。
すると、退出していく六年生に向かって石神がマイクでアナウンスをする。
「えー、すみません。六年生。今日九時集合ですよね。なんで遅れたの?」
そういえば、体育館に入ったときには九時を回っていた。
「まあいいや、下級生待たせてるし。考えといて」
後ろのドアに向かっていた生徒たちは、その場で固まってしまっている。
新学期初日、ここから悪夢が始まる。
教室に戻ると、朝と同じように全員がすぐに席につく。黒板に書かれた文字は、その恐怖を物語っていた。
石神はすぐに教室に入り、改めて挨拶をした。
「今年もどうぞよろしく」
これまでの生い立ちや先生の趣味などの雑談をすることなく、すぐに本題に入った。
「で、なんで遅れたの?」
中身が大人でも、この威圧に圧倒されてしまっていた。
「田中、去年学級委員だったよな。なんでだ?」
石神は優等生だった田中晃を名指しした。
晃はすぐにその場で立ち上がる。
「僕たちの行動が遅かったからです」
晃はクラスの中で最も身長が高い。そんな生徒がいきなり立ち上がると迫力があったが、それでもすぐ直角に腰を曲げて、頭を下げていた。
彼は優等生らしく、反発はしなかった。仮に僕が名指しされても反発なんかせず、ここは逃避するだろう。
「お前ら何様だよ」
怒鳴り声がフロア全体に響いている。
おそらく隣のクラスも、相当怯えているだろう。
理不尽だ。全てが六年生のせいではない。実際素早く列を作り、最速で体育館に向かっている。
「これからは、最上級生の自覚を持って行動しろ」
「はい!」
僕以外の生徒が口を揃えて返事をする。
すると、石神は一呼吸置いて、今度は別の人物を名指しした。
「おい、上田」
呼ばれたのは僕の名前だった。
「は、はい」
「今日何時に来た?」
どうしてか、遅刻したことを把握されていた。急いで立ち上がり頭を下げた。
「すみません…」
「何時に来たって聞いてんの」
ヤクザのような言い回しで、僕に詰め寄る。
「えっと、八時四十五分ごろです…」
「今日何時に集合ってプリントに書いてあった?」
「八時半です」
教室中に緊張感が走る。間違ったセリフや、正しくない選択をした瞬間、即ゲームオーバーの超難関のマルチエンディングのゲームをしているようだった。
「こういう奴がいるから、時間内に行動できないんじゃないの?」
全員が黙って話を聞く。
「まあ、今日は時間がないので、だらしない人は放っておいて、次に移ります。えー、まず…」
ようやく、説教タイムが終わった。こんなの僕らの時代にやったら、一発アウトで親御さんから避難とクレームの嵐になっているだろう。
僕は今日、何度も未来に帰りたいと思ってしまっている。
その後は、春休みの宿題提出を行った。当然四月五日より前の僕は、この宿題に手をつけていない。二日前に来た僕も、こっちの世界について調べていたり、家族と過ごす間に、すっかり忘れてしまっていた。だが石神は、すぐに確認はしなかったのでその場では事なきを得た。
クラスの係決めに移り、黒板に役職が書き出されていく。委員会や号令係のような目立つものではなく、あまり目立たないような役職を望んだが、「遅刻した奴に任せられる役職はない」と嫌味ったらしく言われた。
結果的に何の役職にもつくことはなく望み通りになった。しかし、クラスでは大いに目立つことになり、石神にも目をつけられてしまった。
午前中で今日の日程の全てが終了し、下校の時刻になる。帰りの会を行い、全員が逃げるように急いで下校した。
拓哉と一緒に帰ろうと思い、帰りの支度をしていると、石神が目の前にやって来た。
「おい、ちょっと来い」
石神は、朝からずっと変わらない表情で、僕を凝視していた。言われた通り石神について行くと、見慣れた空き教室に入るように言われた。
その場所は、石神がよく生徒たちを呼び出し、説教を行なっていた部屋だった。その部屋に入ると、思い出したくもない記憶がより鮮明に映し出される。
石神はカーテンを開け、日差しを入れる。教室の電気はつけられていない。
教室は、机と椅子が前方へと寄せられ、中央から後方にかけて大きな空間ができていた。二つの椅子を教室のちょうど中央に向かい合わせて設置し、そこに座るように促される。
「お前、調子乗ってんな」
目の前に座った石神が、喧騒な眼差しで僕を睨む。
「何がですか?」
恐怖心はあった。だが中身が二十六歳の今となっては、小学生のように怯えてるわけにはいかない。
「あ?」
少し驚いたように言う。
「そんなに怒ることですか?」
思い切って反発した。こいつは先生なんかじゃない。
石神は立ち上がり、近くの机を思い切り蹴飛ばした。ものに当たっている姿は初めて見た。
生徒の生意気な態度を見て、相当苛ついているのだろう。これまで子供に反発されたことがないのだろうか。
「まあいい」
意外だと思ったが、すぐに別の話題に移った。
「でだ。ここから山ほどあるんだが…」
「宿題出してない。あと春休み、学区外に一人で行ったなお前。それも自転車で」
宿題を出していないことは把握され、なぜだかホームセンターに出かけたことも先生の耳に入っているようだった。
小学生には一応、一人で自転車に乗って、学区外に行ってはいけないという決まりがある。今の僕の立場が小学生だということをすっかり忘れていた。
石神は、僕が考え込んでいるのを見て先に声を発した。
「え、聞いてんの?」
反発した僕に、勝ち誇った顔をしている。
「すみません…」
「今日宿題終わるまで、学校に残れ。あと自転車乗るの禁止」
怒鳴られると思ったが、先ほど反発したせいか、嫌がらせで終わった。
ふと、なぜ学区外に行ったことを知っているのか気になった。
「あの、なんで僕が自転車で出かけたこと知ってるんですか?」
「学校に通報が入って、特徴から上田だと思って、釜かけたんだ」
あんまり納得いかなかったので、なぜ僕だとわかったのか聞きたかったが、先に先生が口を開く。
「歯向かいたいなら明日から学校来ないでいいから。邪魔」
呆れた表情で威圧する。
だが、なぜかそれは一度目の六年生の頃の記憶の石神と齟齬があるかのように思えた。本当なら、怒鳴りまくって生徒が泣くまで続けるのだが、今回は僕に触れないようにしている。
それからすぐに振り返り教室を出た。
一度目の六年生の時は、学校へ行きたくないと思うほど石神が嫌いだった。だが二十六歳の今の僕には、あの頃のような恐怖心は軽減されていた。
