*

 澄み切った青空に入道雲が描かれて、世界を照らす太陽の日差しは窓に反射してキラキラと光り、開けられた窓からは蝉の鳴き声が響き渡る。


「も、もう一度言ってもらってもいい?」


 そんな六月の、ある日の午後。


「だからぁ、三好さん、ついでにこの本返して来てくれないってお願いしてるんだけど!」


 クラスメイトの小沼千秋さんが私に少し分厚めの本を突きつけた。

 小沼さんは、可愛くてクラスでも目立つ女の子のグループにいる人だ。もちろん女の私でさえも可愛いと思ってしまうほどに。


「え、この本を私が……?」

「うん。だって三好さんよく本を借りに図書室行くでしょ? だったらついでに返して来てくれてもいいじゃん」

「いや、でも……今日は本借りるつもりはない、けど……」


 可愛くて目立つ女の子が言う言葉には力があって、内気気味な私はそれを嫌だとは言う勇気はない。


「そ、それに規則は借りた人が……」


 一応控えめにそれらしく説明をしようとすると眉間にしわを寄せて、


「もー、そんなの何度も聞いたって! でも私、今時間ないから三好さんにお願いしてるんじゃん!」


 と、一方的な言い訳を並べ始める小沼さん。


「え、でも……」


 今時間がないようにはとても見えないけれど。

 小沼さんに頼まれるのは、これでもう何度目かな。そのたびに小さな注意をしてみるも最後まで聞いてはもらえず。


「とにかくお願い! ね、これで最後だから!」


 結局最後はそうやって言い切られる。


 自信もあって可愛くて目立つ女の子の意見を無視することができない私は、


「……じ、じゃあ、今回だけね」


 本を受け取るしかなくて。


「わー、ありがとう!」


 と、棒読みにもとれる言葉を告げられる。

 そうして小沼さんは「行こ行こっ」と友達と楽しそうな顔を浮かべてどこかへ去って行く。


 私の手の上には、少し分厚めの本がどっしりと重たくのしかかっていた。


「また私が……」


 〝これで最後〟を聞いたのは、何度目かな。

 私の記憶が正しければ、二年になってすでに五回目。

 きっとそれを使う人は、今までも何度か使っているに違いない。彼女たちが告げるお願いには一体どれだけの効力があるのだろうか。


「……失礼します」


 憂鬱な足取りで図書室へ向かうと、カウンターにいた先生が私を見て、


「もしかして三好さん、また頼まれたの?」


 私と本を交互に見つめて苦笑いを浮かべていた。

「あ、これは、べつにそういうわけじゃ……」

「その言い訳もう何回目かしらね。さすがに先生も嘘だって気づくわよ」


 このやりとりを数回繰り返したおかげで、先生には通用しなくて「うっ……」と言葉に詰まらせる。


「規則では、ちゃんと借りた人が返却するものなのよ」

「は、はい」

「ちゃんと相手にそのことは伝えた?」

「……はい、伝えてはいるのですが……」


 伝えている途中で面倒くさがられて、逃げられてしまう。


「ほんとにー? それなら来るはずだけど、おかしいなぁ」


 そんなの、来るはずはない。

 それはよく私が知っている。


 べつに意地悪をされているわけでもないし、無視をされているわけでもない。

 利用されているわけでもないんだ、って自分に言い聞かせるように。


「で、でも、なんだか忙しそうだったので……」


 きっと、小沼さんたちの時間はめまぐるしいスピードで過ぎ去って。

 だからこそ止まることを許さなく、無駄なことはしないために、そこにいた私に頼むのかもしれない。


「もしそれが事実だとしても忙しいとか関係ないのよ。借りた人が返却する規則があるんだもの。それは先生には通用しないわ」


 先生みたいに強く言えたらどんなに心は楽になれるのかな。


「三好さんもっと強く言ってもいいのよ。これはあなたが返す必要はないわけだし」

「は、はい……すみません」


 ついくせで謝ってしまうと、


「もう、だから三好さんが謝る必要もないのよ」


 肩をすくめて呆れたように笑った先生は、私から本を受け取ると、返却用としてプリントに記入する。


 小沼さんの代わりに本を返すようになって五回目。

 あとどれくらいこれが続くのかな。


 そんな未来を想像して、少し憂鬱になり、目を逸らす。

 と、視線の先に映り込む綺麗な夕焼けの写真。


 暖かみのあるオレンジ色と、もうすぐで夜を連れてくるような深い青色が少しずつ混ざり合うような絶妙な境い目が、そこには描かれていて。


「……綺麗」


 ーー思わず声が漏れた。


「あ、それ? 綺麗だよね。先生も好きなんだよね」

「……これ、先生が撮ったんですか?」

「ううん、それは生徒がくれたの。三好さんと同じ年の子なんだけどね、写真を撮るのが趣味なんだって」


 同じ高校生とは思えないくらいに繊細な風景に見入ってしまう。


「へえ、生徒が……すごいですね」


 それにひきかえ私には、なにもない。

 勇気もなければ、自信もない。

 変わりたいと思っていても行動に移すことができない私。

「──あ、よければいる?」


 おもむろにそれを掴んで、私に向ける。


「え、でも、それじゃあ先生……」

「大丈夫よ。これ、いくつももらってるの。自分のファンを増やすために写真に興味ある子に渡してくれって頼まれてるの」


 ……自分のファンを増やすため?

