そばにあを

いないでほしい。
だってそうだ、この時間には誰もいるはずがないのだ。雨野さんは喫茶店で仕込みをしていて、要は学校に行っていて、拓海さんは学校で授業をしている。だから、この時間に葛木荘に人がいるはずない。・・・いるはずないのに。

「っ・・・なんで・・・。」

その人は、突然帰ってきた私に驚いて目を見開く。なんで、はこっちの台詞だ。どうしてここにいるの。なんで。

「たくみ・・・さん・・・。」

拓海さんは大きなキャリーバックを持っていて、玄関の扉に手をかけていた。出て行こうとしているのは明らかだった。心の中はぐちゃぐちゃで、訳が分からなくて、しばらく視線だけが交わる。突然現れた私に硬い表情をしていた拓海さんは、一旦顔を伏せて。

突然、何かを諦めたように、笑った。

「・・・奈月。」

あまりにも優しい声で私を呼ぶから、堪え切れなくて涙がこぼれだす。そんな私に近づいた拓海さんは、泣いている私を見て困ったように笑う。

「奈月。」

彼はもう一度、私の名前を呼んで。

「お前の人生はお前だけのものだ。」
「っ・・・。」
「誰かのせいにするなよ、絶対。」

そう言って私の頭をポン、と叩いた。しゃくりあげる私に、彼は優しく笑う。

「・・・じゃあな。」

そう言って拓海さんは歩き出す。

待って。訳が分からない。どうして急に。そんなこと言われたって。ねえ。行かないで。言いたいことはたくさんあった。けれど声を出すことができなくて、追いかけようと思っても、地面に縫い付けられたように足は全く動かない。拓海さんは一度も振り返らなかった。



気づけば私は家の中で座り込んでいて、目の前には心配そうな要の顔があった。

「大丈夫?早退?」

何も答えない私の額に手を当てて、熱はないな、と独り言のように呟く。

「こんな所に座ってないで部屋で寝てろよ。」

そう言って要は私を立ち上がらせようとするけど、体に力が入らない。そこで異変に気付いたのか、要はどうした、と私に問う。

「・・・拓海さんが・・・出て行っちゃった。」

絞り出したその声に、要が息を飲むのが分かった。さっきの光景が思い出されて再び溢れてきてしまった涙で視界が歪んで、それ以上何も言葉にすることができない。俯いたまま嗚咽をもらす私を、要は静かに抱きしめた。そして、ゆっくりと口を開く。

「・・・俺は、ずっとここにいるよ。」

要の声は震えていた。その言葉にどうしようもなく安心して、さらに涙が溢れ出す。

「俺は、ずっと奈月と一緒にいるから。」

自分でも確かめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ要。そして、抱きしめる手に力を込めた。
・・・どうしてだろう。すぐ近くに感じる要の体温はとても暖かいのに。なぜかすごく、悲しくなった。


その夜から、私は熱を出した。
学校以外の時間は要が看病をしてくれ、お昼は雨野さんが世話を焼いてくれる。そのおかげであまり心細くはなかったが高熱は3日間も続いて、かなり苦しい思いをした。数日後には熱は下がったものの、少し長く学校を休んでしまった。そんな私の元に千里達もお見舞いに来てくれて、笑っていれば声がガラガラになってしまった。

__ 熱を出して寝ている間、私はずっと同じ夢を見ていた。
私が、初めてここに来た時の夢。不安な気持ちで葛木荘の入り口を覗く私に、どこかから声がかかる。その声に反応して振り向けば、そこに立っていたのは私と同い年くらの男の子だ。綺麗な顔に少し見惚れてしまったことを覚えている。
要はその日、とても驚いた顔をしていた。まるで幽霊にでも見たかのような、そんな表情。なんて言えばいいか分からず、しばらく見つめあった私たち。不意に彼は笑った。そして私に言ったのだ。

『____。』

・・・あれ。その言葉だけが、どうしても思い出せない。毎日同じ夢を見たのに、要が言った言葉だけはもやがかかったまんまだ。私を見て、驚いて、でもその後笑った彼は。私に何と言ったのだろう。

__ 春は、もうそこまで来ていた。