教室に戻ると、拓哉が待っていた。
「まなと、大丈夫だった?」
拓哉はすぐに心配してくれた。
「大丈夫だよ、意外と怒ってなかった」
「心配すんな」と言わんばかりに笑って見せた。
「どうして残ってるの?」
「俺も先生に呼ばれてて、」
拓哉の顔は引き攣っていた。
「もしかして、宿題忘れた?」
「そ、そうなんだよ…」
拓哉は少し間を置いて答えた。ひどく怯えている。石神は誰であろうと容赦はしない。これから拓哉が泣くまで怒られるのかと思うと、気の毒に思った。
そのまま拓哉は、石神がいる教室へ歩いて行った。
拓哉と別れ、石神の言ったことを無視して帰宅した。宿題は家に置いてきているし、何よりも反発したかった。拓哉を待っていようとも思ったけど、石神に説教を受けた後の泣顔を、友達に見られたくはないだろう。
校門へ向かうと、朝と同じように学校には人気がなかった。もう生徒は帰ってしまっているのだろう。
帰り道に石神について考えた。春の日の気候はとても暖かく、午前中で学校が終わったため、通学路にも人はほとんどいなかった。一人で考え事をするにはちょうどいい。
今日の石神の態度を、頭の中で何度も思い返した。あんな人がなぜ先生になれるのか。学校側もあまり当てにできないと、正直思ってしまう。
石神は僕が小学校の頃に教師になりたいと思った要因の一つだ。それは決して憧れなんかではなく、蔑みの感情からだった。
一度目の六年生の頃、今のクラスは怯えた表情で過ごし、学校を楽しいものと思っている生徒は、一人もいなかっただろう。僕もその一人だ。皮肉にもそれが原動力となり、小学校の教員になった。六年間を楽しく過ごせる場所を自分と生徒によって作り出したいと、石神を見て思ったのだ。
石神によって植え付けられた恐怖より、今では憎悪が心の底に湧いていることに気がついた。同じ教師として、子ども達を泣かせているのは耐えられなかった。
恐れていないのであれば、石神に逆らえる。そうすれば、今後起こる『最悪』も阻止することができるかもしれない。
石神にはもう一つ問題があった。
石神は過去に、いやこれから先の未来に『最悪』を引き起こす。
この時代から七年後、石神櫂は自殺することになっている。
二〇一二年、十二月二十二日。とある小学校の生徒が遺体となって発見される。警察は、当時の状況から自殺と推定し、調査を行なっていた。
そうして、同年十二月二十四日。石神櫂の遺体が発見された。自殺してしまった小学生の担任だった石神に、調査をしにやってきた警察が発見したとのことだった。
当時の生徒やその親の証言から、石神が生徒に精神的な体罰を行っていることが発覚し、それが原因で自殺したとマスコミが発表した。
こんなにも早く、「先生によって生徒が自殺した」という事実が確定したのは、石神による遺書の内容が要因だった。
遺書には、謝罪の言葉と、醜い保身の文が並べられていた。
その後マスコミが、石神について詮索し、過去に石神のクラスから、自殺者がもう一人出ている事実が判明する。
このニュースは、クリスマスの話題そっちのけで日本中を騒がせることになった。
これが僕らの担任だ。
こんな先生の下で、もう一度人生をやり直すことを、誰が楽しみにできるであろうか。
改めて覚悟を決めなくてはならない。
クラスを救い、優香を救い、将来自殺する生徒を救う。小学生の僕が石神と戦わなくてはならないのだ。
ただ、教師になったのは、この三つの出来事があったからだ。僕が襲われて、触れて、見たものを、この世から排除するために、教師を選んだ。
なら、足掻くしかない。優香を救い、石神から全てを守るのが、僕の教師としての在り方だ。
それから四月の間、あの別室に連れていかれることはなかった。新学期とは打って変わり、目立たないように大人しく過ごしていた。
まだ一ヶ月も経っていないのに、クラスの半分以上が石神によって泣かされている。小学生らしい間違いやミスを犯した子はもちろん、全校朝会の時のように理不尽に呼び出されている子もいた。
この期間、どのように過去を良いものに変えるかを悩んでいた。
まずやらなくてはならないことは、クラスが石神による支配から逃れる方法を探ることだ。だが、小学生にできることなんて限られている。
未来では石神と同じ職業だ。だから「教員」としての弱点は知っているつもりだ。だがこの時代では、僕の知識が通用しないこともある。体罰や過剰な説教などは黙認されていて、正当に石神を裁けない。
確実に生徒を救うには、石神を免職させることだと思ったが、それはかなり難易度が高い。仮に石神を追い詰めて、問題を起こさせても、学校側に有耶無耶にされてしまうだろう。
そこで考えたのは、石神を辞職させることだった。
教師には、面倒に思う仕事や、辞めたいと思う仕事がいくらでもある。生徒たちで憂さ晴らしをしている石神なら、悩みや不満があるのだろう。そこを突いて自分から退職させるのが一番良い。それに、仮に石神が免職になった場合、今後の石神が何をしでかすかわからない。自分から、教師なんかやりたくないと思わせる事が重要だ。
教師が最も手を焼く問題。それは教室が無法地帯になったときだ。
新学期に呼び出された時、記憶の中の石神と齟齬があった。おそらくそれは、僕が反発したからだ。生徒で鬱憤を晴らす教師は、人を選んでいる。反発する生徒は、面倒に思い対象外なのだろう。なら二組の生徒全員で、石神に反発すればいい。従順な生徒がいなくなれば石神は何もできなくなる。
仮にも元教師の僕はそんなことを考えてしまっていた。
石神によって支配されていたクラスが、一斉に逆らっていく姿を想像し、少し笑ってしまう。
まずは「怖くない」とみんなに示さなくてはならない。そのために、石神に楯突こうじゃないか。
学校の問題児になれば、これは優香の抑止力にもつながる。わざわざ何をしでかすかわからない兄貴がいる妹に、手を出す奴なんていない。
タイミングを見計らい、クラス全員で反発する。一番絶好の機会は、最も先生が忙しい何かのイベントや行事の時だろう。
僕は近じか予定されている、理科のスケッチのための校外学習を目標にしていた。
この学校ではこの時期、六年生全体で理科の時間にスケッチを行う。春の昆虫や草花を、学校の外に出て観察し、図鑑のように描きまとめるのだ。
