僕が「教師」という職業に就くことになったのは、決して何かに憧れていたからなんかじゃない。全てが信用できなかっただけだ。
子ども達と特別仲が良い訳でもないし、憧れの先輩や、可愛い後輩なんかも別にいない。毎日のように残業をし、精神的に疲弊していた。職員室ではいつも一人だし、そうなるように仕向けていた。
だけど、明確な目標だけはある。そのためにこの道を選んだんだ。
僕が今まで、襲われて、触れて、見たものを根絶するために、僕は教師になったんだ。
意識を取り戻した時、卒業した小学校の昇降口の前に横たわっていた。
目の前には僕が勤めている小学校よりも、一層広い校庭が広がっている。その校庭を囲む、満開の桜の木は、新学期を祝うかのように並べられていた。月明かりに照らされた夜の桜は美しく、生暖かい風が僕の横を通り抜けていった。
すぐに異変に気づいた。どう考えてもおかしい。
当然、勤めている小学校は卒業した母校なんかじゃない。ついさっきまで、勤め先の都内の学校で一学期のテストの作成をしていたはずだ。それに、桜が満開なのもどうかしている。今日は六月十九日だった。いつの間に、何十キロも離れた母校に来て、居眠りなんかしているんだ。
肌で感じるもの、目で捉えたもの、全てが違和感で溢れていた。
昇降口の前でたじろいでいると、職員玄関から見たことないおじさんがやってきた。
「君、なんで学校にいるの?」
作業着を着た大きなおじさんは、不思議そうに僕に話しかけてくる。
「君」と言われて、正直無礼に思った。そりゃおじさんからしたら僕は若造かもしれないけど、一応これでも社会人四年目の…
「まだ春休みだと思うけど」
不審そうな顔で聞かれた。
今日は六月中旬。にもかかわらず桜は満開で、おじさんは春休みと言った。
「え、今日何日ですか?」
声がうまく出せない。風邪を引いたのか。
「四月五日だね。今年から何年生になるんだい?」
この人はさっきから何を言っているのだろう。四月五日。春休み。君。何年生になるんだい。
その時、僕はおじさんの後ろにある、昇降口の窓ガラスを凝視した。
そこには月明かりで反射した、自分の姿とおじさんの背中が映っている。その自分の姿を見て、僕は驚愕した。
「おじさん…」
「どうした?」
「今って何年でしたっけ?」
恐る恐る訪ねた。
「二〇〇五年だよ」
僕、上田愛斗(うえだまなと)二十六歳は、どういうわけか十五年前の過去に飛ばされていた。
何もかもが信じられない。こんなことがあっていいのか。過去に来てしまったのだ。
どう考えても現実的じゃない。こんなことフィクションの中だけだと思っていたが、どうやら実際に起こるらしい。
そんな時にふと思いたった。これが夢だと言うことを。どうして最初に思わなかったのか。あまりにも現実味を帯びている世界だったため、夢であると自覚するのに時間がかかってしまった。
両頬を思い切り摘み、映画やドラマでよく見るワンシーンを再現した。しかし、その後の展開も、映画やドラマと全く同じで、僕が目を覚ますことはなかった。
そんなふうに、僕が夢から目覚めるためにあらゆる手段を講じている最中、おじさんは気に留めることもなく質問をしてくる。
「それで、どうして学校にいるんだい?もう七時になるよ」
怒ってはいないが、呆れている。
「あ、えっと…、先生に呼び出されてしまいまして…」
そういうと、おじさんは表情を露骨に曇らせた。
「そうか、あの先生の…、君も大変だね」
さっきまで懐疑的だったおじさんは、僕を車で送ってくれると言った。
とりあえず、この場は流れに身を任せることにした。
学校から家まで、車で十分ほどの道のりを、窓から覗きながら実家へ向かった。おじさんに家の位置を説明しなが、自分の故郷を確認する。
朧気な記憶を思い出しながら、道案内をした。言った通りの街並みと建物が、窓の外に流れていった。夢にしてはとても鮮明で、気を抜くとすぐに現実だと錯覚させられる。
家に着くとおじさんは「新学期は寝坊するなよ」と言って帰っていった。必死に小学校の頃の記憶を漁ったが、おじさんのことは思い出せない。
