「嬢ちゃん! 獲物がきなすった!」
「船長とおよび!!」
 マストの上の檣楼から呼びかけられただみ声に答えたのは、少女というには少し低い、しかしよく響く声だった。
 空はどこまでも青く澄み渡り、海の色はより深い青。帆にはたっぷりと風をはらみ、波を切り裂くように船が進む。
「獲物はなに?」
「エセルディアの商船ですぜ。新大陸帰りだ。でっぷり太ってますぜ!」
「まさか輸送船だけじゃないでしょ。護衛船は?」
「三本マストのキャラック船でさあ」
「じゃあ、うちの相手に不足はないわね!」
 そう答えると、彼女は、軽く腕まくりをしてうなづいた。
 黒い巻き毛は長く豊かに背を覆い。獲物をにらみつけるその瞳は深い夜の海のような濃紺。
 甲板で指を鳴らしている水夫たちひとりひとりに目をやり、最後に傍らに控えた若い男に話かけた。
「いってもいい? 叔父さま」
「叔父さまじゃなくて、航海長と呼んでほしいね。止めたってきくつもりなんてないんだろう?」
「まあね」
「船長はきみだよ。わたしはきみの命令通りに船を操るだけさ」
「ありがとう」
 笑って言葉を返すと、まっすぐに獲物に目をすえた。
「全速前進! 距離を捕ってすれ違うわよ。速度を落とさないで」
 ようやく肉眼でもはっきりと見えてきた相手は、大型の輸送船と中型の護衛船。輸送船は、できるだけ積荷を載せいたためなのか、武装はほとんどしていないように見える。これに対して護衛船は両舷側に六門づつの大砲が載っている。
 船は風をはらみ速度を保ちながらどんどん敵船に近づいていく。
「アル・アンジュ。どうする、撃ち合う気かい?」
「まさか。ぎりぎりの距離をとってもらえる」
「了解。相手の砲の届かない距離をね。いつもながら難しい注文をするよね」
 そう言い返しながらも航海長は微妙な舵を正確に操る。
 ここまで近づくと相手の慌てぶりが手に取るようにわかる。輸送船の甲板ではなすすべものなく水夫たちが慌てふためている。攻撃するすべも、護るすべもないのだ。すべて護衛艦まかせ。できるだけアル・アンジュたちから距離をとろうと舵をきっているが、船体の大きさが災いして思ったほど方向が変えられないようだ。
 護衛船からは種火の煙が上がっている。こちらは戦闘準備が整っているらしい。
 一方、まだこの海賊船アル・セイラ号の甲板では、水夫たちがにやにやと物騒な笑いを浮かべているだけだ。
 帆船の戦い方は主に二種類だ。すれ違いざまに大砲を撃ち合うか、舷側をならべて渡し板を架けて、白兵戦に持ち込むか。もっともこれは最後の手段だが。
 まずは、お互いすれ違いざまに腕試しとなるのが常だった。
「嬢ちゃん! きますぜ!」
「船長よ! そんなことを覚えられないくらい頭悪いんなら、新しい檣楼手を雇うわよ!」
「それは勘弁してくだせえ。船長、きやがった」
 相手の護衛船が砲門を一斉に開き、アル・セイラ号めがけて砲撃してきた。耳をつんざくような轟音と、もうもうとした煙が護衛船の甲板にあがっている。
 放たれた砲弾は、アル・セイラ号の舷側をかすめるのにわずかに足りず、海面にむなしく沈んでいく。
 もちろんこれは、計算ずくでアル・セイラ号のほうが距離をとっているのだ。
「ご自慢のエリー砲も距離がイマイチよね」
 ここ最近のエセルディア船は、軽くて砲数を積めるエリー砲と呼ばれる大砲を載せていることが多い。両舷側合わせて十二門という数からエリー砲とみたのは間違いなかった。
 相手はなんとか距離を詰めようとしたが、船の舵はそう簡単にきれるものではない。すれ違いざまに砲撃できるチャンスは長くはない。どんなに手際がよくても二射するのがせいぜいだ。