ゴールデンウィーク中、この日のために計画を立てていた。
理科のスケッチの授業は、班に分かれて行動する。班は自由に決めていいのだが、この計画に賛同してくれる人を選びたい。
人数は三十六人で、六人班六つで構成される。男女合同なので、全員仲の良かった男子にすることはできない。腕白な男子二人と、真面目な女子が二人。そして、少し気になっていた女の子一人で班を組みたい。
その気になっている女の子とは、中島美来という少女だ。
彼女は石神に呼び出されたことが、僕が知る限りでは一度もない。これまで石神に怒られたことがないのだ。最初は先生のお気に入りだと思ったのだが、どうやら少し違うらしい。中島美来は、おそらく石神を全く恐れていない。
一ヶ月に渡ってクラスを観察していたが、彼女は石神が怒鳴っている時も、返事を要求するときも、ほとんど反応していない。にもかかわらず、石神にいないもののように扱われている。運がいいというよりかは、石神が避けているようにすら思えた。今の僕と同じ、石神にとって都合の悪い生徒なのかもしれない。
そんな美来には、どうしても味方になってもらいたかった。
男子には小川理樹と、その友達の佐藤孝彦と同じ班がいい。
彼らは地元の野球チームに所属していて、当時の僕の友達だ。二人とも素行が良いとは言えない。石神が担任になる前は、悪戯や悪さをよくしていた。もちろん四月の間も、石神に何度か呼び出されている。もしかしたら背中を押せば勇気を出して、石神に逆らってくれるかもしれない。
そして女の子だが、二人には僕らが行ったことを、石神に伝えに行ってもらいたい。
今のところ石神に反発する内容は、校外学習に出かけ、時間内に学校に戻らないということだった。先生の監督不行き届きということにもなるし、僕らは恐れていないというアピールにもなる。当然、叱られるだろうが、僕が歯向かえば、素行の良くない二人なら乗ってくれるかもしれない。
これらの計画を立て、五月の理科の時間を待ち望んだ。
校外学習の前日、班を決めることになった。
真後ろの席に座る理樹の方へ振り返りすぐに誘った。
「理樹、一緒に班組もうぜ」
「いいよ。あ、孝彦も入れていい?」
予想通りだ。
拓哉の様子を見ると、すぐに近くの班の子と組んでいたので、やっぱり人気者だなと思った。
他の子たちも徐々に決まっていく。僕はクラスの中央で、だるそうに目を瞬しばたたかさせている女の子に声をかけた。
「美来さん。よかったら、同じ班になってくれない?」
小学校の頃なら、仲の良くない女子生徒に気軽に話すのは考えられないが、今の僕の中身は教師だ。
美来はこちらを向き、頭を下げる。
「ありがとう…」
小さな声でそう言った。
美来は、見た目も中身もすごく大人びている。身長はそんなに大きくはないが、顔立ちも整っていて小学生には見えない。立ち振る舞いなんかも他の子に比べてとても落ち着いた様子だった。クラスメイトと話しているところを見たことがないが、クラスに一人でいる事を全く気にしている様子はない。いつも外から全体を俯瞰しているようだった。
その後は、適当な女の子に声をかける。同じ班になったのは、今年の女子の学級委員の渡辺真美と、その友人の須藤明美だった。
二人は、真面目な性格で、とてもじゃないけど僕と一緒に石神に逆らうような子ではない。真美の方は、一度石神に怒られないように媚び諂っていた。しかし、そんな事が通用する先生でもなく、「性根が腐っている」と叱られていた。
明美の方は友達も多く、真美とも仲がいい。この二人なら揃って報告してくれるだろう。
明日が楽しみだった。未来の僕は残業で、目の前のことで精一杯だったが、目標に向かって計画を立てることは、なんだか楽しかった。それがたとえ、自分の担任の先生を辞めさせようと言う計画であっても。
明日の学校の準備をしていると、優香が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん。算数教えて!」
「いいぞー」
優香は三年生になってから、よく宿題を見せにくる。少し難しいのか、いつも空欄が二、三問ほど空いていた。
「三年生って難しいんだよ。お兄ちゃん、六年生ってすごいね!」
「優香も勉強すればなれるからね」
ふと、いじめが発覚した時を思い出した。
僕が中学校に上がり、助けてくれる人は誰もいなかったのだろう。事実を知ったのは、優香と一番仲の良かった、瑠花が家に訪ねてきたときだった。彼女は僕の家の前で泣いていて、誰かが帰ってくるのを待っていた。父も母も家を留守にしていたので、僕が応対した。
彼女も一緒になって優香を無視した。最初はそれを謝りに来たのだけど、事実を知った僕は、すぐに主犯の女の子の家を聞いていた。
その子の家に向かう途中、学校から帰ってきた優香に遭遇し、僕は引き留められた。
その時の優香の顔を忘れたことは、今まで一度もない。
「お兄ちゃん?」
優香が不思議そうにこちらを見ている。
「どーした?」
優香の頭を撫でた。
「お兄ちゃん最近楽しそうだったんだけど、今ちょっとかなしいお顔したでしょ。」
この頃の優香はよく僕を見ている。すぐに表情や異変に気づかれてしまう。
「してないよ」
「したよ!」
「してないって」
僕の頬を優香は摘む。
「じゃあ、最近楽しそうなお顔なのは、良いことあったから?」
「それは…、なんでそう思うの?」
「だって、前のお兄ちゃん、かなしいお顔よくしてたから…」
本当によく見ている。
僕は一年半もの間、優香がいじめられていることに気づけなかったのに。
「優香が楽しそうだからだよ」
「優香は楽しいよ!」
必ず優香は守らなくてはいけない。なんとしても。
学校から出られるからか、石神から離れられるからか、どちらだかわからなかったが、生徒たちは興奮している。石神は、隣のクラスの宮本先生と他の先生に、校外学習の付き添いを任せ、自分は教室で待機していると言った。
働けよと思ったが、これなら動きやすい。今回は怒られることが一番の目的だった。
スケッチブックと色鉛筆を持ち、校外学習へと出かけた。
理樹と孝彦。真美と明美。僕は美来と並んで歩いていた。
校舎を出て、校門を出る。近くの大きい公園に行けば、大概の人が集まっているだろう。大勢いれば、先生の目は僕らに向かないと考え、僕らの班も公園を目指した。
