未練がましいと笑ってくれないだろうか。
コチ、コチ。時計の秒針が進む。私はじっと天井を見上げ、30年近く眺めてきたこの光景に、強い恐怖を感じていた。
時計の針は進むのに、私だけはもう永遠に、ここから動けないような気さえしていた。家族には心配をかけられない。こんなことで悩むようでは、社会で生きていくのなんて難しい。そうだ、生きるのすら大変なのに。たかが趣味ごときでじたばた藻掻くのはくだらないことなのだ。
コチ、コチ。
でも、いっそこのまま、私が息を止めたら。二度と目覚めなければ、世界もまた、停止してくれるように。そう祈った。
ツイッターのアカウントのアイコンが、しゅぽっ、という音と共にタイムラインに跳ね上がった。かれこれ1年近く同じジャンルで仲良くしている『みいら』さんだ。本名は知らない。でも、住所は何となく知ってる。実名配送では私は自分の本を通販に出さないけど、匿名でも問い合わせ番号を辿れば分かるのだ。流石にドンピシャな住所は知らなくても、ああこのへんに住んでるんだな、くらいは。隣県に住む彼女とは、まだオフ会すら出来ていない。ご時勢だからね。そう言ってけっこう経ったので、周りはちらほらオフのイベントにも顔出ししたりと少しずつ日常を取り戻し始めている。
『>RT 藤乃先生の今日のSSも最高だった…』
私は通知を見てにやりとし、RT先のみいらさんの呟きに頷いた。みいらさんはまだ会社帰りの途中らしく、いつもこの時間帯に電車に乗りながらツイッターを見て暇つぶしをしている。という、ルーティンも知っていた。いいね数とRT数を確認すれば、昨日のものに比べて数が少なく、まあそんなもんか、と気持ちを切り替える。
ジャンル移動が激しい私が1年もハマったのは珍しく、そして友達と呼べる人間が出来たのもレアなことだった。交流するのが苦手……ではなく、心の底から面白いと思ったものでないと、どうしても誉め言葉が薄っぺらくなってしまうのだ。そこで変に誤解を生むといけないので、あまり言えないままひたすら小説を書いては投稿し続けてきた。しかし悲しいかな、交流が下手なことは命取りになる。絡まれにくいと思われたが最後、作品を機械のようなスピードで生み出し続ける私は不気味がられ、界隈の癌のような存在になりがちだった。
今回こそはと通話に参加してみたり、他の字書きの作品も読んでいいねを付けたりとなるべくツイッターをマメに見るようにした。ただ、そうしていると違和感があるのに気付いた。
喋っている時間があるなら書けばいいのに。
どうしても創作のことばかり考えて自分の世界に浸りがちな私には、周囲がそうして交流を深めている間にもやはりキーボードを叩く手を止められなかった。馴染めない自分のことが嫌いになりかけて精神的に落ち込んだりもよくしていたが、そんな時に作品のファンになってくれたのがみいらさんだった。藤乃先生。彼女がまだ字書きでなかった頃。初めてツイッターで話しかけてくれた時、私を先生呼びしていたのが懐かしい。
みいらさんの薄桃色のアイコンが姿を見せる度、私は嬉しくなった。私が書くものはどうも堅苦しい雰囲気があるのは自覚していて、あまり人が寄り付かないのも分かっていたから、誰かにウケるように書くのは諦めていた。だから余計、自分の作風を褒めて慕ってくれたみいらさんを大事にしなければ、と思ったのだ。
『私も実は字書きで、藤乃先生には遠く及ばないんですが』
何回かのリプライを交わし、みいらさんが私の作品をアップする度、毎回いいねをしてくれて。私はすっかり調子に乗っていた。知り合って3か月後くらいだったろうか。ROMだと思っていた彼女が書いたのだと教えてくれた作品を、投稿サイトまで見に行って愕然とした。
私より、圧倒的にいいねが多かったのだ。
二重にショックを受けた理由としては、みいらさんの文章は正直、中学生の拙い作文みたいなレベルなのに私よりも評価されていたからだった。何故?というクエスチョンマークで頭がいっぱいになる。私の方が、物語の構成も遥かに練られていて、表現も成熟していて読み応えがある。でも、そんなものよりも。これの方がみんなは読んで感動するのだから恐ろしい。何がいいのか自分なりに分析しても、やはり分からないままその夜を明かした。
そして、よくよく彼女を観察して理解した。みいらさんは、交流が非常に上手かった。