 よく分からなかったけれど、これをもらって先生が困るわけではないらしい。


「じ、じゃあ……ありがとう、ございます……」


 先生から写真を受け取った。


 それはあまりにも綺麗すぎて、思わず頬が緩む。


「三好さん、写真好きなの?」

「あ、いえ、特別好きっていうわけではなく、でも嫌いなわけでもないんですけど……」


 自分の気持ちをまっすぐ伝えるのが苦手で、いつも最後になると何を言いたかったのか相手に全然伝わらない。

 私が伝えたいのは、そんなことじゃなくて。


「心が、動いたというか……」


 さっきまで嫌なことを頼まれて憂鬱だったのに、いつのまにかその感情はどこかへ消えていた。


「じゃあ、SNSも見てみるといいわよ」


 返却用プリントを書き終えた先生が、そんなことを言った。


「え?」

「その子ね、日常の写真をアップしてるみたいなんだけど、先生もフォローして見てるんだ。ほんとにすごく綺麗なのよね」


 私が胸の前で掴んでいた写真を「ちょっと貸して」と掴むと、写真の裏側を向けて。


「ほらここ、URLが書いてあるでしょ? ここから写真が見られるわよ」


 先生が指をさした、その先には。


【この写真を手にとってくれてありがとう。
 もしよければ他の写真も見てもらえると嬉しいです。】


 短い文ではあるが、手書きで書かれていた。

 それはとても繊細で、一字一字が同じ大きさで書かれていた。


「あ、この写真撮ってるのは男の子なんだけど、彼が撮る写真はすごく綺麗なのよ」

「……え、男の子なんですか?」

「うん。あ、名前はーー」


 と言いかけてハッとした先生は「あぶないっ」と口を覆って、


「内緒にしてほしいってお願いされてるんだった!」


 と、慌てた様子だった。


「男の子がこんな素敵な写真撮るなんて……なんか、すごい……ですね」


 ううん、すごいなんて言葉だけでは足りないくらい。


 もっと彼のことを知りたくなる。


「……どんな生徒なんですか?」


 だから、素直に興味が湧いたんだ。

 こんなに綺麗な写真を撮る彼は、どんな人なんだろうって。


 すると、「んー、そうねえ」と顎に指を当てながら、しばらく考えたあと、


「すごく心が優しくて穏やかな子かなぁ」


 と、表情を緩めていた。

「優しくて穏やか……」

「三好さんも会ったら好きになっちゃうんじゃないかしら」

「な、なに、言ってるんですか……そんなこと、あるわけないじゃない…ですか!」

「分からないわよ。恋は、いつのまにかしているものなんだから」


 ーー恋なんてそんなのあるはずない。

 それにまだ私は、初恋の経験がないから恋がどういうものなのかさえ分かっていない。


「恋をすると世界がキラキラして見えるのよ。先生も学生時代は好きな子がいたな〜。あの甘酸っぱい感情をもう一度味わいたい」


 恋をすると、キラキラ?