学校から僕の実家の方へ向かう途中、子供達がよく遊んでいる大きな公園があった。その公園は自然に囲まれていて、遊具があるエリアと、サッカー場くらいの広さの広場があるエリアに分かれている。
その公園に向かう途中、ずっと無言な美来に話しかけてみた。
「ね、美来さんは優等生だよね」
「そんな事ない。一人でいるだけ」
美来は小声でブツブツと言う。
「だけど、先生に怒られたところ、見た事ないよ。先生怖いからさー」
笑いながら聞いてみた。
すると美来は意外なことを呟いた。
「怖いと思ってないでしょ」
美来は僕の顔を下から覗き込み言った。
「え、怖いよ、僕なんかいつも怒られてるし」
少し焦ったが、笑って返す。
「美来さんはどうなの?」
「同じ、怖くない」
「怒られた事ないもんね。泣いちゃうよ、あれ」
もう一度笑ってそういうと、美来は小さく答えた。
「怒られたことあるよ」
美来が説教を受けていたのは意外だった。
「でも怖くないよ」
今度は美来が笑って返す。
やはり美来は石神を恐れていないのかもしれない。この年であれが怖くないのは、異常ではあるが、あまり深くは考えなかった。
公園に着くと、生徒の大半がそこにいた。春の生物や木々を観察するのに、この場所はうってつけなのだろう。
遊具の周りを木や花壇で囲むように自然が設置されている。それはどこか人工的だったが、一つの自然をピックアップする分には丁度いい。
班員は少し距離をとり、各々の描きたかった標的を探す。正直、スケッチはどうでも良かったので、美来が座った隣に腰を下ろした。
以前の僕には美来と話した記憶がない。小学校の頃は、決まった仲間としか打ち解けることができず、自分からは積極的に話すタイプではなかった。美来も僕と同じで、自分からは決して話さない。当然そんな二人が仲良くなることはなかった。
スケッチを一通り終わらせ、美来の描いているものに目を向ける。
「すごい上手だね」
「ありがとう」
美来が描いたのは桜の木だった。五月にもなると、花は枯れて、緑色の葉がついている。だが、美来の絵は、満開の桜よりも繊細で、僕の目には美しく映った。
「あのさ、ちょっと教室に帰らないで見ない?」
率直に聞いてみた。
「なんで?」
「なんか楽しそうじゃん」
断られるかと思ったが、美来は首を縦に振った。素直に応じてくれるようだ。
その場で僕らは立ち上がり、理樹と孝彦の方へと振り返る。だがその公園には、すでに理樹たちの姿はなかった。真美と明美は、スケッチに夢中でまだ気がついていない。
少し焦ったが、冷静にそのことを二人に知らせた。女の子達はすごく引き攣った表情になり、同時に理樹達に怒っていた。巻き添えを喰らうと思ったのだろう。
「先生に伝えて来て」と頼んだら、素直に「わかった」と二人は学校へ戻っていった。
理樹達が何をしているのか不思議に思った。石神が見ていないところで、彼らは勝手に悪さをしているのだろうか。教師だった時の自分で、彼らを考えてしまっていた。
どっちにしたって戻る予定ではなかったので、理樹と孝彦を探すことにした。
「やっぱり怖くないでしょ」
美来は少し笑いながら聞いてきた。
「まあ…」
美来の表情にも恐怖は感じられない。
「なんでこんなことするの?」
美来はもう一度聞いてきた。さっきの僕の発言に納得していないのだろう。
「うーん、先生が嫌いだから」
正直に美来に話すと、続けて質問をされる。
「なんで嫌いなの」
「生徒を二人も殺すから」とは言えず、別の解答を探す。
「先生として、間違ってるから」
「何が間違ってるの?」
美来は再び質問をしてきた。
「え、何って、必要以上な叱責だったり、指導だよ。みんな怖がってるから…」
そういうと美来は下を向いて、小さな声で呟いた。
「私は、怖いの、必要だと思う」
それから僕らは、無言で理樹と孝彦を探した。
美来の言っていることはわからなかった。怖いのが必要。何のために。石神はあの恐怖で人を殺すのだ。必要なわけがない。
何度考えても、美来の言っていることは理解できなかった。美来が石神のことを肯定しているのかと思うと、不思議に思えてしまう。
結局、理樹と孝彦を見つけられないまま、僕らは学校へ戻った。
教室に着くと、戻らなくてはいけない時間から三十分ほどが経過していた。黒板には先生の文字で、「戻ったら座って待っていなさい。」と書かれている。同じ班の真美と明美に、石神の行方を聞いた。だが二人が戻ってきた時にも、教室にはいなかったとのことだった。理樹と孝彦も、席にはいない。まだ帰ってきていないのかと思ったがその時、フロア中に聞き慣れた怒号が響く。どうやら理樹たちは石神に捕まったらしい。
席につき石神が来るのを待っていた。授業時間が終わる数分前に、石神が教室に入る。理樹と孝彦はまだ戻って来ていない。
「時間内に戻んなかったやつ」
クラスのみんなは下を向き、全員が怖がっていた。
「はーい」
僕は少し舐めた態度で返事をした。
「チッ」と舌打ちをし、呼び出される。
下を向いていた生徒が僕の方を見て、目を丸くしている。これで石神を恐れていないということが、みんなに伝わってくれていると、今後の計画にかなり作用すると思うのだけれど。
頭の後ろで両手を組み、ゆっくりと石神の方へ歩いていった。
すると、美来も右手を上げた。美来は生意気な僕の態度を見て、小さく笑っている。
これで美来が、石神を怖がっていないことが確定した。
こうして、僕らは二人揃って石神の後をついていった。
空き教室に入ると、理樹も孝彦もと泣いていた。
「ごめんなさい…」
それをずっと口にしている。
「帰りまで立ってろ」
理樹と孝彦はそう言われると、謝りながらその教室から出ていった。
下校の時間まで、あと三時間ほど残っている。こいつは本当に教師なのかと思ってしまう。
僕ら二人を椅子に座らせ、こっちを睨む。そうしてため息をついて、面倒くさそうに言う。
「上田、何考えてんだ?」
石神は少し疑問に思っているらしい。それに楯突き反撃する。
「いえ、何も!」
お退けた調子で言ってやった。美来はそんな僕を見て、またクスクスと笑っていた。
石神は驚いた顔で僕らを見ている。もう一度舌打ちをし、石神は口を開く。
「調子に乗るなよ。よし戻れ」
相当煩わしいのか、僕には何も言ってこない。従順な生徒にだけ強く当たる石神に、ますます腹が立った。
