ああ、わたし、死ねなかったんだ。
目が覚めた瞬間、最初に浮かんだのはそんな言葉だった。
ぼんやりとした頭のまま横を見れば、そこに座っていた知らない女の人がわんわん泣いていた。良かった良かったと何度も繰り返して、私を力強く抱きしめる。嗅いだことのない香水の匂いがして、きつめの香水だなあ、なんてぼーっと考えていた。
次に現れた白衣を着たメガネのおじさんは、私の表情を確認しながらゆっくりと話しかける。反応が薄いままの私に気づけば泣いていた女の人の表情も変わっていて、私の手を強く握りしめる。
「自分の名前、分かりますか。」
「・・・みや、です。」
「そう、二宮さんですね。」
絞り出した声はカサカサで、きちんと発生が出来なかった。二宮?と頭にハテナマークが浮かぶ。違う。私は今、みやと言ったんだ。宮と書いてみや、名前の由来は特にない。私は自分の名前だけは結構に気に入っている。響きがいいからっていうだけの理由だけど。
「年齢は?」
「・・・じゅうなな、さい。」
「うん、そうですね。」
女の人が不安そうな顔のまま、しきりに頷いている。・・・この人は、誰なのだろう。疑問が増えていく中で、医者らしき人は更に私を混乱させる事を言う。
「あなたは交通事故でここに運ばれました。横断歩道を渡っている時に信号無視した車と接触して、しばらく意識が無かったんです。」
「・・・え?」
打撲が数か所で来ているが、幸い後遺症が残るような怪我は無かったこと、運転していたのは年配の男性で、既に警察の方で話が進んでいること、淡々と説明されたけど、私の意識は最初の言葉でまだ突っかかったままだった。
ひき逃げなんて、そう言って知らない女の人がまた涙をこぼして、近くにいた看護師さんが彼女の肩を優しくさする。何を言ってるんだろう、だって私は。
口を開こうとしたけど、喉がカラカラで上手く声が出せない。その様子に気づいたのか看護師さんが紙コップに水を入れてくれて、受け取って一口口に含む。そこで、気が付いた。ショートカットのはずの髪の毛が、伸びている。視界に入った手入れの行き届いた綺麗なロングヘアは明らかに私の物じゃなかった。慌てて鏡を探して、そんな急に動揺しだした私に女の人もお医者さんも慌てて声をかける。
「二宮さん、落ち着いてください。」
「清ちゃん!どうしちゃったの!!」
掴まれた腕を振りほどいて、近くの鏡を覗き込んだ。体中が痛かったけど、それどころじゃなかった。何も、言葉が出てこなかった。
「・・・誰。」
きよ!きよ!と知らない人の名前が連呼されて、それが私の事を指しているのだと気づいたけど理解は出来なかった。
「清ちゃん。ここがあなたの部屋よ。」
ドアを開ければ、そこはマンガに出てくるような女の子の部屋だった。花柄のカーテン、ピンク色のベッド、きれいに並べられた教科書類、窓際には花瓶が置いてあって、綺麗な花が刺さっている。なにより、広い。
「・・・やっぱり、思い出せない?」
「・・・ごめんなさい。」
「なんで謝るのよ。さあ、もう今日はゆっくりしてね。何かあったらすぐ呼ぶのよ。」
「・・・うん、ありがとう。」
不安げな表情を隠して優しく笑ったおばさんは、そういってゆっくり部屋のドアを閉めた。
ひとりになった瞬間ドット疲れが襲ってきて、見ず知らずの人のベッドにそのままダイブしてしまった。フカフカで、柔軟剤の甘い香りがして、すぐに寝れてしまいそうだった。眠ってしまわないように気を付けながら、目を瞑って今日の出来事を整理する。
『事故のショックによる一時的な記憶障害だと思います。』
お医者さんはそう言って、しばらく様子を見てみましょう、と混乱するおばさんをなだめた。普通の生活を送っているうちに徐々に回復するでしょう、そう言って私が何も言えないうちに家へと戻ってきてしまったのだ。初めて来たその家は、すごく立派な家だった。きちんとした標識があって、玄関が広くて、駐車場には真っ黒でピカピカしている車が止まっていた。家の中もどこも綺麗で、スリッパをはいて移動するなんて外国みたいだと思った。
