夏休みが終わる。それは途方もなく悲しいことのようで、自分の中のどこかが引きちぎられるような喪失感を伴った。
線香花火が落ち消えるように。七日目の蝉が最後の一声を振り絞るように。甲子園の閉幕を知らせるサイレンのように。物悲しさを残して、夏休みはいつも去って行く。
夏休みが去るように、母は死んでいった。

夏休みが終われば学校が始まる。皆がまだ浮かれ気分で、それと同時に憂鬱を顔に出して登校する。どれだけ九月病だと叫ぼうと、学校へ行かなければならない。しかし、それは有難いことなのかもしれない。母がいなくなって、私は感情の行き場を失っていた。
ぽっかり空いた穴の埋め方を何も知らない。
それは決して私の中で母親という存在が極めて大きかったというわけではないと思う。例えて言うなら、もしサザエさんが終わってしまったとしたら普段見ていなくても残念に思うという類のものだ。きっとサザエさんが終わるとき、誰もが言うだろう。もっと見ておけばよかったと。

「どこか行くの?」
サンダルを履く私に元父親は声をかけた。
「ちょっと散歩」
「一緒に行こうか?」
「いや、大丈夫」
「そう。気を付けて」

行き場のない気持ちを鎮めるために私は外に出た。それは傷跡に絆創膏を貼って、見えないようにするだけの行為に似ているが、実際誰も血が見たくないのだ。たとえ根本的解決になっていなくとも、それに縋りたいときだってある。
目的もなく歩いてみたとき、いつか同じように七星と歩いたことを思い出す。禍々しい逢魔が時などという名前が付いた時間に2人並んで歩いた。あの日は結局海に行ったんだっけ。と思ったとき、七星とはそれ以来会っていないことを思い出した。それがたった2週間前の出来事であることも。あまりにいろいろなことが重なって遥か昔のことのように思える。
足が自然と海へと向かった。

潮風が気持ちいい。そう感じられるくらいには夏の暑さは落ち着いていた。
ザーッザーッという波の音は私の中を心地よく通り抜けていく。シーズンが終わり、人はおろか海の家の残骸まで取り除かれた。夏が終わることを最も感じているのはもしかしたらこの海なのかもしれない。
私の中で蠢く心臓が落ち着いていく。今の私にはこの静かな空間が必要だった。

しかし、打ち寄せる波の音の間から私を呼ぶ声が聞こえた。
「芽衣ちゃん」

元父親がついてきたのだろうか、と思いながら振り返るとそこに立っていたのは七星だった。ポロシャツに涼しげなアンクルパンツ。シーズンの過ぎた海に似つかわしい格好ではあるが、どこかぎこちないのは七星が壊滅的に夏に似合わない華奢で色白な男だからだろう。
そのアンバランスさに私は思わずクスッと笑ってしまった。

「え、意外に元気なんだ」

その様子を見て七星も肩の力を抜いた。

「あの人、死んだよ」
「うん知ってる。姉さんに聞いた。ここに来たら会えると思って」
「なんで?」
「芽衣ちゃんは欲望に忠実なタイプだから。思い出したら絶対ここに来ると思った。テスト前でも眠たいときは寝るし、夜でも容赦なく呼ぶし」
「喧嘩した後でもアイスは食べるし」
「アイス?」
「ううん。こっちの話」

それから2人はあの日みたいに並んで座った。
夜の海辺ではなかったので、あの日みたいに得も言われぬ感情は湧いてこなかった。その代わりに私の心を占めたのは安心感だった。隣に七星がいることの安心感。母が死んだことを正直に話せる安心感。

「あの人が死んだときさ」
「うん」
「大人ってホント卑怯だなって思った」
「なんで?」

あんなに嫌がっていた母の話を私は自分から持ち出した。

「ずっとあの人のこと嫌いだったの。憎んでた。それこそ死んでほしいって思うくらいに。で、母のことを嫌う私自身も大嫌いで。」

七星はただ穏やかに聞いてくれていた。誰かに伝えることなんて考えていなかったから下手くそな話し方だった。あんなに強い感情だったはずなのに言葉にすると、嫌いしか出てこない。それでも七星はすべてを聞き漏らすまいと耳を傾けてくれた。

「私、本当の父親を知らないからさ、血がつながっている人ってあの人だけだったの。だからどうしても無関心で無関係でいられなくて、でも私のことなんてほったらかしに男と遊んでいる母親がどうしても好きになれなかった。少しでも嫌いって思ったらあの人と会って話すだけでもイライラして、そんな自分にもイライラして。なんでうまくできないんだろうって、なんで好きになれないんだろうって。結局その原因をあの人に求めてきつく当たってまた自分が嫌いになる。その繰り返し。母も私もずっと嫌なやつだった」

七星は優しく首を振ってくれた。でも邪魔をしないように口は開かなかった。

「そしたらさ、死ぬ間際になってあの人言ったんだ。一生愛してるって。そんなん狡いよ。大人はいつでも大逆転できる手立てを持っているんだから。子どもが知らない時間に、子どもが知らない方法でその布石を打っている。男と遊んでたのだって全部私のためだって言われたら、そんなの卑怯だよ。そんなことされたらもう子どもの負けじゃない。全部私のせいじゃん。私が一人で母のこと嫌っててバカみたい」

「そうかもね。大人っていつでも卑怯だ」

「もう今更許せるもんか。私の人生はあの人への反抗期でずっと染まってんだよ。避けて、もの投げつけて、恨んで、歯向かって、呪って、怒って、嫌って、罵ってきた。それをするだけの権利が私にはあると思ってきた。私に芽衣なんて適当な名前つけて。今でも思ってる。あの人のことなんてこれからもずっとずっと大っ嫌いだ」

なぜか満足そうに七星は頷いた。そして言った。

「でも大好きなんだね」

私は話しながら泣いていた。私の行く当てのない感情たちが出口に群がるみたいに一斉にあふれ出してくる。とめどなく流れる涙を拭うことはしなかった。

「許したくない……」
「許さなくても、好きになることはできるよ。好きになったところで芽衣ちゃんの中にある嫌いはなくならないよ。それでいいんだよ」

頷いていた。だって私は母が好きだったから。大嫌いで大好きだったから。

本当は母が死んだ瞬間泣きたかった。ベッドの隣でずっと手を握っていたかった。ありがとうって言いたかった。ありがとうって言われたかった。母と抱き合いたかった。
泣いている私を七星がそっと包んだ。

とても温かい。

その温かさに包まれながら、でも私は彼を押し戻した。
彼にも伝えなければいけないことがある。
私は彼にも素直にならなければいけないのだ。この夏をそばで支えてくれていたにもかかわらず一方的に傷つけてしまった彼に。

「好きじゃないって言ったこと、ごめんなさい。きっと心のどこかでそう思ってたんだと思う。母がたくさんの男と遊んでたから、私は1人の人を愛するんだ。最初の人をずっと好きでいるんだ。そんなつまらない私の意地に七星を巻き込んだ。そして傷つけた。本当にごめんなさい」
「うん。これから僕たちどうする?」

七星は限りなく優しかった。私にはもったいないくらいに。
こんな私のことをまだ好きでいてくれるなら、もう一度チャンスをくれるなら。

「私は七星のことが好き。母がどうこうとかではなく、私が好きなの。5月生まれの芽衣が」
「よかった。僕も芽衣ちゃんのことが好きだよ」

彼はもう一度、温もりをくれた。
私も彼にほんの少しでも温もりを与えられるように、背伸びをしてそっと口づけた。

夏が終わる、海岸で2人。