教室を出てから五分ほどして、美来も戻ってきた。廊下で待っていた僕が「どうだった?」って聞いたら「叱られた」と笑って答えた。
これ以降、美来と同じように石神に無視されるようになった。やはり僕らのような問題児を石神は避けている。
夏休みが始まる前、テストが返却された。全教科八〇点代を取り、少し安心した。間違って満点なんか取った日には、いよいよ疑われるだろう。この頃の僕の成績はひどいものだった。
テストが終わり、夏休みに向けてクラス中が浮き足立っていた。僕が経験した一回目の六年生は、一年を通して殺伐としていた気がするが、最近では少しだけ明るくなったのを感じる。
しかし、石神の性格は変わらない。この三ヶ月で、呼び出しを受けていない生徒はいなくなっていた。
校外学習の日から、僕は美来のようにいないもののように扱われ、一度だけ呼び出されたことはあったが、その時もすぐに解放された。
今学期最後の授業で、「将来の夢」について話し合うことになった。小学校の卒業が近づき、将来のことを生徒達が考える機会だ。近くの席で班を作り、各々の夢を語り合う。
石神は気怠そうに、教卓の横に椅子を置き、座りながら目を瞑っていた。石神の監視がないとみると、クラス中が少し騒がしくなる。
「愛斗、将来何になりたいの?」
「教師かな」
理樹は少し驚いた表情をしている。周りの班員も「マジで」という顔をした。
「あの先生見て教師になるのかよ…」
「あの先生見たからだよ」
僕らは小声で、聞こえないように話をする。
「小学校の先生?」
「うん。子供達を導きたいんだよ」
二十代の時の気持ちを話してしまった。
「でもさ、給料は低いんじゃない?」
理樹は無邪気にそう言った。
「そうかもね。でも校長先生とかになれば、結構もらえると思うよ」
僕は親指を立て、笑顔で言った。
「理樹は何になるの?」
「もちろん、野球選手!松本みたいなすごいピッチャーになるんだ。まなとは、野球で好きな選手いない?」
正直、野球にはあまり興味がなかった。話を合わせるために、すごく有名な選手を言った。
「大川翔太とか?」
「誰それ、どこの球団?」
誤って、二〇二〇年のメジャーリーガーを言ってしまった。当然今はまだ、中学生か高校生だろう。
「二軍の選手なんだよ。お父さんの知り合いで」
「へー、お父さんは野球やってるの?」
話題が切り替わりほっとする。
「いや、同級生だったかな?」
「それじゃ、俺らみたいな感じか」
理樹はこっちを見て笑っている。
「理樹ならなれるよ」
「愛斗も教師になって、あいつより偉くなれよ」
二人で、眠っている石神を見て小さく笑った。
「夏休み、みんなで遊ぼうよ」
「いいね、秘密基地作ろう!」
僕らは向かい合い、今度は何も気にせずに笑いあった。
それから下校の時刻になり、僕は拓哉と二人で教室を出た。理樹と孝彦は、家の方向が違うため、その場で別れた。
「拓哉、夏休み理樹たちと遊ぼうよ」
「いいよ。土日以外ね」
クラブの活動があるのだろう。
「理樹たちも野球じゃない」
「そっか。あ、愛斗イーグルまだ入らないのかよ。キーパーやってる子、三年生なんだよなー」
イーグルとは、拓哉が所属するサッカーチームだ。
僕がこの後の人生で、サッカーをやる事はなく、中学に上がって部活でバスケットボールを始める。
バスケットボールは、二〇二〇年の頃には、かなりメジャーなスポーツになっているのだが、今はまだ、サッカーや野球に比べてプレー人口は多くない。小学校のバスケットボールのクラブは、地元には一つもなかった。
「実はさ、バスケに興味あって…」
「え、まじ?」
拓也は驚いた表情を向ける。
「ここら辺にバスケできるところはあんまりないんだけど、中学からやろうかなって」
少し申し訳なく思った。
「よかった。愛斗絶対スポーツやった方がいいと思ってたんだよ」
意外だった。少しがっかりすると思ったが、本気で応援してくれている。
「じゃ、夏休みは中学に向けて特訓だな」
「キーパーやってほしいだけだろ」
拓哉の背負っているランドセルを軽く叩いた。
「バレた。じゃ、両方特訓だ」
理樹が将来どうなるかは知らない。拓哉は大手の企業に入社し、独立リーグでプレーしていると耳にしたことがある。こんなにも多くの時間を共に過ごしているにも関わらず、将来はほとんど関わることはない。それを思うと、少しだけ寂しい気持ちになった。
せっかく過去に戻れたんだ。正直、今は精神年齢が合わない子がほとんどだけど、思い出話を持ち帰ろう。元の世界に戻った時に、本当の同窓会を開く。そうしたら持ち帰った記憶で、僕らはまたこの頃に戻れる。綺麗な思い出に替えるために、この一年間戦わなくてはならない。
夏休みが始まる。クラスのみんなはまだ石神を恐れていた。だけど少しずつだが、状況が変わってきたのがわかる。僕の姿をみて、戯れやふざけ合いは多くなってきている。だが、石神を目の前にすると萎縮してしまう子がほとんどだ。どうにかして、クラスで立ち向かいたいのだが。
美来や僕のように振る舞えれば、石神は手を出してこない。従順な生徒に強く当たるのは、教師としてストレスや不安を抱えている証拠でもある。
辞職させるためには、クラスのみんなにも反発してもらわなくてはならない。
夏休みの間は、なるべくクラスメイトと会い、仲良くなる必要があった。そうすれば僕のこの計画に賛同してくれるだろう。今のクラスももちろん救いたい。だが、辞職させる主な理由は、七年後の生徒の自殺を止めることだ。
そういえば、『過去に石神のクラスから自殺者が出ている』とニュースが流れていたけれど、この時代よりも後に起こることなのだろうか。もしそうなら、二人の生徒を救うことにもなるだろう。
七月の最終日。自分の部屋にこもり、どのようにみんなで反撃するかを考えた。まずはみんなに勇気を持ってもらうことが最優先だった。
真剣に悩んでいると、玄関から「いってきます!」と優香の声が聞こえてきた。
リビングに降りて行き、母に優香がどこへ行ったかを聞いた。
「優香なら、公園で瑠夏ちゃん達と遊ぶって」
当然石神の件だけでなく、優香を守らなくてはならない。
「僕も友達と遊んでくるね」
母にそう言い、優香の現在の状況を確認しに出かけた。
この頃、優香が誰と遊び、何をしているのかは知らない。もしかするともう既に、いじめの原因が生まれているのかもしれない。
いじめとは曖昧なものだ。自覚していないだけで、弄いじりや悪口などは発生している可能性があった。
