そばにあを

目を開けば、目の前には海が広がっていた。さっきまで葛木荘にいたはずなのに、そんな事は少しも不思議に思わない。だって、私は今ここで息をしている。その時点でこの世界は不思議な事だらけなのだ。
砂浜を踏みしめて、辺りを見回す。・・・私が幼い頃から憧れていた海、皆で夏に遊びに来た、海。要とクリスマスに来た、そして私が最後の場所に選んだ、海。

まだ寒い時期のはずなのに、何故かこんなにも暖かい。空には雲ひとつなくて、大好きな青に挟まれている。
ポケットからスマホを取りだして、電話をかけた。3回コール音がなって、繋がる。

「要。」

私がその名前を呼べば、電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。顔は見えないはずなのに、不思議と彼の泣きそうな顔が見えた。

「・・・要。」

もう一度、彼の名前を呼ぶ。
幼馴染の要とは小さい頃からずっと一緒だった。私の家の事を一番知っていたのも要で、私に何かあればいつだって彼が駆けつけてくれた。

「・・・奈月、俺、」
「私、ここが大好きなの。もともと好きだけど、でも皆で海に来たのがすっごい楽しくて。」

わざと、要の言葉を遮った。

「千里はいつも突然だけど、千里と一緒にやった事は全部楽しかった。由香ちゃんも神谷くんも横山くんも、皆いい人で。素敵な友達に恵まれたなって。」

私の口から溢れる言葉に、要は静かに耳を傾ける。

「クリスマス、本当に楽しかった。海もすっごい綺麗だったし、プレゼントも、嬉しかった。」

ポケットの中でガラス玉が揺れて音を立てる。海を閉じ込めたガラス玉が、私をいつだって救ってくれた。

「全部全部、要のおかげだよ。」

泣きたくはなかった。けど、堪えきれずに涙声になる。

「ありがとう。」

私は今、うまく笑えているのだろうか。要には顔が見えてないと分かっているのに、どうしてもちゃんと笑いたいと思った。

電話の向こうで嗚咽が聞こえる。泣いてる彼を抱きしめてあげたいけと、それは出来ない。してはいけない。分かっている。これが私が選んだ運命だ。

「・・・奈月。」
「ん?」
「ごめんな。」

絞り出すような声で、要は何度もそう繰り返す。その声は震えていて、今にも消えてしまいそうなくらい儚かった。

__ ああ。
私はどれだけの責任を彼に背負わせていたんだろう。彼はどれだけ苦しんで、自分の事を責めたんだろう。優しい優しい彼を、どこまで追い詰めてしまったんだろう。首を振って、ポケットを強く握りしめた。

「・・・私、不幸せなんかじゃなかったよ。」

私の言葉に、要が息を呑むのが分かった。

その言葉は、紛れも無い私の本心だ。家では自由に過ごす事なんて出来なかった。いつも父親の顔色を伺って、ただただ生きる事に必死で。それでも頑張れたのは、皆がいたから。何があったって一緒にいてくれて、いつも笑わせてくれる友人がいた。どんな時だって、隣には要がいてくれた。それだけで、十分幸せじゃないか。これ以上何を望むというのだろう。

『後悔しちゃ駄目よ。』

『お前の人生はお前だけのものだ。』

『人生の価値を決めるのは周りじゃない。・・・奈月、お前自身だ。』

3人の声がふと頭によぎる。その言葉の意味が、今やっと分かった気がする。

「皆は可哀想だって、そう言うかもしれない。」

家庭内暴力。誰にも助けを求められずに自殺。なんて可哀想な高校生。
ニュースではそう報道されていた。きっと多くの人が、私の事を可哀想だと嘆いているのだろう。・・・でも。

「・・・私はそうは思わない。」

電話の向こうに、語りかける。顔は見えないけど、彼は泣いていた。ずっと一緒にいたけど、要が泣いている所は見たことがなかった。最後まで泣き顔は見れないままかあ、なんて。

「大切な人に出会えて、私は幸せだった。」

こらえきれずに涙が溢れてきて、視界がぼやける。

「・・・奈月、まって、俺やっぱ、」
「駄目だよ要。」
「でも!!」
「絶対に。来ないで。お願い。」

来ちゃダメだ、ダメなんだ絶対。なんでか分からないけどそう思った。私はもう彼に会ってはいけない。そんな気がしていた。

少しの沈黙の後、要は震える声で私の名前を呼んた。そして、一言、呟くようにこぼす。涙と、吐息と、後悔と、愛しさと。

「・・・ずっと好きだよ、これからも。」

__ ああ、私はやっぱり幸せ者だ。

その一言だけで、私の全てが報われた気がした。返事をする代わりに精一杯笑ってみせた。顔の見えない電話口で、要と過した日々を思い出して、幸せだなあと笑ってしまった。

ねえ、要。
最後に情けないわがままを言ってもいいかな。

「私の嫌いだったものを一緒に嫌いになる必要なんてない。でも、私の好きだったものを要もずっと好きでいてほしい。」

なんて、ね。あまりに重すぎるか、とまた笑ってしまった。彼の返事は聞かなかった。聞かなくてもよかった。
少し眉を下げて、しょうがないなあと言う顔で、笑って頷くに決まっているもの。

ここにいない彼の涙を拭いたくて、手を伸ばしてみる。当然手は届かなくて、同時に世界が少しずつ揺らいでいく。消えるんだろうな、そう気づいたけれど大好きな人と一緒なら何も怖く無い。崩れて行く世界の中で、私達は最後までスマホを握りしめていた。

__ 春の海は今まで見たことがないくらい、
美しくて、そして、儚かった。