 艦隊船の見本のようにきれいすれ違うと、アル・セイラ号は面舵を捕り、相手の背後に回り込んだ。
 そう相手の背後に、アル・セイラ号の舷側を向けたのだ。帆船はその造り上船尾に大砲を装備するのが難しい。そのため、いかに敵に背を向けずに戦うかが肝心なのだが、アル・セイラ号の舵さばきがあまりに鮮やかだったため、相手はこれをかわすことはかなわなかった。
「さすが、航海長!」
「やっぱり、叔父さまと呼ばれるほうがいいかな。褒めたところで何もでないよ」
 そう言うと青年は軽く片目をつむってみせた。
「大丈夫、あのでっかい輸送船がいろいろ出してくれそうだもの」
 アル・アンジュは、甲板の種火の煙が揃って立ち上がっているのを一目で確認すると、腕を大きく振り下ろした。
「撃てー!!」
 アル・セイラ号の砲門が一斉に火を噴く。護衛船の船尾に次々と大穴があき始めた。相手も必至で面舵を捕り、こちらに舷側をふろうとするが、アル・セイラ号も舵をきり続けているため、お互いに体勢を保ったまま、弧を描くように動き続けている。すなわち護衛船はアル・セイラ号の砲撃を受け続けるしかないのだ。
「アル・アンジュ、風向きが変わる」
 航海長の声で、アル・アンジュは軽く舌打ちをした。こればかりはいかに舵さばきがうまくてもどうにもならない。このままでは相手がたの操船が有利になる。大きく面舵をとって攻撃に転じられたら、撃ち合いの消耗戦になりかねない。
「まったく、しぶといわね。あんまりやりたくなかったけど…」
 つぶやくように言った言葉を聞きとったのか、航海長はマストの上の水夫たちに合図を送る。帆の向きが微妙に変わり、船尾の正面からやや右舷側にまわりこむ。
「船尾楼下、喫水のぎりぎりところに一発お見舞いしてやって」
「了解!」
 甲板から声があがると、ひとりの女水夫が慎重に狙いを定めて、大砲を撃ち放った。揺れる船上から、正確に砲撃するのは至難の業だが、この砲撃手の腕は一級品だった。砲弾は喫水線のやや上、ぎりぎりところに大穴を空けた。波をひとかぶりすると、この船は沈没するしかない。
 護衛船の水夫は攻撃どころではないだろう。この大穴をふさぐために砲撃手たちもみな金槌と釘をもって船尾に駆り出されるはずだ。甲板や船尾楼の飾りに穴が空くのとはわけが違う。ひとつ間違えば船ごと自分たちも海の藻屑となってしまう。
「アル・アンジュ、ほら白旗があがったようだよ」
「よかった。できたら沈めたくはないのよね」
 海賊船に襲われて無傷とはいくわけはないが、船を沈没させると大勢の命が失われる。アル・アンジュが欲しいのは積荷であって、ひとの命ではないのだ。
「あっちに、乗り込むかい?」
「護衛船に? 必要ないでしょ。輸送船の積荷をいただくだけで十分よ」
「そう言うと思ったよ」
 航海長は慣れた手つきで舵をとり、輸送船に舷側を合わせると、水夫たちが渡し板を架ける。
 アル・アンジュが水夫たちとともに輸送船に乗り込むと、苦々しそうに輸送船の船員たちがにらみつけくる。
 新大陸から嵐をきりぬけ、命をかけて運んできた積荷だ。それを母港まであと十日といったところで横取りされるのだから恨みがましくもなるだろう。
「船長、やっぱり香辛料ですぜ!」
「ごっそりいただきましょ」
 てきぱきと指示をだし、つぎつぎと積荷を載せ替えていく。
「黒い嵐め…」
 低い声がアル・アンジュの耳に届いた。
「あら、わたしを知っているの?」
「エセルディアの船で知らない奴がいるかよ。どんな嵐にあうよりたちが悪い」
「そう、褒め言葉ととっておくわね」
 黒い嵐、アル・アンジュ。
 この大海に名を轟かせはじめたばかりの女船長の名は、どの商船も震え上がらせるのに十分な響きだった。