『ナマステさんのイラスト、柔らかいタッチが素敵だな~!』
『ねぎうさぎさんって天才なのかな!?この解釈最高すぎて泣いちゃった』
『素晴らしい小説読んでたら朝になってた!yurinさんありがとう…これで寿命が延びました』
私にはまるで無い才能なのだ、これは。
そうして私は、色々なものを飲み込んで今、みいらさんと仲良くしている。みいらさんの小説も読むことには読むし、感想も言う。でも、ちっとも心が躍らない。評価云々のしがらみもあるけれど、ひらがなを多用した読みにくい文章や、原作キャラの行動に反する心理描写、流行りに乗っただけのパロディ……と私がどれも嫌厭しているものばかりが、みいらさんの小説にはちりばめられていた。
『みいらさんって今度のイベント参加するんですか?』
ドライヤーで髪を乾かしつつ、片手でちょいと画面をタップしてDMの画面に文字を入力する。ゴールデンウィークに開催されるリアイベで、半年ぶりにオフ本出すとか言ってたような。私は今回は見送りで、お客さんとして遊びに行こうかと思っていたところだった。リプはすぐに返ってくる。
『はい!締め切りギリギリまでフォロワーさんと頑張って、なんとか出せそうです』
「みいらさんまたギリギリなんだ。ていうか、みんな好きだよねそーいうの……」
ついでにみいらさん周りのフォロワーさんとやらを見れば、原稿作業通話をしてみんなで完成させることが出来た、と何やら昨日の夜盛り上がっていたようだ。そこで思わず鼻で笑ってしまう。
「いやいや、締め切りに間に合うように逆算して早めにやっとけばそんな追い込まれないでちゃんとやれるでしょ」
私の独り言に反応するように、みいらさんが返事の続きを送ってきた。ドライヤーで煽られた髪の毛から水滴が飛び、それを服で拭って画面を見る。
『本出すの久しぶりで緊張したんですけど、みんなでやり遂げられると楽しいですね!』
これも、才能だ。私にはとても真似出来ない。
私は、先生、と呼ばれたくて。みいらさんが慕ってくれる、『いい作家』であるために。ずっと背中を見せてきたつもりでいた。それが彼女が字書きとしてデビューしてからはガラッと世界が変わった。背中を見せたら後ろから思い切り刺されたのだ。そういう感覚だった。ただ、投稿サイトが私の小説で埋まっていたのが一気に華やいで、界隈が活性化して作家が増えたのはいいことだと思っていた。自給自足でもいいけれど、書き続けてもたまに虚しくなる時がある。人が書いたものの美味しさを、今の界隈に来てから痛感した。ジャンルとしては中堅どころなのに、カップリングが過疎っていたのもあり、このまま私と片手で数える程度の人間しか居ないのだろうと思っていたら、みいらさんの布教力により人がどっと集まった。
ドライヤーを止め、ふと視線が本棚に行く。そこにある、自分の出した本。大して捌けないくせに、後からハマる人がいるかもと多めに刷ってしまった本だとか、そんなに部数を出さなかったのに一瞬で捌けた時の本だとか。1年でたくさん書いたものだ。思えば、こんなに好きになったカップリングは初めてだったかもしれない。飽き性で、ジャンルにハマっては1年もしないで抜けて新しいジャンルへ移動していた。今回は、違う。自分が一番上手く自カプを書ける自信があったし、やっぱり自分が書くものが性に合っていた。だからこそやってこれたのだ。
『当日遊びに行きます。お土産何がいいですか?』
『藤乃先生からのお土産ですか!?嬉しい~!何でも食べます!』
『何でもは困るよ~(笑)』
私は、『私を好きでいてくれるみいらさん』が好きだっただけで。別に、彼女個人についてはほとんど知らない。何でも食べます、っていうのをよく言うことと、自分のことは進んで話さないことだけは、知っている。
結局、私の実家のすぐ傍にある洋菓子店でかわいらしい感じのラッピングがされているお菓子を買った。みいらさんみたいだった。ピンクのリボン。うさぎの形のクッキー。通話で聞いた声は、甘くてふわふわとして、女の子らしい喋り方で。こういうのが好きそう、と勝手にイメージを持っていた。
イベントは時世なんて言葉を忘れるくらい人で賑わっていた。コスプレも解禁されているし、ほとんど以前のイベントと遜色ないように感じられる。一般参加でのんびり行けばいいや、と昼頃に到着するとみいらさんのスペースに『完売』の文字が書かれた紙がスタンドで吊られていた。
