天気の変わり目は、西陽が落ちる前にやってきた。
 霧のように小さかった雨粒はあっという間に大粒の雨になり、叩きつけるような豪雨に変わっていった。
 アル・アンジュは、ほんの赤子の頃から船に乗っているため嵐には慣れたものだが、今回は少し勝手が違った。
 いつも乗っているアル・セイラ号と違いこのアル・フェリア号は小型船で喫水が浅い。そのため波の影響を受けやすいのだ。
 まともに横波を受けると転覆する恐れがある。波に対して常に船首を向けるよう舵を取らねばならないが、そうすれば下手をすると外洋に流される恐れがある。この嵐では厚い雲に遮られえて星を読むこともかなわないため、どれだけ流されたか把握するのは難しい。
 それでも、まず嵐を乗り切ることが先決だとフェランが舵をきった。この船には嵐で大騒ぎするような乗客がいないことが何よりの幸いだ。いや、ひとりだが乗客はいた。
 エドアルドだ。
「こんな嵐はよくあるのか」
「もう秋も終わりだからね。これくらいの嵐は珍しくないわよ」
 アル・アンジュも甲板を走り回ってはいたが、他の水夫たちよりは手が空いていると思われたのだろう。
「何か手伝うことはあるか?」
「ないわ。船室にいたほうがいいわよ。甲板にいると波に攫われても知らないから」
「船室にいてそのまま沈没するよりは、海に投げ出されたほうがマシだな」
「縁起でもないこと言わないで」
 帆柱に帆綱を固定するアル・アンジュの手元を見て、エドアルドが横から手伝った。その手つきは素人のものではなかった。
「あなたも船乗り?」
「商船ではないがな」
「海賊にも見えないけど」
「無駄口を叩いている暇はなさそうだ。雷が来るぞ」
 エドアルドの言葉通り、少し離れたところに稲光が見える。すぐにこちらに向かってくるだろう。海の上には落雷する場所がない。帆船のマストは格好の標的になってしまう。なんとしても雷雲の下にいかないよう操船する必要がある。
「船長!」
 エドアルドがフェランの姿を見つけて呼び止めた。
「このままでは、雷の餌食になるぞ!」
「波の餌食にならずに済めばね」
 お互いに風の音に負けないほどの大声を張り上げて応戦していたが、それを遮ったのはアル・アンジュの声だった。
「叔父さま、メインセイルを張りましょう」
 アル・アンジュの提案に、フェランもエドアルドも一瞬言葉を失った。
「風をもろにくらって転覆するぞ!」
 エドアルドが即座に否定したが、アル・アンジュも一歩も引かない。
「たぶん大丈夫よ。一番下のメインセイルだけを張れば安定性はそんなに悪くならないはず。波に乗っているだけでは、嵐の下からは抜け出せない。逆にこの風を利用して脱出することを考えたほうがいい」
 フェランの判断は素早かった。
「誰かヤードに上がれる者はいないか! メインセイルを張れ!」
 その声を聴いて一番にマストに手を掛けたのはユリザだ。こういう時は身の軽い女性のほうが上がりやすい。そうなると逆側のヤードに上がるのも体重の釣合が取れる人間になる。フェランの指示が飛ぶ前にアル・アンジュがマストに向かって走りだした。その背にエドアルドの声がかかる。
「セイラ! この風の中、大丈夫なのか?」
「わたしが言い出したんだから、わたしがやるわ!」
 そう言い残すと、マストに手をかけメインセイルのヤードまで登った。すでにユリザは帆の綱に手をかけている。アル・アンジュは素早く綱の結び目を解くと、ぐっと綱を握りしめた。帆を張る瞬間は両側で合わせないと船の均衡を崩す恐れがある。この風雨の中ではお互いの声は聞こえない。相手を信頼するしかないのだ。反対側にいるユリザが頷いたように見えた。実際には雨に霞んでお互いの姿がはっきり見えるわけではない。でも頷いたとアル・アンジュは思ったのだ。その瞬間ふたりは帆綱を離した。