優香は、校外学習の時に行った公園に出かけたらしい。僕が通っている小学校の生徒は、大体がその公園で遊んでいる。
近くにある小さなスーパーに立ち寄り、飲み物を買ってから優香を見張ることにした。
「愛斗君」
聞き覚えのある声で、話しかけられる。
「美来さん。なにしてるの?」
「買い物」
「そりゃそうだよね」
少し気まずかった。校外学習のあの日以来、ほとんど会話をしていない。
「愛斗君は?」
「買い物」と答えようと思ったが、なぜだか美来に、これからすることを話したくなった。
「妹がどんな友達と遊んでるのか気になってさ。今から見に行くんだよ」
美来はそれを聞くと、一歩引いて眉間に皺を寄せた。
「いや、悪い友達と遊んでないかなって」
両手を胸の前で左右に振り、慌てて理由を説明する。
「妹さんとは仲良いの?」
「もちろんだよ」
美来はそれを聞くと何かを迷い始めた。数分経ってから、美来が口を開く。
「私も行っていい?」
「え?」
結局、僕らは二人で見張る事になった。美来は、また帰りに立ち寄ると言って買い物はせず、二人分の飲み物だけを買って、公園へ向かう。
美来と散歩をするのは二回目だ。前回は石神の話をしながら歩いていた。美来は最後に「怖いのは必要だ」って言っていたけど、あの答えはまだ出ていない。
「愛斗君は変わった人だね」
今回は美来が先に話しかけてくれた。
「心配なだけだよ」
「何が心配なの?」
前回話した時もそうだったが、美来は質問が多い。他人の感情を理解するのが苦手なんだろう。といっても二十六歳が考えてることなんてわからないか。
「悪い男についていったり、誰かに仲間はずれにされたりするかもしれないだろう」
「それは心配だね。確認しなきゃ」
美来は優香に興味があるようだった。
「愛斗君は、以前と違う人みたい」
「そうかな?校外学習から、まだ三ヶ月しか経ってないよ」
「ううん、もっと前よりってこと。前はあんまり考えてなさそうだったから」
美来とこうやって話すのは、初めてのはずだ。三年生と四年生の時に、確か同じクラスだったと思うのだけど、話した記憶はない。だが今の美来の発言は、以前の僕と話したような口ぶりだった。
「あはは、確かに。でも、石神のクラスなら嫌でもこうなるよ」
美来は一瞬下を向いた。
「美来さんは、前から大人っぽいよね」
美来みたいな子はたまに見かける。教師をやっていた最初の年、初めてクラスを持った時にも、こう言うタイプの女の子はいた。その子は、クラスの友達や学校での行事に関心を示さず、いつも違う方向を見ているようだった。その態度が他の子を馬鹿にしているように映ったのか、その子もクラスで馴染めずにいた。
「私たちは、大人だね」
美来は色っぽく笑っていた。
公園に着くと、優香は友達と遊んでいた。優香を含めた四人の女の子が、広場に寝転がり、笑い合っている。その中には、いじめの主犯の女の子も、泣きながら家の前で待っていた、瑠夏という少女もいた。
美来と僕は、遠目からじっと彼女達を見つめていた。
夏休みの公園は、気温が上がり、立っているだけでも辛いのに、子供達が大声を出してあちこちで遊んでいる。先ほど買った飲み物は、着いたばかりなのに半分ほどになっていた。
公園の広場で寝転がったあと、優香達は花冠を作り始めた。
女の子の遊びは次々に代わっていく。男の子の遊び方と、女の子の遊び方は別のものだ。男の子は決められた時間精一杯を使い、一つのことに没頭することが多いが、女の子は、中心の子の号令で遊びをコロコロ変える。周りの女の子はそれに文句も言わないし、楽しんでいるので問題ないのだが、男の子は耐えられないだろう。
優香を入れた四人の女の子は、シロツメクサで花冠を作り、クリスマスのプレゼント交換のように右隣の子へ渡す。今の状況だけでは、とても一人の女の子を無視したり、仲間はずれにしたりするようには見えない。しかし、実際一年後にそれは行われてしまう。
教師の目は子供が思っている以上に鋭い。暴力や悪口を察知すると、僕らはそれに焦点を当てる。それが悪ふざけや喧嘩の類なのか、それとも加害者と被害者の「いじめ」という関係になってしまっているのか、後者ならばすぐに仲裁に入る。
だが、陰湿なものはわからない場合も多々存在する。僕は以前、優香がいじめられた時に、優香の担任を恨んだ。どうして見ていてくれないのか。近くで見ていた先生が、なぜ対処しなかったのか。しかし、先生になって気づいたが、見抜けないものもある。無視や仲間はずれは、生徒達に上手く振る舞われると、大人の先生でも気づくことができない。そして、その陰湿さは、女の子の方が多い気がする。
考え事をしていると、美来が僕の袖を引っ張った。
「愛斗君は妹を見張って遊ぶの?」
「勘違いだよ。知らないおじさんとか怖いだろう」
もう一度揶揄われ、慌てて僕は答える。
「過保護」
やっぱり美来は賢い。それに小学六年生とは思えないほどに大人っぽい。僕は美来と喋っている時、ついつい二十六歳の頃の自分で話してしまっている。
「ねー、妹さんはどれ」
「あれ」
僕は手を一直線に伸ばし、優香を指差す。美来は照準をあわせるため、僕の手に顔を乗せた。
「あの赤いTシャツの子?」
「その左のワンピースの子」
僕がそういうと「あの子ね」と言って少し離れる。
美来はしばらく観察し、考え込んでいた。そうして数分後に、僕には思いもよらないことを言った。
「愛斗君、妹さんあのグループから抜けた方がいいよ」
「えっ」
僕は驚き、美来の方に正対する。
「どうして?」
「うーん、赤のTシャツの子いるでしょ。あの子と妹さんは合わないと思うの」
信じられない。優香をいじめた主犯の子を、美来は見抜いたのだ。
しかし、僕も先ほどからよく見ているが、今の時点で変わった様子はない。四人とも楽しそうに笑い、仲睦まじい関係に見える。美来はなぜ、彼女らがこれから崩壊することを予想できるのだろうか。
今度は僕が続けて質問をする。
「どうして合わないと思うの?」
美来を少し探るように聞いた。
「うーん。それはなんとなく」
こんな遠くから雰囲気だけで、他人の裏の感情がわかるものなのだろうか。不思議に思っていると、美来が付け足して答える。
「見たことあるの…」
「見たことある」とはどういうことだろう。
今回も美来の真意はわからなかった。
