そばにあを

「・・・ありがとうございます。」

落ち着いた俺に、雨野さんはコーヒーを淹れてくれた。少しずつ啜りながら、ポツポツと言葉がこぼれる。

「・・・あいつ、薬が本当に苦手なんですよ。」

苦い物全般が駄目だった。熱が出ても咳が出ても、限界まで薬を飲もうとしないから呆れたこともあったっけなあ。

「子供みたいに嫌って言って飲もうとしなくて。」
「・・・。」
「見つかった日、たくさん薬を飲んでたって。眠くなる薬。市販のだけど。あいつ薬苦手なくせに、あんなに苦手なくせに、」
「要、もういいよ。」

雨野さんが、もういいよ、と首を振った。こんなの飲みたくない、と子供の様に駄々をこねていた奈月を思い出す。粒薬だって飲むのに何分もかけて、一生懸命飲み込んでいた。苦しくて苦しくて、俯いてしまった俺の背中に手を置いて、無言でゆっくりとさすってくれる。辛かったな、ポツリと雨野さんの口からこぼれて、それと一緒に俺の目からはまた涙がこぼれた。

しばらく無言のままで時間が過ぎていく中、机の端にある1枚の写真に目が止まった。写真はかなり色褪せていて、そこには仏頂面の雨野さん、その隣には綺麗な女の人、そしてまだ5歳くらいだろうか、小さい男の子が写っていた。俺が写真を見ているの事に気付いたのだろう。雨野さんがゆっくりと語り始める。

「俺の妻と息子だ。・・・もう死んじまったけどな。」

そう言って、彼は悲しそうに目を伏せた。


若い頃の雨野さんは一般企業でサラリーマンとして働いていた。仕事熱心で頭の回転も早かった雨野さんは順調に出世し、仕事がなによりも大切だっだそうだ。毎日朝は早く、帰ってくるのも妻と息子が眠った後。休みの日も出勤して仕事をこなし、家族で食事する機会もほとんどなくて。それでも奥さんは何一つ不満も言わず、わがままを言う息子さんをなだめていたそうだ。
そんなある日、仕事終わりの雨野さんに一本の電話が入って。知らない番号からの電話、不思議に思って出れば。

「・・・雷にでも打たれたのかと思ったよ。」

そのくらいの衝撃だった、そう言って雨野さんは無理やり笑う。買い物帰りの奥さんが運転する車が、トラックと正面衝突した。原因は向こうの信号無視。奥さんも息子さんも、即死だったそうだ。

「死ぬほど後悔した。・・・いや、死んでしまおうと思った。」

彼は失ってから始めて気がついたのだという。一番大切なものは何なのか。どれだけ妻と息子に寂しい思いをさせていたのか。側に人がいてくれるのは当たり前ではなかったのだ。伝えたくても、もう感謝の言葉も謝罪も何一つ聞いてもらえないのだ。俺は旦那としても父としても最低だった、そう言って雨野さんは自分のことを嗤う。その後家族で暮らしていた家を売り、会社も辞め、なにかをやる事もなくただ日々を過ごしていた雨野さん。

そんな彼は、ある日。俺と同じように急に外に出る気になったのだと言う。久しぶりの外出に眩暈を覚え、なんとなく立ち寄った古ぼけた喫茶店の中には、1人の老人がいた。

「俺もお前と同じ経験をしたんだよ。」

雨野さんは俺の方を見て優しく笑う。

「俺も、奇跡を見たんだ。」

大切な人に、もう一度会うことを望んだ。

「この店はその時の老人から譲り受けたんだ。俺は彼の事は何も知らない。名前すら分からない。」

ああ、譲り受けたはちょっと語弊があるかも知んねえな。そう言って雨野さんは少し皮肉っぽく笑う。その言い方を不思議に思って彼を見ていれば、雨野さんはおもむろに立ち上がって入口へと向かった。そのままドアを開けようとするが、ドアノブは回らなかった。あれ、鍵なんかかけたっけ?とぼんやり眺めていれば、彼は今度は近くにあった食器を持ち上げて、それを窓ガラスへと投げつけた。驚いて大声を出してしまったと思ったのに、俺の口は大きく開いただけで声は出ていなかった。それ以上の衝撃が重なったからだ。