ベッドに寝ころんだまま、長い黒髪に手櫛を通す。綺麗な髪の毛。わたしは小さい頃からずっとショートカットで、美容室に行くお金もないからいつも母が切ってくれていた。ギザギザで、枝毛ばっかりで、元々少し茶色っぽくて、まるで正反対。ゆっくりと立ち上がって、クローゼットの扉を開ける。綺麗に整頓されたヒラヒラの服たち。扉についている鏡を、まじまじと見つめた。
一重瞼で目は離れ気味、少しきつめの顔をしているなあと思った。右目の下にはほくろがあって、うん、歯並びがとても綺麗だ。好みが分かれる顔だなあなんて人様の顔に失礼な感想を述べる。身長は私よりも少し高い気がする。
今度は勉強机に座って、近くにあったノートを開いてみた。とても綺麗な字が並んでいて、そして書いてある数式は私には理解が出来なかった。ひかれている線はきっとすべて定規が使われていて、几帳面な子なんだろうなと思った。ノートを閉じて、またもや綺麗な字で書かれた「二宮 清」という名前を見つめる。清。私は今、二宮 清、みたいだ。どうしてこうなってしまったのかは分からない。でも、こうして私の容姿は変わっている。知らないおばさんが母だと名乗って泣いてくれている。本当の清ちゃんは。今どこにいるんだろう。分からない、分からない。頭がパンクしそうになってまたベッドに飛び込んで、目を閉じた。
次に目を開けたのはノックの音と同時だった。どうやら気づかぬうちに寝てしまったらしい。
「清ちゃん。ごめんね寝てた?ご飯食べれる?」
おばさんのその言葉で自分がとても空腹だった事に気が付いて、無言で頷いて階段を下りた。ご飯ののいい匂いが漂ってきて、お腹が大きく音を立てた。木で出来たお洒落な机にはお洒落な茶色のスーツを着たおじさんが腰かけていた。私を見るなり目に涙を浮かべて抱きしめる。
「清・・・!本当に良かった・・・!」
どうしていいのか分からず立ちすくんでいれば、おじさんは少し困ったように笑って、私の頭をポンポン、と撫でる。ママから話は聞いたよ、大丈夫だからね。と優しく微笑んでくれる。
「さあパパ。着替えてきてご飯にしましょう。今日は清の好きなビーフシチューを作ったのよ。」
そのおばさんの言葉で、この人が清の父親である事が分かった。促されるまま席について、陶器の器に盛られたビーフシチューを食べる。とても美味しくて、温かくて、ずうずうしくおかわりまで楽しんでしまった。普段清ちゃんは小食なのか、おばさんは驚いた顔をしていたけどでも嬉しそうにお皿にビーフシチューを盛ってくれる。外からの騒音も、怒鳴り声も、何もかもが一切聞こえない。静かな食卓に響く落ち着いた話声。こんな場所が本当にあるんだとなんだか絵本の世界にいるみたいだった。
「清!!大丈夫なの!?」
教室に入るなり、友人であろう女の子たちが近寄ってきて、心配そうに私の顔を覗き込む。曖昧に笑って頷けば彼女たちはよかった~、と泣きそうに顔をゆがませる。困ったことがあったら何でも言ってね、そういってニッコリと一際人が良さそうな笑顔を見せた彼女が、きっと清ちゃんの親友である美憂ちゃんなんだろう。
清ちゃんが通うのは、ここら辺では有名な女子校だった。偏差値が高く校則も厳しめないわゆるお嬢様学校。その中でも清ちゃんの成績はトップクラスに良くて、友人からの人望にも厚いように見えた。記憶障害の事はおばさんから学校へも伝わっているようで、クラスメイトも心配そうに声をかけてくれ世話を焼いてくれる。そのため日常生活で困った事はあまりなくて、ただやはり勉強は全く分からない。このままじゃ清ちゃんの成績が地に落ちてしまう事が一番の心配事だ。
「清、今日はこの後病院?」
「うん。リハビリ行かなきゃいけなくて。」
「そっかそっか。大丈夫?私ついてこうか?」
「大丈夫だよ。ありがとう。」