サンプルを見ていないのではっきりと言えないけれど、やっぱり完売なんだ、と思った。きっと原稿通話をしたフォロワーと盛り上がったネタで書いたものなんだろう、と。何度かイベントに本を買いに来てくれていたので、顔は覚えている。スペースに座って隣のサークル主さんと楽しそうに話しているみいらさんに視線を配り、軽く会釈した。
「こんにちは。お邪魔してすみません」
「きゃ~!?藤乃先生!ほんとに来てくれたんですね……!私なんかのために来て頂いてありがとうございます」
「そんな大袈裟な……はいこれ、つまらないものですが」
「わあ、めっちゃかわいいお菓子の包みですね!藤乃先生がこれを買う光景がさらにかわいいな~見たかったな~」
「やめてよそういうの!」
こうやって話していると、案外ツイッターのノリで話せるものだ。リアル世界では仕事用の固い口調でしか喋れない私でも、みいらさん相手だと軽口を叩ける。テンション高めの彼女は、いつもより各段に声を高くして、栗色の巻いた髪がはしゃぐ度くるくる揺れていた。真っ黒な髪を癖にならない長さでばっさり切っている私とは正反対だ。オタクあるあるだけど。
「先生用に本取り置きしといたんで、よかったら」
「ありがとう。今回のも楽しみだな」
笑顔で受け取った本は、表紙がいつもより落ち着いたデザインだった。既視感がある。私が自分で作る表紙と、ちょっとデザインの雰囲気が似ていた。
「帰ってから大事に読むね」
そう言って、長居するのも悪いからとその場を立ち去ろうとして、みいらさんがはっとして「待って」と声を絞り出し、椅子から立ち上がった。鬼気迫る表情に思わず足を止める。
「あ……あの!もしお時間あればなんですけど。今読んでくれませんか?」
「スペース前に居座ったら邪魔になりますし、今はちょっと」
「お願いします」
いつになく真剣だった。みいらさんが頭まで下げたので、慌てて彼女に駆け寄り「分かったから顔上げてください」と周囲の視線が突き刺さる中説得する。
「読み終わったらまた連絡しますから。すぐ読んできます」
「……はい。待ってます」
すぐとか言っちゃったけど、かなり厚みあるなこの本!?
ずしっとした感触を手に、コンビニ前に乱雑に並んでいるテーブル席に座る。他にも買い物の休憩のために座っている人がいて、思い思いに過ごしていた。こういう光景もイベントならではだよなと嬉しくなりながら、本を開いた。
読み始めから、まるで自分の作風に似せたかのような作品だった。違う。長年書いてきたからこそ分かる。みいらさんは、本当は私と同じような作品を書くのを好んでいた人だったのだ。原作に寄り添った描かれた二人の関係性。そこから構築されていく、恋愛と呼ぶにはいささか重い感情をぶつけ合う二人。臨場感のある描写の中に光る言葉のやり取りに何度も胸を揺さぶられた。
みいらさんは、交流だけではない。本当はこれだけのものを書ける実力があったのだ。では何故、それを隠した作品を書いていたのだろう。
「藤乃先生が真っ青になっちゃうところ、見たかったのにな。もうクライマックスまで読んじゃいましたよね、時間的に」
ぎょっとして顔を上げれば、みいらさんがプリーツスカートを翻して微笑んだ。
「だって、『すぐ』読めると思ったんでしょ?いつもみたいに適当に読み流してもいけると思ったんでしょ?分かってましたよ、藤乃先生が私の小説、面白くないと思ってたの」
「じゃあ、なんで」
声が震える。全く威圧感のない彼女から、見えない気迫がぶわりと広がった。
「藤乃先生、この世界はね。まじめ~に書いてるやつなんて報われないんです。みんなと仲良くして、それっぽくいちゃついてるもの書いてればいいんです。なんでは私の台詞。なんで藤乃先生は、私よりもいいねが稼げない、クソ堅苦しいもの書き続けるんですか?」
言葉を失う。何もかも分かっていて、私を慕っているふりをしていただけなのだ、みいらさんは。淡々と話すみいらさんの笑顔は、まるで笑っていない。
「じゃあ……また『なんで』を返しますけど。今回あなたは私と似たものを書いた。クソ堅苦しくて人が寄り付かない、まどろっこしい話を。好きでもなければ書けないような作風ですよ、こんなの」
そうだ、好きで小説を書かなければ。こういうストーリーを練ろうとは思えないだろう。それこそ、交流目的の人なら、尚のこと。