それでも基本的には手術以外は特にやる事もなかったので、暇つぶしに夏休みの宿題に取り組んだりした。気分転換に病院の裏庭で日向ぼっこをすることもあった。病院には私以外にも入院している人がたくさんいた。特に誰かと打ち解けること等は無かったが、たまにロビーで会うおばあさんが一人いた。おばあちゃんは私を見るといつもにっこりして手を振ってくれた。私も軽く会釈を返していた。けれどある日、おばあちゃんは手を振った後、そのままその手で私を招いた。どうしたのだろう、と思いながら私がおばあちゃんの側に行くと、おばあちゃんは曲がった腰を何とか伸ばそうとしたので、私が慌てて屈むと、不思議なことを言った。
「あなたはきっと大丈夫よ。いっつも、この人が見守ってくれてるみたい」
一体何のことだろう。“この人”とは誰のことだろう。私が首をかしげると、おばあちゃんは私の後ろを指さした。振り返っても誰もいない。そこには暖かな日が燦燦と注ぐ病院の中庭があるだけだ。
 もう一度おばあちゃんを見ると、彼女は私の後ろにいるという“この人”に話しかけるように言った。
「本当にそっくりねえ。あなたも、本当にお子さんが心配なのね」
「あの、私の後ろに誰かいるんですか・・・?」
思わずそう尋ねた私だが、おばあちゃんが答える前に看護婦が来た。
「宇田さんごめんなさい。お待たせしちゃって。じゃあ行きましょうか」
宇田さんと呼ばれたおばあちゃんは、ゆっくりと看護婦の方に振り向いた。私の質問には答えてくれないようだったが、彼女はもう一度振り返るとにっこりとして、また私の後ろの方を見ながら言った。
「あらあら、だめよ。そんな顔しちゃ。あなたがしっかりしないと。ね」
それだけ言い残すと、おばあちゃんは看護婦の方へゆっくりと歩き出してしまった。結局おばあちゃんが誰と何を話していたのかはわからなかったし、その日以降、おばあちゃんに会う事もなかった。
 夏休みが終わる五日前、私は退院した。私の予感は的中したのか、死ぬことなく白血病に打ち勝つことができたのだ。退院する日の朝、病室に入ってきた母は必死になって涙をこらえながら私を抱きしめた。抱きしめられるなんて久しぶりで、間近で嗅ぐ母の匂いに懐かしさが込み上げてきた。父はベッドの横に立ち、何度も頷きながら私の肩を叩いた。目に涙が溜まっていた。
「桔梗ちゃん。退院、おめでとう」