窓ガラスは割れなかった。割れないどころからゴムのように食器を跳ね返した。カラン、と食器が地面に転がる音だけが響く。だよなあ、と笑った雨野さんは唖然としている俺を引っ張って、ドアの前に立たせる。促されるままにドアに手を駆ければ、ドアノブは拍子抜けするほど簡単に回った。外にだって出られる。でも、その開いたドアに雨野さんが近づこうとすれば、勢いよくドアが音を立てて閉まるのだ。なんだ、なんだこれ。

もう何十回、下手したら何百回と試したのだろう。雨野さんは笑って首を振って、カウンターの奥へと戻っていった。俺にも椅子に座るように促す。

「・・・お前は俺よりずっと大人だよ。」

少しコーヒーを啜ってから、そう言って雨野さんは笑う。

「今まで散々蔑ろにしてきたくせに、我慢できなかった。事故にあう日、外に出るなとあいつらを家にいさせようとしたんだ。ルールを破っちまった。その瞬間、景色が歪んだ。」

気付いたらこの喫茶店に戻ってきていて、そこにはいたはずの老人もいなくなっていたそうだ。外に出ようとしたら出れなくて、何を試しても無駄で、ずっと、ずっとここに。

「こんな日々を繰り返してる。気づいたら違う場所にいて、誰かが訪ねてくる。」

思わず、息をのんだ。

「・・・雨野さん、俺。」
「馬鹿な事言おうとすんじゃねえぞ、馬鹿。」
「雨野さん。」
「『いつか。いつかお前と同じような子が現れるだろう。過去は変えられないと分かっていても、大切な人に会いたい、そう望む人間が。』」

急に声を作って、雨野さんは上を見上げた。

「『そいつの願いを叶えてやれるのは、きっとお前だけだよ。』」

老人が言ったという言葉を繰り返した彼は、仏頂面を崩して微笑む。

「その言葉、嫌いじゃなかったんだ。だからまあ、悪くはねえよ。・・・ただちょっと、お前にはまだ若すぎるな、ここに閉じこもるには。」

要、と雨野さんは俺の名前を呼ぶ。

「・・・頑張ったな。」

その言葉に再び泣きそうになるのを堪えて、彼の名前を呼んだ。

「今のは・・・夢だったんですかね。」

俺の言葉に、そうかもしれないな、と雨野さんは頷く。頷きながら、でも、と言う。

「俺は見てたよ、お前たちの事。」

胸が熱くなって、涙が溢れないように上を向いた。
その時、チャリ、とポケットから聞きなれない音がしてそこを探れば。

「っ・・・!」

駄目だった、また涙が溢れた。喋る事も何もできなくなって、嗚咽が漏れる。
そこにあったのは奈月にあげたはずのとんぼ玉のキーホルダーだった。ここにあるはずのない、海を閉じ込めた青。指で何度もその形をなぞる。夢でもいいと思った。この喫茶店に来たのも、雨野さんに会ったのも、奈月にもう一度会えたのも。全て夢だったのだと。目を覚ませば俺はまだ部屋の中で寝ているんじゃないか。…それでも、いい。夢でも奈月に会えたならそれだけで十分なんだと。でもあるはずのないものが、ここにあるのだ。2人で見たあの藍色(あおいろ)の海は、嘘では無かった。

嗚咽を漏らす俺の肩を雨野さんがさすってくれる。

・・・奈月。ごめんな。怖かっただろ、寒かっただろう。傍に入れなくてごめん。涙を拭えなくてごめん。ごめん、ごめん、でも。
もう一度俺に会ってくれて、ありがとう。