久しぶりに夜の街を歩いた。無駄にあちこちが光っていて、目がクラクラする。黒いスーツを着た若いお兄さんが道を行く人に声をかけている。酔っ払いが大きな声で笑いながら歩いている。カツカツとヒールを鳴らす露出の多いお姉さんが長い爪でスマホをいじっている。見慣れたはずの風景が、彼女の目を通すと少し違ったもののように見えた。

夜の街を歩く。何も持たずプラプラと歩く。周りの好奇の目が集まっているのが分かって自分が制服のままな事に気づいたけど、もう何でもよかった。

お姉さーん、そんな恰好で何してんの。
ねえ、ここで休んでく?

様々な声が聞こえてくるけど、返す気になれなくて無視して歩いた。けど、誰かに腕を引っ張られて、足が止まる。

「何してるの。」

そこにいたのは怖いお兄さんでも酔っ払いでもなかった。病院であった時と同じように、清矢くんは真っすぐに私の瞳を射抜く。何も答えない私に、目立つよ、と彼が上着をかけてくれる。なんでこんな所にいるんだろう。私の疑問を感じ取ったのか、彼は近くのビルを指さした。

「ここでバイトしてるから。」

そこには小さな居酒屋さんがあった。一瞥して、私の視線はまた地べたへと戻る。彼は何も言わず私の傍に立っている。ねえ、と自分の掠れた声が響く。

「ねえ、この辺で一番高いビルを教えて。」

私の唐突な質問に、清矢くんは何も言わないままだった。何も言わない代わりに、彼がバイトしているという居酒屋さんが入っているビルを指さして、歩き出す。から、私もその後に続いた。無言のまま、真っ暗なボロボロの階段を上っていく。どのくらい上っただろう。徐々に月の明かりが私たちの足元を照らしていて、冷たい風を直に感じた。

屋上に立って、月を見上げる。一歩ずつ、一歩ずつ。吸い込まれるように私の足は屋上の奥へと向かう。ツタが生い茂って、柵はもうその機能を果たしていなかった。ゆっくりと進む私を彼はじっと見つめていた。

屋上のヘリに、立つ。風が痛いほど冷たい。
そのまましばらく月を見上げていれば、ポロリと言葉がこぼれてきた。

「頭おかしいって思ってくれていいんだけど。」
「うん。」
「私ほんとは、この子じゃないの。」
「うん。」
「本当は私は飛び降りて病院に運ばれた。はずなのに目覚めたら私は交通事故で入院してて、知らない女の人が泣いてた。私は、真っ青な顔で眠ってる私を見下ろせたの。本当のこの子は、清ちゃんは、今もまだ眠ってる。私の体で。」
「うん。」
「最初はこの体を返したくないって思った。家族に愛されてて、お金があって、当たり前のようにご飯が出てきて。でも、でも、きっと違うの。」

ゴミ箱の中や引き出しの中にも渡る監視、完璧に管理されている食事、友好関係まで干渉されていて、きっと彼女は自分の本当の気持ちを口に出すことなく生きてきたんじゃないだろうか。たくさんの事を隠して、たくさん無理をして理想の娘を演じてきたんじゃないだろうか。クローゼットの奥深くに、鍵付きの引き出しに、自分の気持ちを隠して。



「・・・この子にはこの子なりの地獄がある。」

私には見えない地獄が、この子にはある。外からは見えない地獄が誰にだってあるんだ。そんなの、耐える意味があるんだろうか。こんな世界でどうしてみんな生きているんだろう。すごく、怖くなってしまった。

「私が、私が今ここから飛び降りたら、どうなるのかな。この地獄、終わらせちゃってもいいんじゃないかな。」

キラキラと輝く街が下に広がっている。思っていたよりも高くて足が竦むけど、この一歩くらいなら私にだって踏み出せるはずだ。こんな私にだって、死ぬ勇気くらいあるはずだ。泣いているのは、この世界から離れられるのが嬉しいからに決まってる。決まってるでしょ。

しばらくの沈黙の後、俯いていた清矢くんがゆっくりと顔を上げた。
そして、痛いくらいまっすぐに私を見つめる。

ねえ。

「どうして勝手に人を不幸だと決めつけるの?そんなのきみに決められる筋合いはないよ。」

風が吹く。冷たい風が私の頬をかすめて、通り過ぎていく。

「確かに、この子にも地獄があるのかもしれない。きみにも地獄があるように。でも、それと不幸は直結しないよ。不幸と死にたい気持ちも、きっと直結しない。」

『可哀想かどうかなんて、きみに決められることじゃないんじゃない?』

病院であった時にいわれた言葉を思い出す。あの時も彼は真っすぐに私の瞳を射抜いて、そう言った。一点の曇りもない瞳で、そう言った。
もう一度、清矢くんが私を呼ぶ。

「きみにとっての不幸は何?お金が無いこと?親に愛されないこと?それは他の誰から見ても不幸なのかな、君と同じ状況になったらみんな死にたいと思うのかな。きっと違う。なんだって人それぞれなんだよ。誰かにとっての幸せも誰かにとっては幸せやないし、きみにとっての地獄が誰かを救っていることだってあるんだよ。」

「人間なんてみんな自分単位だ。無償の愛なんてみんなが持てるわけじゃない、人のために死ぬことなんてできなくて当たり前なんだよ、自分の幸せを一番に願うのは悪い事じゃないんだよ。結局、どうにか出来るのは自分の事だけなんだから。」

風が冷たかった。さっきよりも冷たかった。きっとそれは私が泣いているからだ。涙が風で冷やされているからだ。どうすることも出来ず、でも涙はとめどなく溢れてくる。そんな私に、清矢くんが手を差し伸べる。

「・・・宮。佐倉宮。あんたは、それ以外の何者でもない。佐倉宮としてしか生きられないんだ。どうしようもならない事を抱えて、でもそれでも生きてみないか。大切なひとやものを大切に出来るだけで、十分だ。生きるんだよ、自分の幸せを。」

私は、自分の涙すら拭うことが出来ない。でも、それでも。私だって。精一杯手を伸ばして、彼の手を握り返した。温かくて、優しくて、痛いほど冷たかったはずの風が急に冷たく感じなくなった。

ねえ、清矢くん。私は、私はね。

言おうとして目を開けると、
そこには誰もいなかった。


「・・・え・・・。」

誰もいなかったのだ。握っていたはずの手はない。あるのは自分の手だけ。不思議な感覚に襲われて、あれ、と思った。彼はさっき私の名前を呼んだ。

なんで、私の名前、知ってるんだろう。

キーン、と頭の奥で音が鳴った。そうだ、そう言えば。初めて病院で会った日、これからお見舞いに行くという清矢くんの両手は空っぽで、カバンすら持っていなかった。さっきかけてくれたはずの上着はどこにもない。気が付けば私は走り出していた。慌てて階段を下って、さっきバイトしてると言ったお店をみて、立ちすくんでしまった。そこはもう電気がついていなくて、それどころかあちこちボロボロだった。お店の前には「閉店しました。長い間ご愛顧有難うございました。」の張り紙があってその張り紙は数年前の物だった。

そして私は、もう一つ思いだした。彼の顔には涙ぼくろがあったんだ。右目の下に。
思わず、右手が顔に伸びた。