……ちゃん。芽衣ちゃん」

誰かに呼ばれた気がして、いやこの夢から逃れたくて目を覚ます。うだるような暑さを和らげているシーリングファンが目につく。タイトルのわからないクラシック音楽と、コーヒーの匂い。目の前には私を夢から引き揚げてくれた七星(ななせ)がいた。

「おはよ」

子犬みたいなコロコロとした笑顔で七星が言った。
寝顔を見られていた恥ずかしさから視線を外しながらぶっきらぼうに答える。

「どれだけ寝てた?」
「んー30分くらいかな」

学校帰り、家に帰りたくなくてテスト勉強を理由に七星を喫茶店に誘った。事実、高校生の私たちには期末テストは大きなイベントの一つであり、その結果次第では夏休みの充実度が変わる。文字通り、夏の自由がかかっている。
だからテスト勉強は学生が必死に取り組むべきものであるし、付き合っている二人で放課後喫茶店に寄って教え合うということになんら違和感はない。
しかし私は毎回何かしらの口実をつけなければ七星を誘うことはできなかった。今回はそれがテスト勉強だった。

数学の参考書に向かおうと、目をぬぐったとき人差し指が微かに湿った。
まただ。

「どうしたの」

七星はその言葉の主語を示すように目元を2,3回叩いた。

「何でもない」

夢の内容はまるで覚えていない。ただ、たぶんだけど、母が出てきた。そして私はその夢から逃れたかった。知らない人に勝手に抱っこされた赤ん坊が暴れて泣きだすように、私は夢の中で外に出ようと足掻いていた。母を求めてではなく、母を避けるようにして。
だけど、そんな私がなんだか子ども失格のような気がして、それで涙が出る。いつもそんな感じ。
夢の中での母への嫌悪感。起きた後の自己嫌悪感。
心地よいとは言えないその両者に板挟みにされている。

「何でもない涙なんてこの世にないよ」

まっすぐに見つめてくる七星の視線から私はまた逃れることしかできなかった。七星はきっと心から心配してくれている。でもどこまで踏み込んでいいものかと思案もしている。他人のパーソナルスペースのようなものを明確に引いていて、それを踏み越えないように気を使っている。
彼は優しい。
その優しさに、私は狡く甘えていた。
黙っていれば彼が引いていくのを知っている。

今回もやはり彼は、線を踏み越えてはこなかった。

「無理しないでね」

汗をかいたアイスコーヒーを持ち上げると、小さくぽちゃんと音が鳴った。離れたくないものが必死で手を伸ばすような音だった。
非情にも私はそれを引き裂いて、アイスコーヒーに口をつける。

「僕は頼りないし気の利いた言葉も言えないけどさ。たまには頼ってほしいな。君が心に抱えている傷があるならそれを僕にも触れさせてほしい。僕は君の彼氏なんだ。君のことが好きなんだ。
正直、今は君が僕のことを好きでいてくれているかどうかさえ少しわからない」

彼は悲しそうに微笑んだ。
君のことが好きだと彼は改めて口にして伝えてくれた。けれどその言葉が私をじんわりと温めてくれることはなかった。私は無償の愛なんて知らないから。

彼と付き合って1カ月半。
私にだって彼のことが本当に好きかどうかなんてわからない。
彼は私にとって一人目の男の子だからずっと好きでいるのだ。

あの人みたいにはなりたくないから。