困ったら電話するんだよ、美憂ちゃんが声をかけてくれる。彼女と清ちゃんは幼稚園の頃からの幼馴染のようで、家族ぐるみで交流があるようだ。彼女の事はおばさんから聞かされていて、「あなたの親友で、とってもいい子なのよ。」と。ポカーンとしたままの私を見て、彼女ののことも思い出せないのね、と悲しそうに作り笑いを浮かべていた。
実際美憂ちゃんは本当にいい子なんだろうなと感じていた。いつもにこやかで、周りを見ていて、かといってか弱い女子、という感じでもなく自分の意見を臆することなく言う。女子高の王子様タイプなのかな、なんて勝手に思った。
記憶障害のリハビリのため、病院には定期的に通う事になっていた。病室でしばらくお医者さんと話して、簡単なトレーニングをする。そこにあるものを暗記したり、穴埋めパズルを解いたり、そんなことで記憶が戻ってくるわけがないけどこの状況を説明して理解してもらえるとも思えなくて、今日もそのまま病室を出た。
スマホをいじろうとして、ポケットに何もない事に気が付いてああそっか、と思い直す。高校生なのに、清ちゃんはスマホを持っていない。それどころか電子機器を一つも持っていなくて、唯一いじれるパソコンはリビングに置いてある。けれど履歴も何もかもをおばさんがチェックしているみたいだ。不便じゃないのだろうか、そう思うけど答えてくれる人は今どこにもいない。スマホなんて危ないわ、そう繰り返すおばさんの声はなんだか神経質で怖かった。
「あら、二宮さん。体調はどう?」
「大分よくなりました。」
顔見知りの看護師さんが声をかけてくれる。年配のその看護師さんは噂話が大好きで掴まると中々話を終わらせることが出来ない。思わず舌打ちが出そうになったけどこれは清ちゃんの体だ。心の中で毒づいて、彼女の話に相槌を打つ。
看護婦長さんへの愚痴、入院している人のうわさ話、年配の看護師さんはペラペラと話し続けて、そのうち悲しそうに眉を下げる。
「そう言えばねえ、あなたが入院した日にもう一人入院した子がいたんだけど。」
思わず、肩がビクリと跳ねた。
「まだ意識戻らなくてね。綺麗な顔した女の子なんだけど。可哀そうよねえ。」
「・・・そうなんですね。」
「多分年齢も同い年だったはずよ。あんまり、言っちゃいけない事なんだけど。」
「・・・飛び降り自殺なんだって。」
コソコソ、と看護師さんが私に耳打ちする。あんまり言っちゃいけない事なんだけど、そう言う割に彼女はそのまま話し続ける。
「しかもねえ、お見舞いの方がまだ一人も来てないのよ。17歳ってことは高校生でしょ?普通は親が来ると思うんだけどねえ。もし両親が何らかの理由でいらっしゃらないとしても、ねえ、誰かはねえ。」
気の毒そうに彼女は眉を下げているけど、その表情には好奇が見え隠れしていた。曖昧なまま笑っておけば、あらやだ、私302号室の神田さんに呼ばれてたんだった、と彼女はせわしなくその場を立ち去って行く。
ただいま、とおばさんに声をかけてそのまま広い階段を上がっていく、部屋についてそのままベッドに倒れ込んだ。制服がしわになってしまうから早く脱がなければ、そう分かっているのに疲れて起き上がる気もしない。慣れない生活は疲れる。サボらずに寝ずにきちんと授業を受ける事だって、正直私にとってはしんどい。
しばし電気もつけずに暗闇の中に息をひそめて、そのうちもぞもぞと動き出した。電気をつけて制服を脱いでクローゼットの中のハンガーにつるす。白と黒のワンピース、白いヒラヒラのブラウス、薄ピンクのプリーツスカート。後ろにリボンのついた靴下。私だったら着ないような服ばかり。