そうしてしばらく四人を見ていると、優香が僕らを発見した。他の三人と話した後、優香だけがこちらに向かってくる。
「お兄ちゃん。あ、初めまして優香です」
優香が美来に自己紹介をする。
「初めまして、中島美来です」
美来も丁寧に頭を下げる。
「お兄ちゃんの友達ですか?」
優香は美来に聞く。それには僕が答えた。
「そうだよ。今年から仲良くなってさ」
「お兄ちゃん最近、楽しそうだもんね」
優香は美来を見ながら笑った。
「みんな待ってるから戻るね!」
僕と美来は手を振り、優香は遊びに戻っていった。
「楽しく、遊んでると思うけど」
「うん。だけど、やっぱり、あの子とは合わないと思う」
その時に見せた美来の表情は、どこかで見たことのあるものだった。
そのあと僕らは、もう一度スーパーへと戻り、美来の買い物を手伝った。今日は美来が、お母さんに料理を教えてもらう日だったらしい。
美来のご両親は共働きで、買い物は美来が担当しているそうだ。
買い物を終え、美来の家まで送っていくことにした。かなりの量の荷物だったので、半分ほど請け負った。こんな荷物をいつも一人で持って帰っていると思うと心許なかった。
「今日はありがとう」
家の前でお礼を言われた。
「こちらこそ。変な遊びに付き合わせてごめんね」
僕がそういうと、美来は嬉しそうに笑う。
スーパーから美来の家まで、僕らはたわいもない話をした。今日の夕飯のメニューや、優香が好きな物の話だ。公園での話はしなかった。
最後に、僕がずっと気になっていたことを聞いた。
「怖いのが必要ってどう言うこと?」
今日は僕の方が質問ばかりしている。
しばらく考えた後、美来は悲しい表情で言った。
「みんな、大人じゃないから」
その美来の顔を見て、僕はそれ以上聞くことができなかった。
最後に美来は、僕の顔をじっと見詰めて、不安な表情を浮かべ忠告した。
「愛斗君、気をつけてね」
「何が」って聞き返そうとする前に、美来は「帰り」と言った。
夏休みに美来と会うのは、この日が最後になった。
夏休みも八月に入ったが、僕の計画は難航していた。
一度計画を整理すると、まず、石神櫂は自分の都合の悪い生徒を除外する。僕と美来がそうだ。逆にいうと、それ以外の生徒は、石神の憂さ晴らしに付き合わされている。その生徒達を救い出し、石神櫂に自分の思うようにいかないと思わせる必要がある。
僕は四年間担任として見てきたが、生徒達が言うことを聞かなくなり、学級崩壊した時が、一番先生にとってダメージが大きい。生徒達よりも自分が偉いと思っているタイプの教師は、こうなった時に生徒に寄り添うことができなくて、心が決壊してしまう。僕はこれを狙っていた。そうすればこの先、石神が教室という場所に関わることはなくなり、七年後に起こる生徒の自殺を止めることができる。
だけど、これには一つ問題があった。石神を恐れて、僕に賛同してくれない子が一人でもいると、その子が石神に狙われやすくなってしまう。石神に歯向かい、辞職に追い込むなら、二組から従順な生徒を一人も残してはならない。
それを踏まえて、夏休みにはなるべく今のクラスの生徒たちと遊び、仲良くなる必要があった。
拓哉や理樹はもちろん、クラスの女の子や過去の自分なら関わっていないだろうと思うような子も遊びに誘った。結果として僕は、「以前の六年生」より、「今の六年生」の思い出をたくさん作ることになった。
僕の中身は、二十六歳だ。付き合わされる遊びは、幼稚なものもたくさんあったが、それはそれで新鮮だった。大人になって全力で走ったり、笑ったり、好きなものを素直に話す機会はほとんどなかった。遊びというよりは、教師目線で小学生を見張るという役割に近かったが、気付けば全力で楽しんでいる自分がいた。
約束通り、拓哉とは練習をした。ほとんどサッカーの練習で、キーパーをやらされたのだが、拓哉はバスケットゴールがある公園を僕に教えてくれた。
五回に一回の割合で僕らはバスケをした。拓哉はバスケをやっても、中学校でレギュラーを狙えるくらい上手だった。
理樹や孝彦とも、もちろん遊んだ。秘密基地を作ったり、キャッチボールをした。野球の道具を持っていない僕に、キャッチャー用のグローブを貸してくれた。どうしてキャッチャーなのかを聞くと、「ボールを受け止めるのが上手いから」と拓哉との練習を考慮してくれた。
僕らは家の中ではほとんど遊ばなかった。家に集まっても、結局外に飛び出して、遊びを見つけ出す。十五年後の小学生とは、なんだか別の生き物のように思えた。
数人で遊ぶ日もあったし、大勢で鬼ごっこなどをして遊ぶ日もあった。青春の一歩手前のような感覚が、確かにそこにはあった。
夏休みの中盤、僕らはいつも遊んでいる公園に集まった。そこには男女合わせて十五人ほどの大勢のクラスメイトが仲良く遊んでいる。
僕の計画をみんなに協力してもらうための絶好の機会だと考えた。
一日中公園を駆け回り、気づけば夕方になっていた。五時半を知らせる鐘の音が、時計台から流れ始める。その合図に合わせて、公園にいた下級生や子供を連れたママさんらは一斉に帰り始めた
。
僕らはその公園に残り、中央にある砂場に腰を下ろして円を作った。
「夏休み、もうすぐ終わっちゃうね」
「まだ、三週間あるよ」
「宿題終わった?」
「うちのクラスはみんな終わってるよ」
各々がそれぞれの話をする。
このクラスには不思議な団結力があった。僕が元の世界で担任を持った時も、ここまで仲のいいクラスは見たことがなかった。
僕はみんなに話を聞いてもらうため呼びかける。
「みんな」
「…」
クラスメイトが静かに僕の方へ向く。
「今のクラスはどう思う」
まるで先生のような口調でみんなに問いかけた。
「どうって最悪だよ」「先生が嫌い」「先生怖い」
みんなが意見を言うが、不満の対象は全て石神に向けられた。
「僕も先生が嫌いだ。教師としてあんな態度は許されない」
思っていることを隠さずに言う。
「だからみんなで、先生に逆らうんだ」
この先で、石神櫂は生徒を自殺に追い込む。それを止める為に今まで考えてきたが、それだけじゃない。今のクラスメイトを、僕は守りたい。本来学校は学びの場だ。僕らは学校で楽しいということを学べていない。全員が怯えて、警戒している。それは絶対に間違ったことだ。
「でも学校に報告しても、そんなことないって言われちゃうよ」