玄関の前で、数分停止した。夢であると考えたいが、手に握られた尋常じゃない量の汗の感覚は、現実そのものだった。
三年ぶりに帰ってきたと言っていいのだろうか。大学を卒業し、小学校の教員として働いてからというもの、一度も実家に戻ってきていない。忙しかったのもあるが、あまりこの家に帰りたいと思えなかった。
玄関のドアを開ける。当時のように鍵はかかっていなかった。途端に懐かしい実家の風景とカレーの匂いが、緊張を吹き飛ばしていった。本当にこれは夢であるのだろうか。
少し躊躇ったが、久しぶりの言葉を口にする。
「ただいま…」
部屋の奥から「おかえりー」という声が小さく聞こえてきた。リビングに入ると、「遅かったわね」と若返った母親がキッチンから顔を覗かせる。あまり変わっていない父親は、ソファーに座り、テレビを見ていた。
「六時までには帰ってくる約束でしょ!」
母は少し怒った表情で、僕を睨みつけた。父はテレビを見るのをやめて、「おかえり」と笑っていた。
夕飯前に父がお酒を嗜んでいるのを見て、本当に過去に来たのかもしれないと思ってしまう。
「ご飯だから手洗ってきなさい」
今度は笑いながら母が言う。
洗面所に行き、しっかりと自分の顔を覗き込む。鏡には幼い頃の自分が、泣きそうな表情で映っていた。
久しぶりの実家に、久しぶりの両親。
先程まで頭をフル回転で働かせていたが、一旦思考を停止させ、この頃の自分を演じることにした。
そういえば、大事なことを忘れていた。
「お母さん、優香は?」
「二階にいると思うわよ。もうご飯だから呼んできてちょうだい」
三歳年下の妹とも、もう何年も会っていなかった。
階段を上がってすぐ目の前に、妹の部屋がある。
「優香…、ご飯できたってよ」
扉を開けず、部屋の前で声をかけた。妹にさえ緊張してしまっていた。
すると物音がした後、優香は部屋から飛び出してきた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい!」
元気で明るい優香を見るのは、本当に久しぶりだった。
「今日ご飯なーに。うん、この匂いはカレーかな?」
優香の姿を確認すると、目から涙が溢れ出す。この頃の優香を見るのは、それこそ何十年ぶりだった。
「ただいま」
泣きっ面のまま、優香にそう言った。
慰められることもなく、優香は僕の横を通り抜け、足早に階段を降りていった。そうして、すぐに兄貴が後ろからついて来ていないことを確認すると、「お兄ちゃんー早く!」と元気な声が聞こえてきた。
「おう」とこちらも精一杯の元気で答え、後を追った。
涙を拭い、リビングに再び入ると、そこには忘れ去られた光景が広がっていた。何年も忘れてしまっていた家族での団欒。拭いたはずの目元から、涙が溢れ出してしまう。
「ただいま」
心の中で、改めてそう呟いていた。
対角線上に優香が座り、一緒に夕飯を食べている。向かいには父が、隣には母が座って会話をする。
こんな日が来るとは思いもしなかった。大学在学中に何度か実家に戻り、四人で食事を囲んだこともあったが、このような賑やかな食事は、この頃を境になくなってしまう。
「お兄ちゃん、サラダとって!」
優香は何も入っていない皿をこちらに突き出す。
「自分で取りなさいよ」と母は少し呆れて言う。
「だってお兄ちゃんのほうが近いじゃん!」
お皿を受け取り、サラダを盛り付ける。盛り付けたサラダにドレッシングを掛け、優香に再びその皿を渡した。
「ありがとう!」
そう言って、無邪気に優香は笑っている。
夕食を終え、父と話をした。所々二十六歳の僕の言葉遣いに驚くこともあったが、酔っていた為、なんとか誤魔化すことができた。優香は宿題があると、夕飯後にすぐに自分の部屋に戻っていった。母も夕飯の後片付けをしながら、たまに話に割って入る。改めてこんなにも騒がしい家庭であったことを実感した。
不意に、母が学校のことについて話題を変える。
「愛斗、学校明後日だけど、新学期の準備終わってるの?ギリギリになってあれがない、これがないって言っても買ってこれないよ!」
母は念を押していう。
「今日中に確認して、自分で買ってくるよ」
「あら素直じゃない。」
母は少し驚いた表情で言った。