ぼんやりとクローゼットの中を眺めていれば、右奥の方に正方形の収納ケースが置かれている事に気が付いた。何となく気になってケースを引っ張りだしてふたを開けると、その中には教科書がびっしり。中学校の時のであろうものも残っていて、とても綺麗に収納されていた。懐かしい。この国語の教科書は私も同じものを使っていた。ペラペラとめくって、別の教科書も取り出してみる。その奥には昔読んでいたのであろう絵本も見つかって、思わず読み行ってしまう。清ちゃんもこういうの呼んでたんだなあ、て、当たり前か。まるで昔からの友達のような気分になって居る自分がおかしくて思わず笑ってしまった。私は今彼女の体を奪っていて、彼女の意識は今暗闇を彷徨っているかもしれなくて、恨まれてもおかしくないのにな。なんで私はこんなにのんきなのか。
大分散らかしてしまった本たちをしまおうとケースの中を覗けば、その一番奥に、何か布のようなものがちらりと見えた。本だらけのケースの中には異様に見えて手を伸ばす。隙間を通り抜けて出てきたのはブイネックの黒いTシャツだった。そして茶色のベルトと、ワイドジーンズ。明らかに男物の服に、思わず思考が停止する。もしかして、彼氏の?とか。
同時に聞こえてきた階段を上る足音。清ちゃん、と名前を呼ぶ声がして慌ててケースの中に押し込んでふたを閉めた。
「清、お昼食べよう。」
昼休み、美憂ちゃんがひょこっと私の机の前に顔を出して笑う。
頷いて席を立って、テラスへと移動した。少し風は肌寒いけれど太陽の日差しが気持ちいい。
私が自然に笑ってしまうくらい、美憂ちゃんは話し上手な女の子だった。今日も思わずケラケラと大笑いしてしまって慌てて口を押える。きっと清ちゃんはこんな笑い方しない。美憂ちゃんは案の定クスリと笑って。
「なんか清、笑い方変わったね。」
「そう?」
「うん。いつもはコソコソ笑ってるじゃない。」
「コソコソ笑うってどんな感じなの。」
思わずつっこんでしまえば、美憂ちゃんは清ちゃんの真似をしているのか、口に手を当てて下を向いて笑った。こんな感じ、と美憂ちゃんは微笑んで。
「なんか清がそうやって笑ってると、小さい時の事思いだす。」
ほら、と美憂ちゃんは小さい頃の思い出を語りだした。2人でピアノのおけいこが嫌で逃げ出した話、ママたちがランチしている間に着せ替え人形で遊んだ話、どうしてもハムスターが飼いたくて2人で泣きながらお願いした話。美憂ちゃんは楽しそうに語る。
「あの時は2人して馬鹿みたいに笑ってたよねえ。」
2人は、本当に幼い頃から仲が良かったのだろう。今の話を聞いていても普段の美憂ちゃんの態度からも何度もそう感じた。友達というより姉妹に近い関係なんじゃないだろうか。
気づけば昼休みが終わろうとしていて、慌ててお弁当をしまう。そういえば、と美憂ちゃんが急に顔を上げる。
「清。」
「うん?」
「話したい事って何だったの?」
「・・・話したい、こと?」
「あ、それもやっぱ覚えてないか。」
首を傾げた私に美憂ちゃんがバツの悪そうな顔をする。どうやら清ちゃんは美憂ちゃんに何か話したい事があると伝えていたらしい。けれど話をする前に事故にあってしまって、彼女はそれが気になっていたらしい。なんか深刻そうな顔してたから、と美憂ちゃんはその時の清ちゃんの顔を思い出したのか少し顔を曇らせた。
「なんか悩み事とかあったのかなって。」
「悩み事・・・。」
「思いだしたらすぐいうんだよ。私は絶対清の味方だからね。」
そう言って美憂ちゃんは手を握ってくれる。その目は痛いくらい真っすぐで、思わず目を逸らしてしまった。
スリッパの音が響く廊下で、私はじっと立っていた。ガラス張りの病室には、酸素吸入器を付けられた少女がベットに横たわっている。その横顔は真っ白で、でも、人形のように綺麗だった。
規則的な機械音がガラス越しに漏れ出す。少し離れたところで看護師さん達がコソコソ話しているのが聞こえてくる。このまま植物状態になっちゃうのかしらねえ、可哀想にねえ、なんて。
気付けば、隣に人が立っていた。見たことのない制服に身を包んだその男の子は、私と目が合うとペコリと頭を下げて。
「お友達ですか?」
「・・・いえ。」