以前、二組の親御さんが学校に追求しに来たと聞いたことがあったが、この子の親だろう。一度どうにもならなかったその子は、諦めた表情をしている。
「確かに…」
全員が暗い顔になる。
「いや、大人の力は借りない。僕らで石神を困らせてやればいいんだ」
もう一度、生徒たちは顔を上げた。
「どうやって?」
「簡単だよ、石神の言うことを聞かない」
少なからず、石神の問題行動をここにいる生徒の両親は知っている。だからホームセンターであったときの拓哉の母親も、僕が怪我をすることよりも、学校に通報されることを心配していた。
「そんなことしたら、先生をもっと怒らせちゃうかもしれない」
今年も学級委員をやっている晃がそう言った。
「大丈夫。僕は何回も先生に逆らってる。自分の思い通りに行かない生徒に、先生は何もしてこない。美来も僕も避けられてるんだ。あいつは、弱いものいじめをしているだけだ」
僕は石神が怖くないこと、そして卑怯であることをみんなに話す。
「え、中島さんが逆らったの?」
校外学習で同じ班だった明美が言った。
「校外学習の日、僕らは帰りが遅かっただろう。あれは先生に逆らう為だったんだ」
みんなが驚いて、相談している。
「何も先生に暴力を振るうわけじゃない。物に当たったり、貶(けな)してきた時に反撃する」
みんなは僕の話を真剣に聞いてくれている。
「僕は学校に来るなって言われた」
一人の男の子が言った。
「私はあの先生に一日中立たされた」
徐々にここにいる生徒らが賛同していく。
だが、ここまで生徒達に嫌われているのは、少し気の毒に思った。
今のクラスの生徒達は、我が強い子があまりいない。それは石神にとって良いようなおもちゃになりやすいということだ。だけど多分、自殺した子は石神に弄ばれ、周りにも助けられることなく死んでいったのだろう。幸いにもこのクラスは、僕と美来を除いた全員が、石神に従順だった。だからこそ、助け合い、今まで自殺に追い込まれるような生徒は出なかった。被害者を出さない為にも、クラスで戦わなくてはならないのだ。
「これから僕らがやることは、みんなで協力しないといけない。一人でも先生に対抗できない子がいれば、たちまちその子だけが狙われることになる。だからクラスのみんなで先生に対抗しよう」
全員が頷いた。
「実際、どうやって困らせる?」
拓哉が言った。
以前から考えていた作戦を話す。
「まずは、何をされても弱いところを見せちゃダメだ。勇気を持って、平然を装うんだ。さっきも言ったけど、弱い物いじめなんだよ。自分の都合が悪くなれば、関わってこないさ」
「平然を装う?」
孝彦は首を傾げている。
「平気なふりをするってこと、何も感じないぞって」
真美が説明してくれる。
「そう。屈しない姿勢を見せていこう」
「でもやっぱり怖いよ」
隅にいた女の子はまだ怯えている。
「大丈夫、一人じゃなければ怖くない。呼び出される時は二人以上で行くんだ。それに、本当に怖かったら、僕も行く」
怖がっている女の子も笑顔を見せてくれた。
「わかった。俺やるよ」
「私も」
「僕も」
ここにいるみんなは協力してくれるようだ。あとは、今いないクラスの子にも協力してもらう必要がある。
「夏休み中に遊んだ子に、今の話を伝えてほしい。もしもできないと言う子がいたら、それは僕に伝えに来てほしい」
全員がもう一度大きく頷く。
最近、僕の六年生の頃の思い出が、良い思い出へと替わっていくのがわかる。だが、まだ他の生徒達は、この一年が最悪な一年として記憶されてしまっているだろう。クラスのみんなで新たな一年を刻む為にも、石神の支配から逃れなくてはならない。
僕らは円を縮め、真ん中に集う。全員で手を合わせ、空に向かってその手を上に挙げた。
八月二十四日、十二歳の誕生日がやってきた。本来なら二十七歳になるのだが、現実に戻れてはいない。だが今となっては、このタイミングで戻りたいとも思えなかった。
よく映画や漫画では、自分の誕生日なんかに強制的に元の世界に戻されてしまう。僕は昨日、それが少しだけ怖くて眠れなかった。しかし、朝起きても普段と変わったところはない。十一歳が十二歳になっただけのことだった。
その日の夜に、家族で僕の誕生日会を開いてくれた。
「愛斗、誕生日おめでとう!」
ケーキの上には蝋燭が一二本刺さっていた。それらの蝋燭の火を一度で吹き消して、拍手が起こる。僕は正直、照れくさかったが悪い気はしなかった。みんなが笑顔で溢れていたので、すごく心地のいいものになった。
すると、優香が後ろに手を回し、僕の方へ近づく。
「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう。」
僕の前に差し出されたのは、一つのスケッチブックだった。
「中見てもいい?」
「うん!」
そのスケッチブックを開くと、中には十五枚ほどの絵が挟まっていた。その絵のほとんどに、優香と僕の絵が描かれていた。一枚一枚丁寧にページをめくる。
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
最後のページには、僕と優香だけでなく、美来が描かれていた。もちろん絵の横には「ミク」の名前が入っていた。
「これは、この前の?」
「そうだよ、お兄ちゃんを笑顔にさせてくれた人でしょ」
少し違う気もするが、僕は素直に頷く。
それを聞いた両親が、すぐに揶揄からかってきた。
「愛斗の好きな子?」
「と・も・だ・ちね。」
僕がそういうと、みんなが一斉に笑った。
「愛斗、女の子は守ってあげないとダメだぞ」
父は今日もほろ酔いだ。
「守ってもらったことないよねー」
母と優香は顔を揃えて笑っていた。
美来は僕が守らなくたって大丈夫だ。彼女は他の生徒よりも早熟で、自分で考えられる。そんなことを心の中で呟く。
両親には、バスケットボールを買ってもらった。僕がバスケをしていることを知っていたのは不思議だったが、素直に受け取った。
改めて、僕は過去に戻れて幸せだと思った。子供の時は、これが当たり前だと思っていたが、今では感謝に思う気持ちでいっぱいだった。
社会に出て働くことを平気で成し遂げる父に、家の家事を全て一人で担っている母。僕は一度経験したからこそ、その大変さを知っている。
この状態を途切れさせてはいけない。今年で、この輝いていた幼少期を終わらせてはいけない。