「今日の愛斗は一味違うぞ!」
酔っ払った父が横から入ってくる。
「さっきも、人生楽しいかって聞いたら大人顔負けなこと言ってたからな。子供は遊んでればいいんだよ」
父は酔っていると面倒な人だったが、根は良い人だ。
十五年前の家族の一員として演じているが、これは本当に夢なのだろうか。疑問が頭をよぎる。
春の気候も、桜の匂いも、料理の味も繊細に表現されている。五感が夢であることを否定する。
ただ現実的に小学生になってしまうのは考えられないし、考えたくない。
今できることは、これが夢であることを望むことだけだった。
両親と話した後、自分の部屋に行った。部屋には自分が使っていた、当時の机やベッドがそのまま置いてあった。懐かしさが感じられるそのベッドの大きさは、大人のそれよりも少し小さいが、今の僕にとっては丁度いいサイズだった。
ベッドに横たわり、すぐに目を瞑った。
この世界が夢で、幸せを見せてくれる吉夢なら、明日には覚めてしまっているだろう。
そう願って僕は、現実に戻るために眠った。
恐ろしい夢を見た。内容は覚えていないけど。
目が覚めたのは、部屋の窓から強烈な日差しが差し込む頃だった。部屋の様子は何一つ変わっていない。どうやら、今日も一一歳のままらしい。
この時、夢であるという考えを捨て、この時代をもう一度生きる覚悟を決めた。
どうして僕が、もう一度人生を送ることを拒んでいるのか。どうしてこの素晴らしい光景が夢であることを望んだのか。
それはこれから先の人生で、僕には耐えられない苦痛が待っているからだった。
来年の夏、妹の優香はいじめられてしまう。
それを家族が知ることになったのは、いじめられてから一年半が経ったときだった。優香は誰にも相談することなく一年半もの間、一人でいじめと戦っていた。僕らはそれに気付くことも助けてあげることもできず、結果的に長期的ないじめに発展してしまった。
それでも優香は、家では平然を装い、元気な姿を見せ、家族の一員として演じていた。
僕を含めた当時の家族は、本当に何も気付けなかった訳ではないと思う。
「もしかしたら」と思うことは、いくつかあった気もする。だが、優香に限ってそんなことはないと高を括っていた。
その後、優香は私立の中学校に通うことになり、いじめていた同級生から離れることはできた。だが、優香の優しかった笑顔や明るい立ち振る舞いは、小学校に置いてきてしまったようだった。それ以来笑顔はなく、家族での会話も無くなった。
両親もそんな優香の姿を見て、自分達を責めた。だから、母が笑っているのも、父がお酒を飲んでいるのも何十年ぶりの光景だった。
皮肉にも、僕が現在教師になっている要因の一つだった。
優香のような生徒を守りたかった。近くで見ているはずの先生がどうして手を差し伸べなかったのか。僕にはその事実が許せなかった。
これは、救えなかったものを救うために神様がくれたチャンスなのかもしれない。もう二度とあんな目には合わせない。もう一度僕は、優香を救う覚悟を決めた。
昼食をとった後、出かける準備に取り掛かかる。
小学生の時に着ていたものの中から、ましなものを手に取り、急いで支度する。日頃の習慣で髭を剃ろうとしてしまったが、顔の下半分に毛は一本も生えていなかった。逆に眉毛は全く整えられていない。父が使う剃刀と小さい鋏を使い、少しだけ整える。髪にも整髪剤をつけセットして、家から飛び出した。
学校は明日からだ。この世界で生きていくなら準備も必要だろう。
今朝、母に貰った財布を握り、学校での必需品を買いに行くことにした。家から自転車で二十分ほどのところに、確かホームセンターがあったはずだ。真新しい自転車に乗り、目的地を目指す。
久しぶりに自転車に乗った。春の風が背中を押し上げてくれるような感覚があった。新しい自転車は、ペダルやチェーンの隙間から雑音を立てることなく、滑らかに進んでいく。
今から約四ヶ月前のクリスマスに、自転車を買ってもらったことを思い出した。過去に戻ってから今まで、僕の記憶とこの世界に食い違いは発生していない。本当に過去の世界であるということを確認するためにも、現状を覚えている範囲で調査する必要があった。
