その日は、いつもと光景が違った。ガラス張りの病室の前に立っているのは大体私か清矢くんだけで、彼も母のお見舞いのたびにここを通るのだと言った。彼とはあの後何回か有って、会話を交わした。不思議な関係だった。今日は、そこに初めて私たち以外の人がいた。その人はじっと寝たままの少女を眺めて、そして涙を流している。見つけた瞬間に心臓がきゅっとなって、痛くて痛くてたまらなかった。

「あの、これ。」
「・・・すみません、ありがとうございます。」

耐え切れず、ハンカチを渡す。頭を下げたその人は病室の中の少女によく似ていた。数年ぶりに見た彼女は、相変わらず綺麗だった。

「・・・妹なんです。」

少しの沈黙の後、彼女は小さく話し出す。その声は震えていて、涙がまた頬を伝っていた。

「私は2年前に結婚して家を離れました。今は大阪に住んでて子供もいます。
・・・私は、逃げたんです。」

年の離れた妹を、あの家に置き去りにした。もう高校生だし大丈夫だろうって。無理してること、分かってたのに。
彼女の泣き声は次第に大きくなっていく。溢れる涙を必死に受け止めながら、彼女は嗚咽を漏らす。

わたし、と、彼女が泣く。

「わたし本当は知ってたんです。」

心臓が強く跳ねた。やめて、その先を言わないで。そんな私の心の叫びが聞こえるはずもなく、彼女は口を開く。

「宮が、そういうコトしてお金を稼いでるって。」

誰かに頭を殴られたのかと思った。そのくらい意識が揺れた。

彼女はついに膝をついて泣き出してしまった。本当は支えてあげた方がいんだろうけど、それは分かってるんだけど、体が動かない。私は今、空っぽだった。
お姉ちゃんは結婚して家を出て行った。それが幸せな結婚だったのかどうかは分からない。旦那さんは大分年上だったし、お姉ちゃんがお金を求めていたのも事実だった。私と姉は仲は良かった、離れてからも電話をくれた、でも私は大事なことは何も話せなかった。本当に言いたい事は何も言えなかった。2人子供が生まれて、お姉ちゃんも大変そうだった。そんな彼女に、何か頼みごとをする事なんてできなかった。

家にはお金がない、お金がない、お金がなかった。でも生きていかなければならない、学校に行きたい、友達と遊んでお洒落をしたい、普通になりたい、普通の高校生になりたかった。

わたしが出来ることは、一つしか思いつかなかった。

そのうち寝られなくなった。自分が汚くて何回も手を洗うようになった。手の皮が剥けて、でも石鹸を何回も擦り付けなきゃ何にも触れなかった。ご飯が食べれなくなった。お金は手に入ったのに、これで友達と駅前のドーナツ屋さんに行けるのに。気づけば私は、布団の上から起き上がれなくなった。

そっか。死のう。

次に起き上がれた時は、その感情と一緒だった。



玄関を開けて、ただいま、と小さな声で呟いた。そのままとぼとぼと階段を上がって、どうにもならない気持ちのまま部屋の布団に包まる。あの後取り乱したことを謝って、お姉ちゃんは病院を去っていった。私はしばらくその場に立ちすくんで、彼女の涙でびしょびしょになったハンカチを握りしめて帰った。懺悔をどう受け取ればいいのか分からない。自分が今どうしたいのかも分からない。分からない、何も分からないんだ。

コンコン、とドアがノックされる。

「清ちゃん、少し話いい?」
「・・・ごめん。少し体調悪くて。」
「大事な話なの。」

いつになく真剣な声でおばさんがそう言うから、仕方なくドアを開ける。制服姿のままの私を見ておばさんは顔をしかめて、それを取り繕うように不格好に笑った。

「清ちゃん、あのね、聞きたい事があるんだけど。」
「・・・」
「この前男の子と一緒にいたって美和子さんから聞いたの。」
「・・・え?」

男の子?誰だろう。記憶をたどって、そう言えば少し前に美憂ちゃんと他の子たちと帰っている時に、他の高校の男の子たちに話しかけられた事を思い出した。一緒に遊ばないかと誘われて、断ったけど少しだけ歩きながら話した気がする。その時に1人のクラスメイトが一目惚れしちゃった、なんて言って次の日に学校で幸せそうにスマホを握り締めていたっけな。

考えている私を見て肯定だと受け取ったのか、おばさんは困ったように眉を下げる。

「ねえ清ちゃん。その、男の子と遊んだりする事には何も言わないわ。清ちゃんだって高校生だし。」
「え、いや、ただみんなで話しただけだし…」
「でもね、やっぱりママどうしても心配になっちゃうの。ほら、最近ニュースでも聞くじゃない。高校生なのに妊娠しちゃった、とか。」
「だからそういうんじゃ・・・」
「清ちゃん。」

「不純なことはしてないわよね?」

下手くそに笑った口元は歪んでいて、おばさんの目は空洞だった。ああ、この目に清ちゃんはちゃんと映っているのだろうか。

ああ、なんかもう全部。気持ち悪い。

「え・・・ちょっと・・・どうしたの・・・?」

思わず笑いがこぼれてしまって、そんな私をおばさんが気味悪そうに見つめる。でも私の笑いは収まるどころか徐々に大きくなっていく。ごめん清ちゃん、これ清ちゃんの体なのに。でも駄目だった。もう全部だめだ。気持ち悪い、全部要らない、全部捨てたい。もう、何だっていいや。

「清ちゃん!?」

おばさんを押しのけて部屋を出た。階段を駆け下って、そのまま玄関を飛び出した。