少女が、目を覚ましたらしい。
おしゃべり好きな看護師さんがそう教えてくれた。その顔にはもちろん好奇があったけど、でも、その笑顔は心の底から嬉しそうでもあった。
今日は休日だけど、制服を着た。きちんとボタンを留めて、リボンを整えて、鏡の前に立つ。そして胸ポケットから鍵を出して引き出しをもう一度開いた。
ミユへ、の文字と、最後に書かれている日付は4月11日。しがつ、じゅういちにち。小さな声で呟いてみる。この日が、彼女が交通事故にあった日。そして私が飛び降りた日。この日、清ちゃんはミユちゃんにこの手紙を渡そうとしていた。
ある日のお昼。美憂ちゃんが急に笑い出したことがある。
『なんか清に美憂ちゃんって呼ばれるのやっぱり変。』
『・・・わたし、なんて呼んでた?」
『小さい時からずっとミユって呼んでたよ。一緒にいすぎてミユキヨって近所のおばさんたちにいっつも呼ばれてたんだから。』
清ちゃんは、美憂ちゃんに話したい事があったんだ。それで、もう十分だった。
ノックをすれば、はい、と小さな声が返ってくる。お母さんそっくりの掠れた低い声は、ずっと寝ていたからかいつも以上に掠れていた。
無言のまま病室に入って、ベッドの横に立つ。窓の外を眺めていたままだった彼女はゆっくりとこちらを振り向いて、そして、ああ、と声を出す。
「もしかして、宮ちゃん。」
彼女は驚かなかった。それどころか私の名前をよんで、優しく微笑む。そこには棘が無くて、同じ顔なのにこんな風に笑うことが出来るんだと、自分の顔を見て驚いた。
月の光が窓の外から私達を照らす。その光を眩しそうに見つめながら、彼女は私が話し出すのを待っていた。
口が渇く。
喉の奥から、声を絞り出した。
「・・・ねえ、わたし、体返したくない。」
キョトン、とした顔で私の方を見る。久しぶりに見た自分の顔はこけていて、唇に血色もない。それ以上何も言わずそのまま黙って俯いていれば、彼女は小さく笑った。
「うーん。そうね。悪くないかも、あなた可愛いし。髪だって手入れすれば綺麗になるし。」
あっけらかんとそう言って、ボサボサの髪を手櫛で整えながら、彼女はああと声を出す。
「気づいたと思うけど私のママ過保護すぎるのよね。部屋もママに全部管理されてるようなものだし。私ね、ジャンクフードって食べたことがないの。あとカラオケとかも行ったことないし。夜更かしも出来ないしゲームも駄目。ああ、バイクにも乗ってみたいなあ。あなたになれば、それが全部できるかな。」
私が当たり前に出来ることを彼女は心底羨ましそうに話す。私があなたの当たり前が羨ましいように、彼女も私の当たり前が羨ましいのだ。変なの。本当に変。冷たいビルの屋上を思い出して目の奥が厚くなる。
指を折って楽しそうにやりたい事を一通り数えて、でも、と彼女は私を真っすぐに見つめた。その目は、どこかで見たことがある気がした。
「でもごめん、やっぱ返して。だって私、あなたじゃないんだもん。」
当たり前の事だ。そんな当たり前の事を何もためらわずに言える清ちゃんが眩しかった。
「・・・みんなに、理解してもらえなくても?」
「クローゼットの奥、見た?」
「ごめん。」
「責めてるわけじゃないの。もしかして、引き出しも?」
無言で頷けば、そっか、と彼女は息を吐きだす。
「でもそれでも、あの人は私の母だから。絶対に理解してもらえないし、認めてもらえないし、本当の事を言える日が来るかも分からない。もしかしたら一生隠して生きるのかも。」
「でもしょうがないじゃん。どうしたって私は私でしかないんだもの。」
真っすぐに私を見て、彼女は笑う。綺麗だった。涙が出そうになるくらい。知らない人の手で、ううん、それだけじゃなくて、ずっとずっと汚らわしいと憎んで生きてきた自分が、初めて綺麗に思えた。
心臓が掴まれたように痛くて、思わず声を荒げてしまう。
「っ・・美憂ちゃんにだって、気持ち悪いって言われるかもしれないよ?」
「あなた、痛い所突くわね。」
「大好きな人に認められないって苦しいよ!辛いよ絶対!!・・・っ・・それでもいいの?」
彼女の事を思い出しているのだろうか。その微笑みは苦しくて、痛くて、胸が抉られそうだった。でもそれでも清ちゃんは投げ出さない。自分を捨てないで、自分の足で立っている。何も言わないまま、私の手を掴んだ。そのまま引っ張って、優しく抱きしめる。涙がこぼれて彼女の肩を濡らす。いつかびしょびしょになったハンカチのように、彼女の肩が重くなっていく。
「いいの、それでも。それでも私は、自分を抱きしめて歩いてくわ。だって私に最後まで付き合ってくれるのは、私だけだもの。」
嗚咽が漏れた。苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて。でも、温かかった。この地獄と一緒に彼女は生きていくんだ。全部まとめて愛していくんだ。それが、自分だから。
月の明かりが徐々に眩しくなっていく気がする。彼女に抱きしめられたまま、小さく息を吐いた。
「・・・ごめん、私、酷い事言った。」
「いいよそんなの。あなたが言った事、間違ってないと思うよ。」
「ううん。ただの八つ当たりだ。体も勝手に使っちゃったし。秘密だって勝手に知っちゃった。・・・あと多分、成績も下げた。」
ふふ、と彼女がおかしそうに笑う。
私を抱きしめたまま、彼女は楽しそうにつぶやいた。
「ねえ、じゃあさ。」
「今度、メイクさせてよ。こんなかわいい顔してるんだから、もったいないじゃない。」
大きな涙が一つ、またこぼれて、急に眠気が襲ってきた。
手を繋いだまま、私達は、深い深い眠りに落ちた。
名前を呼ばれて、目を覚ました。
目の前には読みかけの本が置いてあって、読んでる間に寝てしまったようだ。寝るつもりなかったのになあ、と目をこする。日曜日の午後。また明日から仕事だと思うと憂鬱だが、仕方ない。働かなければ生きてけないし、仕事だって悪い事ばっかりじゃない。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。起こしてもらって丁度良かった。買い物行く?」
「そうだね。夜ご飯何食べよっか。」
短くなった黒髪をかき上げて、彼は座っている私に手を差し伸べる。その手を掴んで、私も椅子を立った。私の顔を見て、彼はぷっ、と吹き出す。
「ねえ、アイライン飛び出てるよ。」
「・・・失敗しちゃったの。」
「あんなに何回も教えたのに?」
「だって難しいんだもん。私不器用だし。」
いじけてしまったわたしをみてごめんごめん、と長くなった茶色い髪を撫でる。私だけ少しだけ高い位置にある彼の肩に頭を乗せれば、彼は優しく笑って。
「ねえ、駅前のケーキ屋さんにも寄ろうよ。気になってるって言ってじゃん」
「本当に!?行きたい!」
「よし、決まり。夜ご飯はどうしようねえ。」
「うーん・・・そうだなあ、清矢くん、食べたいものはある?」
少し考えてから、彼はあ、と声を出す。
「「ビーフシチュー!」」
「って、言うと思った。」
今度は彼がいじける番だった。頬を膨らませる彼の手を引っ張って街へと向かう。外は肌寒くて、彼の手を強く握った。見上げた時に見える涙ぼくろは、ただの黒い点のはずなのにいつだってなにより愛しく見えるのだ。