ホームセンターに到着し、学校で必要なものを探す。筆箱やノートはもちろん、雑巾や上履き、洗濯バサミに連絡帳も必要だ。生徒に持ってくるように頼んだものを自分が準備しているのは、不思議な気分だった。
プリントを見ながら順番に探していると、随分と懐かしい声で、自分の名前を呼ぶのが聞こえてくる。
「まなとー!」
振り返ると、当時仲の良かった山田拓哉と、隣にはその母親がいた。
拓哉は明るくて、女子からも人気のある少年だった。小学一年生からサッカーをやっていて、徒競走や持久走、運動会でもヒーローだった。そんな拓哉は、なぜだか僕といつも一緒にいてくれた。放課後はよく、フリーキックの練習に付き合わされて、何度も手を痛めたのを覚えている。拓哉も所属する地元のサッカークラブに何度か誘われたが、サッカーは得意ではなかったので、ずっと断り続けて入部することはなかった。
「拓哉!」
久しぶりの再会に心が弾む。
隣いた拓哉の母親に挨拶をして、拓哉に話しかける。
「久しぶりだなー、何年ぶりだよ」
喜びのあまり、迂闊なことを口にしてしまった。
「何年ぶり?この間遊んだばっかりじゃん」
この頃の拓哉の姿を見るのも、当然何十年ぶりなのだが、元いた世界の僕らも、高校を卒業してからは一度も会っていない。実に九年ぶりと言ったところか。
「いやー、ごめんごめん。春休み長くてさ、時間感覚狂っちゃて」
慌てて惚けたふりをする。
横にいた拓哉の母親と会うのは、それこそ何十年ぶりだ。
「愛斗君は今日一人できたの?」
心配そうに拓哉の母親は言った。
「あ、はい。明日の準備の買い出しです!」
「危ないから、気をつけて帰りなさいね。事故したら学校に通報いっちゃうわよ」
困った顔をしていたが心配してくれた。
「はい、気をつけて帰ります」
その後、拓哉達とはすぐに別れた。
別れ際に、「明日学校で」と伝えると、拓哉は不安な表情を浮かべていた。
ホームセンターから出て、街の様子を確認しに行った。大学時代に見た時とは、少しだけ違う景色が映る。コンビニや大型のスーパーなどは、まだ建てられていない。逆に商店街や八百屋が活気よく残っていて、空き地や公園なんかも当時のままだった。
しかし、最後に訪れた時と一五年前のこの時代の雰囲気は、僕にはあまり変わらないように感じる。人は存外、自分が思っている以上に周りの状況に興味がないのだろう。ここの商店街も、いずれ多くの人で賑わうスーパーに代わり、あちこちにコンビニができる。だが今日、この街を見るまで、僕はここに商店街があったことをすっかりと忘れてしまっていた。
全体をぐるりと見渡しながら、そんなことを考えていた。僕が覚えている限り、街や風景は当時のままだ。
拓哉に会えたことは好都合だった。明日はこの頃の友人や知人に会える。小学校の頃の旧友に会うことは、なんだかとても楽しみだった。
少し不思議な同窓会に、僕は心が弾んでいた。
やってしまった。
目を覚ますと、時計の針は八時を回っていた。昨日入念な準備を行い、中身は二十六歳の社会人なのだが、あろうことか寝過ごしてしまった。
今朝は同じ登校班の五年生の生徒のインターホンで目が覚めた。
「安全第一」と表記されている黄色い班長旗をその子に渡し、先に行くように促す。小学生は近くに住んでいる生徒達で班を組み学校へ登校しなくてはならない。最上級生になる僕は、その班の班長だった。
先生だった時は、朝早く集合し、クラス分けの掲示など、新学期の準備で大騒ぎだった。この時間には、既に昇降口に今年のクラスの名簿が張り出されているだろう。
ふと、優香と母親が起きてないことに気がつく。和室を覗くと、そこには並んでぐっすりと眠っている親子がいた。優香はこの頃、まだ甘えん坊だった。自分の部屋とベッドが用意されているのに、両親と一緒に寝ていた。
「起きてー、遅刻確定しますよ」
雨戸を開け、日差しを入れる。親子揃って朝が弱かったことを思い出した。
優香は反応しないが、母は窓から入る光に晒されると、焦って飛び起きた。
「え、まって、今何時?」
「八時十分。」
八時と聞いた途端、洗面所へ駆けて行った。
