そばにあを

目を開くと、俺が立っていたのは先程までいた喫茶店が裏に見える古い建物の前だった。さっきまでと同じような天気で、同じ場所で、でも、何か感じるものが違う。まじまじとその古びた建物を見れば、立てかけてある看板には、『葛木荘』と掠れた文字で書いてある。

「・・・ここにはお前と俺を含めて5人が住んでいる。」

不意に聞こえてきた声に驚いて隣を見れば、そこには先程と同じ格好をした雨野さんが立っていた。

「ここは家だよ、お前達の。」

そう言って彼は穏やかに微笑む。
・・・不思議なことばかりだ。なぜは俺はここにいるんだろう、さっきの喫茶店は何なんだろう、彼は何者なんだろう。少し考えてみるけど、そんな事わかるはずもなくて。でも、もうそんな事どうだっていい。不思議と焦りや戸惑いはなかった。ああ、奇跡が起こってるんだ、ただただそう思った。涙が溢れそうになるのを必死で堪える。

奈月がいなくなるちょうど1年前。1年前の春。その人をスタートに俺たちのカレンダーは進んでいった。葛木荘には、奈月以外に2人の人物がいた。会ったことも話したこともないのに、誰なのか一目みてすぐに誰か分かった。彼らを見たのは、暗いテレビの画面の中だ。

奈月が居なくなった日、同じ日に命を絶った人が2人いた。一緒に報道されていた。


「あら、新しい入居者?」

俺を見て、彼女は嬉しそうに笑う。少し話しただけでも彼女の人柄の良さはにじみ出ていて。それはテレビで流れていたあの写真と同じ笑顔だった。

__ 今井鈴香さん。

彼女は、正義感の強い女性だった。昔から誰かが誰かをいじめている事があればすぐに飛んでいって、ボコボコにされても決して屈しない。人一倍優しい女性だった。そう、画面の中でアナウンサーは語った。
そんな彼女は大学を卒業して無事会社に就職し、一見順風満帆な生活を送っているように見えた、が。女性が多数を占めるその会社の中では、新入社員への嫌がらせが常習化していたのだ。数十人いる新入社員の中で、ターゲットになったのは鈴香さんではなかった。幼い子供を1人で育てる、同期の1人だった。
子供が熱を出して、お迎えがあって、そう言って帰宅する彼女にこれみよがしに悪口を言う人ばかりだった。理不尽に怒られる彼女を見て、仕事を押し付けられる彼女を見て、困ったね、と苦笑いだけする人々。・・・けれど、鈴香さんだけは違った。見て見ぬふりをしなかった。
理不尽に怒鳴る上司を指摘し、仕事を押し付ける事に真っ向から意見を言い、彼女の業務を手伝った。しかしそれで収まることはなく、むしろ悪化していってしまう。徐々に鈴香さんにも仕事が押し付けられるようになった。勤務時間内に終わらないような量の仕事を押し付けられ、身に覚えのないことで怒られる。

『本当にっ・・・本当にいい子で・・・っ・・・。』

テレビの中で泣きながらそう語っていたのは、最初にターゲットにされていた鈴香さんの同期らしい。インタビューの中で、涙を流しながら鈴香さんの直前の様子を語る。悔しそうに、訴えかける。
鈴香さんは、それでもずっと笑っていたそうだ。理不尽な上司の攻撃に耐えながら、押し付けられた仕事も夜遅くまで残って全て片付け、毎日、笑っていたのだ。ごめん、私のせいで。同期がそう謝れば、何言ってんの、あなたは何も悪くないでしょ。そう言って明るく笑って。
亡くなるその日も普段と変わらない様子だった、と彼女は語った。いつも通り仕事をこなして、いつも通り笑って文句を飛ばして、この世を諦めたのだ。