 メインセイルが風をはらみ、船体が大きく揺れた。しかし、アル・アンジュがいったように船は安定性を何とか保ち、風の力で勢いよく走り出した。
 その様子を確かめて、反対側のユリザがマストを降りた。アル・アンジュもそれに続いて降りようとしたとき、風に煽られた綱がその足を打ち付けた。足元を掬われたアル・アンジュの体は空中に投げ出されたが、かろうじて帆下駄を掴んで腕一本で身を支えているような状態になった。
 フェランはすぐにその状況に気付いたが、舵から離れることはできなかった。一度マストから降りたユリザがもう一度助けに戻ろうとしたところをヴァイダが引き止めた。
「ばかやろう! 今の状態でふたりもヤードにあがったら、バランスが崩れる!」
「そんなこと言ったら、どうやってあの子を助けんのよ!」
 ユリザがヴァイダの耳元で怒鳴り返した。ヴァイダはヤードにぶら下がっているアル・アンジュに向かって、ユリザ以上の大声で怒鳴った。
「嬢ちゃん! 飛び降りろ!」
「この、馬鹿大工! こんだけ船が揺れてんのよ! 甲板じゃなくて海に落ちたら助かんないわよ」
「一か八かやるしかねぇだろ! ありったけの帆布をここに積むんだ! 早くしやがれ!」
「だめだ!」
 エドアルドがヴァイダの肩を掴んで止めた。
「足元をよく見ろ、綱が絡まっている。このまま飛び降りたら逆さづりになるぞ」
「くそっ! 八方塞がりかよ!」
「マスケット銃はあるか?」
「何に使うんだ」
「足に絡まっている綱を斬る」
「銃でか?」
「そうだ」
 ヴァイダはエドアルドの言葉に耳を疑ったが、どんなことでもやってみるよりほかはない。
「誰か船倉から銃をとってこい!」
 マスケット銃を受け取ったエドアルドは、慎重に狙いを定めて撃ち放った。その銃声は嵐をつんざくように響き渡り、銃弾は正確にアル・アンジュの足を絡めとっていた綱を切り裂いた。
「いまだ、嬢ちゃん、飛び降りるんだ!」
 アル・アンジュは感覚が消えそうになっていた腕から力を抜いた。風に煽られながら飛び降りた先は甲板に積み上げられた帆布の上だった。
 そのやわらかな感触に吸い込まれるようにアル・アンジュは意識を失った。

 骨ばった大きな手だった。船乗りは帆綱を扱うのでどうしてもごつごつとした節ばった指になるものだ。
 きっとそれは父さんの手だ。
 フェランの手はもう少しほっそりとしている。口にすると怒るだろうが、女の人のような細い指をしている。最近は水夫のように帆綱を扱うこともなく航海長の仕事に専念しているから、海の男らしく手のひらにあったマメもなくなってしまって、ますます女性のようなやわらかな手なのだ。
 アル・アンジュは自分の額に乗せられた手の大きさを感じながら、半分夢の中にいた。父親の顔が見たいと思って、ゆっくり瞼を開けた。
「熱は下がったな」
 だが、そこにいたのは、父ではなくエドアルドだった。しかし、その姿は嵐の前にみたときとまったく違っていた。暗褐色だった髪が淡い金髪になっていたからだ。声を聞かなければ、エドアルドとわからなかったかもしれない。
 アル・アンジュは目を開けたことを少し後悔した。もう少し父の夢を見ていたかったからだ。けれどエドアルドの声を聞いてすっかり目が覚めてしまった。
「嵐は?」
「とっくに抜けた」
「わたし、どのくらい眠っていたの?」
「丸一日」
「…」
 嵐の中、皆が必至で切り抜けようとしていたとき自分は熱を出して寝込んでいたのかと思うと、自アル・アンジュは分の未熟さに落ち込んでいた。
 大きな手が、うつむいて唇を噛んでいたアル・アンジュの頭をくしゃくしゃとかき回した。それは、アル・アンジュが小さな頃、父親が涙ぐむ自分にやってくれた仕草とよく似ていた。