「ほあ、くうまで行くよ。ゆうかおおしてっ!もうなんでおおしてくれないのあの人は!」
歯を磨きながら母は、おそらく二時間ほど前に仕事に向かった父に文句を言っていた。
優香を起こし、急いで準備をさせる。朝ごはんを食べている暇がなかったので、その工程を飛ばし、着替えと歯磨きを済ませる。そうして僕らが車に乗り込んだのは、登校時刻の八時半だった。
学校へ向かい、校門が視界に入らないギリギリのところで優香と僕は車から降ろされた。
「あんまり近いとバレちゃうから」と母はそのまま笑顔で帰っていく。
優香と二人で校門へ向かう。曲がり角から顔を覗かせ、辺りを確認する。校庭や校門に人の気配はなかったので、急いで校門を通過する。
過去に来てから、今日は二回目の学校になる。
優香は今年から三年生、僕は六年生になった。
六年生と三年生の昇降口は、少し離れた場所に位置していた。僕がこっちの世界に来た時に立っていた場所に、一年生から四年生が使う昇降口がある。そこを超えて奥に行くと、高学年の生徒が使う昇降口があるはずだ。
優香と共に、先に三年生の昇降口に行った。
クラス分けの名簿が張り出され、優香が自分のクラスを確認している。
毎年、新学期に登校すると、昇降口の前には人で溢れかえっていた記憶がある。それを思い出すと同時に、自分達が遅刻していることを思い出した。
優香は何も気にせず、名簿を見て目を輝かせていた。
「お兄ちゃん。るかちゃんとまた同じクラスだった!」
優香は飛び跳ねて喜んでいた。
「そうか、良かったな」
優香はこんなに喜んでいるが、この「瑠夏」という少女は、いじめに加担する。
来年の夏の終わり、優香が四年生、僕が中学一年生の頃に、優香へのいじめは始まってしまう。だが、そこから一年半後に僕らが事実を知ることになるのも、この瑠夏という少女のおかげだった。
「てか、もうみんな教室にいるぞ」
教室に行くことを優香に促す。
「うん。お兄ちゃんもクラス当たりだといいね!」
優香は笑顔でそう言い、階段を駆け上がって行った。
まずい。
多分もうみんな席に座って待機している。確か予定では、九時から体育館に移動だったので、全校朝会には間に合うと思うのだが、遅刻は遅刻だ。
仮にも未来では教師をやっているのだが。教師の頃に遅刻していたらと思うと、一年生のクラスに、揶揄されるのが目に浮かぶ。
下級生が使う玄関を飛び出し、学校の裏側へ回る。うさぎ小屋やお玉杓子が蠢いている池を越え、学校で管理されている小さな畑の脇道を通る。一昨日訪れた時には、高学年の昇降口がある、学校の裏側を見ていなかったので、すごく物懐かしく感じた。
昇降口に着くと、こちらにもクラス名簿が貼り出されていた。その紙には目もくれず、校舎に入る。
一つだけ空いている下駄箱に靴を入れ、家から持ってきた上履きに履き替えてから、急いで六年二組の教室を目指した。
六年二組。これから一年間、僕らはこの教室で過ごす。
下駄箱を左に曲がると、突き当たりに「6−2」の学級表札がすぐに見つかった。教室の後ろのドアの小窓から恐る恐る室内を確認する。
教卓には先生の姿はなく、黒板には乱雑に「五十分になったら体育館へ移動」と書かれていた。まだ今年の担任は発表されていない。この後の全校朝会で、各クラスの担任発表が行われることになっている。
後ろのドアを静かに開ける。教室内には先生はいないが、どの子も自分の席に座り、深閑としていた。
ドアを開ける少しの物音に生徒たちは反応し、全員が怯えた目つきでこちらに振り返った。その中には、ホームセンターで会った拓哉の目も確認できた。
全体を見渡し、同級生の顔を凝視した。顔と名前が頭の中でしっかりと一致し、この頃の同級生を覚えていることに安堵する。
自分の席に座り、持ち物を準備した。雑巾を洗濯バサミで椅子の下に吊るし、引き出しに筆箱と連絡帳を入れる。ランドセルは後方のロッカーに入れに行き、もう一度席に戻った。その時の時刻は八時四十五分を指している。
教室はお葬式のような雰囲気で、誰一人口を開けていなかった。机の上はまっさらな状態で、全員が黙って時計を見るか、下を向いているだけだった。
この光景も本当に懐かしいものだ。