母の言葉を借りるなら、おたふく風邪以来の総合病院は高々と聳え立っていた。それは私が成長しようがやはり大きな威圧感を感じた。
受付で母の名前を出すと、すぐに8階だと伝えられる。
病室の表札に書かれた母の名前を見ると、母がもう健常者ではないのだということをありありと感じた。
4人部屋の入って奥、右手側。そこが母のベッドのようだった。

多少の覚悟を持ってカーテンを引くと母の姿はなく、途端に気が削がれる。
直後、背後から「芽衣」と声をかけられると、あまりに驚いて両肩をビクンと動かした。
「何びっくりしてんのよ」

母だった。
病院服に身を包みメイクもしていない母は剣を持たない勇者のように脆弱だった。横には他の患者と同じように点滴用のスタンドを携帯しており、今までの母を知る私にはそれがひどく似つかわしくないように思えた。そして久々にちゃんと正対した母は痩せていて、小さかった。

「イヤホン、持ってきてくれた?」

見惚れるという表現が正しいほどボサッと立ち尽くしていた私は、母の言葉に生気を取り戻し慌ててカバンの中からイヤホンを取り出した。

「そんなに長いのはなかったけど。一応2種類……」
「やるじゃん」

「いや入院するようになってさ、テレビのありがたさを初めて知ったよね。ずっっっと暇なんだわ。家の中にいる時にテレビ欲しいなんて思ったことなかったけど、ここではテレビないと生きていけない。この年になってテレビハマりそうだわ」

母は嬉しそうに受け取ったイヤホンを早速テレビのプラグに差し込み始めた。長さも十分足りるようだ。
イヤホンが届かない間はずっと談話室まで行ってテレビを見ていたらしい。家にテレビがなかったのは母も私もそれを望んだことがなかったからだ。そんな母がわざわざ談話室に行ってまでテレビを見たいと思うとは、よっぽど暇だったのだろう。

母が私を病室まで呼んだ目的がイヤホンであれ、私が病室まで来た目的はまだ達成していない。喜々としてテレビにかじりつく母には悪いがテレビを消す。
母がイヤホンを外し、訝しげな表情でこちらを見た。

「ねえ、私聞いてないんだけど」
「何を? もしかして芽衣もテレビの音聞きたかったの」

本気でそう思っているのか、母はイヤホンを片耳差し出してくる。
無視して私はつづけた。

「入院のこと何も知らないんだけど。てか病気なんてあんたの口から一言も聞いてないんだけど」
「ああ、言ったほうがよかった?」

悪びれる様子もなく、あっけらかんと言う母にフラストレーションがたまっていく。

「しかしびっくりしたよね。こんな急に病気かかるもんなんだねぇ」
「……病名は?」
「知らない。長ったらしい名前言われたけど、一文字も覚えてない。まあどこかしらの臓器が悪いんだってさ」
「…………」
「体内年齢っていうの? 臓器年齢だっけか。まあそういうのが私はもう60過ぎなんだってさ。失礼しちゃうわよね。体内おばさんで、見た目お姉さん。これが本物の美魔女ってやつなのかもね」

病気になったことによる空元気というわけではないようだった。どちらかと言えば命とか人生とかいうものにまったく未練がないように見えた。それは終活を完璧に終わらせた老人のような心持だったのではないだろうか。だとするならばその満足はどこから来るのだろうか。もうこの世の男とは遊びつくしたということなのだろうか。

「病気はいつから?」
「んー、3か月くらい前かな。なんか息切れがひどくて病院行ってみたらって感じ。それからは素直に通院していたのよ」
「たまに昼でかけてたのはそれ?」
「そ。夜は急患しかやってないのよ、病院って。夜の人間に優しくないよね」

テスト終わりに母と会った日も通院していたのだろう。3か月も気づかなかった私が恥ずかしい。

「じゃあ夜は」
「夜はいつも通りよ。男よ、男」
「チッ」

相変わらず悪びれる様子もなく言った。
今しがた恥ずかしいと思った私が恥ずかしい。病気になろうが母は私の嫌いな母のままだった。

私は怒りに任せて席を立った。

「ほかに何か必要なものは?」
「特にないわ」
「あっそ」

用件はお互いに済んだのでさっさと病室を出ようとしたが、どうしても怒りが収まらず捨て台詞のように一言吐いた。それは復讐心からくる言葉だったかもしれない。私のどうしても弱い部分が吐かせた残酷な一言。

「死ぬときは勝手に死んでくれる」

母は最初驚き、一瞬悲しそうな顔を浮かべた後、そして笑った。
それを見届けてから病室を出た。

帰る前に主治医に話を聞き、母の病気が末期であることを聞いた。病名は私も一文字も覚えられなかったけれど、肺に問題があることはわかった。喫煙をどうにかやめさせるよう娘のあなたからも言ってくれないかと頼まれたが、それは無理でしょうと断った。あの人の肺は死ぬ時までセブンスターを望んで止まないだろう。やめることができなければ死期が早まるだけだとも言われたけれど、何も感じなかった。

私には関係のないことだ。