「おまえは良くやったさ」
「…おまえって呼ばれるの好きじゃない」
「セイラは良くやった」
 アル・アンジュはうつむいていた顔をあげて、エドアルドの顔をみた。
「あの状況でメインセイルを張るという判断は難しい」
「判断したのは叔父さまよ」
「セイラは、メインマストを張っても船は転覆しないと見極めていたんだろう?」
「それは、この船の構造とメインマストの大きさから考えると大丈夫かなって…」
「それは熟練の船長でも難しいことだ。実際フェラン船長も思いついていなかったはずだ。わたしが船長でも、嵐の中で帆を張ると考えられたかどうか」
「わたしは、生まれたときから帆船に乗っているんだもの。なんていうか感覚でわかるというか」
「そうか。その感覚とやらは、何物にも代え難いということだな。その感覚でわたしたちは命拾いをしたんだからな」
 エドアルドの言葉にアル・アンジュは少し救われたような気持ちになった。そして、目を覚ましたときから気になっていたことを尋ねた。
「髪の色…」
「ああ、あの嵐ですっかり染粉が落ちてしまったな。しかし、南大陸をたった今では、染め直す必要もないだろう」
 エドアルドの髪は月光を集めたようなごく淡い金髪だった。染粉が落ちた髪はもとの艶やかさを取り戻し、こうしてみると氷のような薄い青の瞳とよくあっている。
「金色だったんだね。エセルディアの人はみんなこんな色?」
「いや、もう少し濃い金褐色の者が多い。わたしは船に乗るから、潮で灼けて色が落ちているんだ。おまえの、セイラの髪は潮に灼けてもそんなに黒いのか?」
「髪が潮で灼けたら薄くなるっていうのがわからない。肌でも髪でも灼けたら黒くなるものなんじゃないの?」
 アル・アンジュの肌は日に灼けた褐色で、船乗りたちは多少の濃淡はあっても、褐色の肌をしているのが普通だ。マリゼのような船医で船室に籠っているのならば別だろうが。
「そうか。南大陸の人間とは肌も髪の色も違うからな。わたしはいくら肌が灼けても多少赤くなるだけで、そんな褐色の肌にはならない」 
 そういったエドアルドの肌は確かに船乗りとは思えないような色白だった。
「おまえ、いやセイラは航海士見習いだったな」
「もう、言いにくかったおまえでもいいよ。そう、航海士見習いだけど」
 アル・アンジュの許しに、エドアルドは少し笑いを浮かべると、話を続けた。
「エセルディアに着いたら、うちの船にこないか。見習いではなく航海士として雇おう」
「え?」
 アル・アンジュは思いがけない言葉に思わず答えがでなかった。
「わたしは、おまえが気にいった。操船の技術も航海の知識も十分なようだからな」
「いや、でもエセルディアの船には女は乗ってないんじゃ」
「おまえは、普通の女ではないだろう。何といっても嵐のなかマストに上るような娘だからな。おまえのような航海士がいるのも悪くない。なにより大陸の近海には随分詳しいようだしな」
「あの、海図が狙いなの?」
「狙いではないと言ったら嘘になるだろうが、あの海図はすでにおまえの頭の中にあるんじゃないのか。それごと欲しい。その度胸もな」
「でも…」
「報酬か? ここの報酬の三倍出してもいい。船長にはわたしから話してもかまわない。叔父御が手放してくれるかどうかが心配だが、他の船に乗って経験を積むのも船乗りとして大切なことだと思わないか」
 エドアルドの言っていることは正しい。航海士はいろいろな船に乗って、様々な海域での経験を積むことが大切なのだ。フェランも父の船だけでなく、輸送船や定期航路の船に乗っていたこともある。
「ゆっくり考えれいい。エリー・エゼルに着くまでに返事をくれ」
 そういうとエドアルドは船室を出て行った。
「一緒に行けるわけないじゃない。わたし、船長なのよ」