家に帰ってもまだ母はいなかった。時計の針は2つが仲良さげに上を向いている。隣近所は寝静まっていて、冷蔵庫のブーという音が寝苦しい夜のように耳に響いた。

この時間に母がいないのはいつものことだ。どうせ十何人目かわからない男とよろしくやっているのだろう。
そう思い込もうとするが、七星の言葉がそれを邪魔する。

『入院手続き』

彼は間違いなくそう言おうとしていた。
入院するということなのだろうか。するとするならばいつから。そもそもいつから通院していたのだろうか。何の病気なのか。今どこにいるのか。
私は母のことを何も知らなかった。

母がいないのならば帰ってきても何もすることはなく、外出していた姿のままベッドに倒れこむ。カーテンの隙間から月が覗く。アルファベットのDを少しだけ太らせた半月だった。ここは家の中で唯一心が安らぐ場所。母も私の部屋に入ってくることは絶対にない。
そんな私の場所で母への憎悪を膨らませようとした。

母は責任とか覚悟とかそんな言葉とは無関係に私を産んだ。本当の父親のことは何も知らない。それから父親を何人も作って、そのたびに捨てていった。私を産んだことを後悔しているのではないかと幾度も考えた。私は産まれてこないほうがいい人間なのではないかと。そう自問しなければいけないのもすべてこの不安定な『家族』が原因なのだ。母のせいで思い出を描く絵日記の宿題が怖かった。名前の由来を聞いてくる宿題が怖かった。ファミレスが、芸能人の不倫報道が、母の日が怖かった。
七星のこともそうだ。七星に恋愛にまっすぐに向き合えないのも母のせいだ。母のようになりたくない。母のようになるくらいなら恋愛なんてしたくない。石碑に刻まれるかのように絶対的に君臨する私の訓示は、小学生低学年のころから形成していた。母を見て育ってきたのだから、母を反面教師にするしかなかったのだ。
私が今イライラするのだって、今まで辛かったのだって、この先も苦しいのだって全部あいつのせいだ。


靄がうっすらとかかっている。憎しみの上にベールをそっとかぶせる何かがいる。私の中に怒りと憎悪をどれだけ煽ろうとも、それに火がついてくれることはない。
それが病気というものだとすれば、狡いと言いたくなる。
病気にかかっているというだけであの人がしたすべてを許せるわけがない。母に対して持つ嫌悪は風に吹けば飛ばされるようなヤワなものではないはずだ。

でも実際に消化しきれないもやもやがあった。心配なんてものには遠く及ばない、とても女々しいもの。