「海へ行こう」と誘ったのは私の方だった。思い出したらそこに行くという気持ちがあふれて仕方ない。私はカレーの匂いを嗅いだ日の夕食は安直にカレーにするタイプだ。
あっという間に逢魔が時は過ぎ去り夜と呼んでもいい時間帯になっていたが、断られることはなかった。途中のコンビニで手持ち花火を買い、歩いて30分ほどの海へと向かった。

ここへ来るのはあの思い出の日以来だった。あの父親はそれからもしばらくは父親をやっていたが、結局次の夏を迎える前に消えた。海はあの日と何も変わらないでいた。海洋汚染も海面上昇も実感できるような身近なところにはいない。
昼は営業していたのであろう海の家の残骸が海岸に打ち捨てられていた。少し規模が小さくなったかと思ったけれど、すぐにそれは私が成長したからだと納得する。

「ここは来たことあるの?」
「あるよ。小学生のころに、母と、……父親と」

夜の砂浜は余計な体温を気持ちよく下げてくれた。
波のさざめきが、月の灯りが、隣の七星が、夏夜の砂浜を魅力的なものとしている。得も言われぬ高揚が、一瞬でまた砂浜に奪われていく。
今ならどんな告白でもうまくいきそうな気がするなんて柄でもないことを考えてしまった。

私は夜の重なりに惑わされていた。

だから、
「好きだよ」
という言葉がすんなりと耳に通る。私の声ではなく、七星の声。

同じように惑わされた七星が、隣で何かの決意を固める音がする。

「僕は芽衣ちゃんのことが好きだよ」

いつかシーリングファンが回る喫茶店で言われたセリフ。もっと遡れば、高校の屋上に通じる階段で言われたセリフ。
けれど、いつもみたいに聞き流すことができなかった。
七星ははっきりと私を見つめている。闇の中に力強い双眸が2つ。

「だから知りたい。芽衣ちゃんが抱えていること、芽衣ちゃんが悩んでいること。それから、芽衣ちゃんの家族のこと。聞かせてほしい」

まっすぐで誠実な思いに私は悟った。
これは黙っていても退いてくれないな、と。

一度視線を外して海を眺める。
今までずっと七星の優しさに狡く甘えてきた。けれどそれも今日で終わりにしなければいけない。
今なら言える気がした。母への嫌悪感、父がいないという恥ずかしさ、私の弱さ。すべて包み隠さず言えば七星ならきっと聞いてくれるだろう。私が泣き出せば彼ならぎゅっと抱きしめてくれるだろう。なによりも必要な温かさをそっとくれるだろう。
あと私に必要なのはほんの少しの勇気だった。

微かな風が頬を撫でる。

「七星には関係ないよ」

でも私は言えなかった。
七星の優しさを酷く裏切った。
勇気が出なかったと言えばそれまでだが、それ以上に母を許したくなかった。私の弱さを認めることは母を許すことのような気がして、七星に言うことができなかった。
私は母が嫌いだった。

「関係ないことないだろ!」

初めて七星が少し声を荒げた。

「うるさいな」
「なんでそうやっていつも誤魔化すの」
「誤魔化してるわけじゃないし。助けてほしいなんて頼んだことはない」

七星が眉を下げて悲しそうな顔をした。その悲しみを柔らかくするような笑みは含まれていなかった。

「なんでそうなこと言うんだよ。芽衣ちゃんの力になりたいって言ってるのに」
「だから七星には、関係ないことだから」
「そんなことないだろ。僕はいつも苦しんでいる芽衣ちゃんを見てきたんだから」
「苦しんでたこともないし、関係もないよ。これは私の問題だから」
「好きな人が問題を抱えているなら、協力したいと思うのは当然だろ」
「じゃあ、もう好きな人やめよ。もう好きじゃない」

惑わされた私はもう止まることはできなかった。海の家の残骸も、コンビニで買った手持ち花火も、空に浮かぶ北斗七星も、私たちには見えなかった。

「それ本気で言ってんの?」
「うん。もともと最初の人だから好きだっただけだし」

どこかで、最低だなと冷静に見ている自分がいる。愛してくれている七星を傷つけるようなことを言って、母親と一緒じゃないか。結局お前もあの女の娘だったんだな。
苦しい。七星はもっと苦しい。
鈍器となった言葉が、あっという間に私たちの関係をぐちゃぐちゃにつぶした。

隣で七星がスッと立ち上がった。
下から見上げたからだろうか。こんなにも背が高かったんだと、どうでもいいことを考えていた。

「ちょっと距離置こう。少し頭を冷やしたほうがいい。僕も芽衣ちゃんも」

こう言い出せる七星は、私よりも遥かに冷静な大人だったのだろう。
夏夜の砂浜以上に冷やしてくれる場所なんて知らない。
しかし七星は沈黙を肯定と受け取ったようだった。そもそも今の私に「待って」と言える資格などない。私は彼を傷つけたのだから。


「今はじゃあね。芽衣ちゃんが大変な時期にそばにいてやれないのは申し訳ないけど」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。ごめん、知ってるんだ。お母さんの病気のこと」

「は?」
七星の言っている意味がわからないのは、きっと熱くなっているからだけではないはずだ。脳が理解することを拒んでいる。

「姉さんに聞いた。お母さんが通っている病院、実は姉さんの勤務先なんだ。担当看護師ではないらしいんだけど、入院手つづ」
「待って」

追いつかない頭の処理に、大事なところをハッキリさせようとする。

誰が(・・)病気なの?」
「え? だから芽衣ちゃんのお母さんが。じゃないの?」
「そんなの知らない……」

あの人が、病気?
そんなわけはない。
とは言い切れない自分がいた。
あの人は根っからの夜型人間で、若いころからチャラチャラしていたことは想像に難くない。一緒にご飯を食べることはないから食生活は知らないが、ろくなものを食べていないだろう。セブンスターは今でもゴミ箱に溜まり続けている。体のどこかが不調を訴えたところで何も不思議な点はない。

それに看護師の姉という存在が、それが事実であるという何よりの証拠であった。

「そう、なんだ」
「大丈夫?」
「行かなきゃ。家に帰らなきゃ」

急に義務感のようなものが生じて、帰路に着く。ついさっきまで距離を置こうと言っていた七星が心惜しそうに見送った。
家に帰ったところであの人はいないかもしれない。というより別に心配はしていない。あの人が病気になったところでどうだっていい。どうだっていいけれど、やはり無関心ではいられなかった。

夏の海岸線に、波が寄せては引いて。寄せては引いていく。