「光ってるんですか?」

「そうよ! もうね、世界が輝いてみえるの! 色鮮やかで毎日が楽しくて、明日が待ち遠しくなるくらい!」


 興奮気味にしゃべる先生は、学生の頃を思い出して乙女のように目をキラキラさせていた。


「だからね、恋はいいわよ!」


 と、力説されるからその圧力に押されて苦笑いを浮かべながら黙り込んでいると、


「それとももしかして……すでに好きな子がいるとか?」


 ぱあっとさらに目を輝かせる先生は、なにかを誤解しているようで。


「いっ、いませんよ!」

「あらあら、ほんとかしら〜?」

「ほっ、ほんとです!」


 自分の気持ちを伝えるのが下手で適切な言葉が見当たらなかった私は、


「とっ、とにかく、ほんとにちがいますので……失礼します……!」


 結局逃げるほかなかったんだ。


 ***


 ──その日の夜。

 私は、スマホでURLを検索した。

 画面には、ひとつのアカウントが現れる。

【Rituki】


「……わ、ほんとだ、すごい写真がたくさん」


 スクロールして過去の方へ戻ってみるが、数えきれないほどの写真があった。


「どれもぜんぶ綺麗」


 ひとつひとつ、丁寧に見ていく。

 それだけでたった一冊の本を読んでいるくらい時間が過ぎる。


「それにひきかえ私は……」


 高校に入学してすぐのこと、友達を作るきっかけにとつくっておいたアカウントは、今もフォロー、フォロワー0のまま時間だけが過ぎていた。

 今になってこれを使うときがくるとは、思っていなかったけど。


「まぁでも……消さないでよかった」


 だって、こんなに綺麗な写真がいつでも見られるんだもん。


 写真は主に日常の風景で。

 春は、桜。桜の木の下から撮って木漏れ日が綺麗だったり、道端に咲いている小さな花や、真っ直ぐ伸びる道路、路地裏で寝転ぶ猫。

 一日一枚投稿されている写真には、全部にひと言コメントが添えられていて。


【春の桜を見て笑顔になりますように】


【人生は一本道だけではない。諦めないで】


【ひなたぼっこしてる猫を見てほっこりして】


 彼の思いが、言葉が、文字として残されていた。

 まるで彼の目線で、同じ景色を見ているみたい。


「……こんな素敵な写真を撮る人って、どんな人なんだろう」


 ポスっとベッドに仰向けになりながら、スマホをかざして画面を見つめる。


 目の前には、優しい光景が広がっていて。

 目を閉じれば、まぶたの内側にその光景が焼き付いているようで。

 ──私、もっともっと、この人の写真を見て見たい。

 *

 朝、いつもより早起きをした私は、誰もいない教室でスマホの中の小さな世界へとダイブしていた。

 すると、すでに今日の日付けで写真が投稿されていた。


【綺麗な朝焼けをおすそわけ】


 そんなコメントとともに、紫がかった夜と遠くから差し込む日差しのオレンジ色が絶妙なグラデーションを描いていた。


「うわー、綺麗……」


 朝焼けって聞いても今までだったらこんなに感動することなんてなかったけれど、朝焼けってこんなに綺麗なの?


 これ、何時に起きたら見られるんだろう?

 ちゃんとこの目で見てみたい……!


 景色なんて全然興味がなかったのに、あっという間に写真の世界にのめり込んでしまう。

 もっといろんな景色を見てみたい。

 もっとこの人に近づいてみたい。


 どうしよう、私……

 ──この人のこともっと知りたい。

 名前も顔も分からない男の子のことが気になってたまらなくなり。


 勇気を出してみることに決めた。


【素敵な写真に惹かれました。勝手ながらフォローさせていただきました。よろしくお願いします】


 が、彼に送るメッセージを何度も何度もおかしくないか確認する。


「うん、大丈夫。でも……緊張する」


 悩んでばかりで時間だけが過ぎる。


 このままじゃらちが開かないし……ええいっ、もうどうにでもなれ!


 メッセージを送ったあと、彼のSNSの一番上にある【フォロー】ボタンを押した。


 迷った末、指先ひとつに願いを込めた。


「……お、押しちゃった」


 いきなりメッセージ送って大丈夫だったかな。

 引かれたりしないかな。


 でも、ちゃんと届いてほしいな。

 スマホをぎゅっと握りしめて、願いを込める。


 現実世界では、内気気味で相手に自分の気持ちを伝えることが苦手で自分から行動に出られないのに。

 勝手に動いた心は、一体何なんだろう。

 その日のHRが終わったあと。

 スマホを確認すると、「メッセージ一件」と表示されていた。


「えっ、もしかして……」


 周りに誰もいないことを確認して、アプリを開く。


【はじめまして、こんにちは。フォローいただきありがとうございます。そして、写真を褒めてもらえて嬉しいです。すごく嬉しいです。こんな僕の写真でよければ、ぜひ見ていただけると嬉しいです】


 返事と共に私のアカウントまでフォローしてくれていた。

 そのおかげで、今までずっと0だった数字が1に増えていた。


「うそっ、嬉しい……」


 まさか私の何もつぶやいていないアカウントをフォローしてもらえるなんて想定外すぎて、ここが教室だということを忘れてガッツポーズしてしまう。


「三好さん、何してるの?」


 席と席の間を歩いてくる小沼さんがクスッと笑いながら立ち止まっていた。


「あっ……う、ううん、なんでもない……!」


 挙動不審に誤魔化すと、「へーんなの」と言って笑ったあと、「じゃまたね」と続け様に言うから、自分に言われているのかと気づかなくてぽかんとして。


 〝また明日〟と言おうと口を開いたときには、すでに小沼さんの姿は廊下へと消えていた。


 私ってば、ほんとにタイミング悪いし人としゃべるのが下手くそだ。


「……せっかく仲良くなれるきっかけだったかもしれないのに」


 なーんて思っても、小沼さんはきっと私をからかっているだけに違いなくて。友達になりたいとかそういうわけじゃないよね。


 だって本を返すのを頼まれたり、今みたいにからかわれたり。多分、私は都合よく使われるだけ。


「電気消すぞー」


 男の子の声が聞こえるから「え、あっ、ちょっと……」待って、と言う前に、パチっと小さな音がして電気が消える。


 そのせいで少しだけ暗くなる教室。

 そして、気がつけば周りに人はいなくなる。


「私ってそんなに影薄いのかなぁ……」


 そりゃあ、みんなみたいにキラキラしてないし目立たないし、友達もいないし、ひっそりと過ごしてるかもしれないけど。