そうなんですね、と彼が呟く。彼も同じようにお友達ではない事も知り合いですらない事も私が一番よく知っている。清矢、と下の名前を名乗った彼は、たまたま通りすがって、と小さく息を吐いた。
しばらく沈黙流れる。
「可哀想ですよね。」
気付けば、そんな言葉が口からこぼれていた。可哀想、一番無難な言葉だと思った。誰が見たってそう思うと思った。けれど、想像していた同意の相槌は返ってこなかった。
「・・・そうかな。」
そう言って彼は首をかしげる。驚いて顔を上げれば、彼は真っすぐ私を見つめて。
「可哀想かどうかなんて、きみに決められることじゃないんじゃないかな。」
一瞬、息が出来なかった。
これから母のお見舞いに行くので。そう言って清矢くんは小さく頭を下げてその場をスタスタと去っていく。私はしばらくその場から動けなくて、おしゃべりな看護師さんに声をかけられるまでそのままだった。気づけば時は動き出していて、喧騒が戻ってきて、でも私の頭には彼の曇りのない瞳と右目の下のなきぼくろが鮮明に残っていた。
今日はベッドに倒れ込む前に制服を脱いだ。スウェットに着替えて、机に腰かける。呪文のような記号が書かれた参考書を広げて眺めてみる。清ちゃんの机はとても綺麗だ。なんとなく気が引けて開けなかった引き出しを今日は開けてみてしまった。ルーズリーフや細かな文房具がまとまっていて、空っぽの引き出しもあった。
一つだけ、鍵がついている小さな引き出しがある。その鍵は、いつも制服の胸ポケットに入っていた。初日に気づいて何の鍵だろうと疑問に思っていたのだ。
罪悪感と共に鍵穴に鍵を差し込んだ。カチャ、と小さな音と共に引き出しが開く。そこには大きな秘密なんて何もなくて、一通の手紙が入っているだけだった。クラフトの便箋の裏には、小さな文字でミユへ、と書いてある。友人だろうか。好奇心に勝てず、シールのついていない手紙を開いてしまった。
思わず、息をのんだ。
そこには、たった数行の文字しかなかった。たった数行だけど、どうにもできない感情がこみあげてくる、そんな文章だった。懺悔、感謝、愛情、後悔、相反するようなものがそこにはあった。
ミユ、が男の子の可能性もないとは言えない。でもきっと違うだろう、彼女は、ミユちゃんだ。女の子だ。清ちゃんも、女の子だ。でも清ちゃんは、ミユちゃんの事が好きなんだ。それは、友達としてではなくて。
顔を上げて部屋の中を眺めてみる。当たり前のように、清ちゃんの部屋は今日も掃除されていた。ゴミ箱は空っぽだし、ベッドは綺麗に治っているし、本棚だって整理されてる。この前美憂ちゃんからもらったクッキーを食べた時、次の日の夕飯の時間におばさんは少し困ったように笑って言った。「あんなに成分の悪いお菓子食べるのはやめようね。お菓子ならママが作ってあげるから。」それから無添加の良さについて怖いくらいに話された。清ちゃんは、普段から食べるものまで制限されているのだろうか。ゴミ箱の中まで監視されているのだろうか。
おばさんが誰かと電話しているのを確認して、もう一度クローゼットの奥の箱を開いた。積み重なる本の奥にある、男物の服と、もう一つ見つけた。何重にも袋に入れられた、新品の散髪バサミ。
ねえ、清ちゃん。
あなたは、幸せだった?
その日は、いつもと光景が違った。ガラス張りの病室の前に立っているのは大体私か清矢くんだけで、彼も母のお見舞いのたびにここを通るのだと言った。彼とはあの後何回か有って、会話を交わした。不思議な関係だった。今日は、そこに初めて私たち以外の人がいた。その人はじっと寝たままの少女を眺めて、そして涙を流している。見つけた瞬間に心臓がきゅっとなって、痛くて痛くてたまらなかった。
「あの、これ。」
「・・・すみません、ありがとうございます。」
耐え切れず、ハンカチを渡す。頭を下げたその人は病室の中の少女によく似ていた。数年ぶりに見た彼女は、相変わらず綺麗だった。
「・・・妹なんです。」
少しの沈黙の後、彼女は小さく話し出す。その声は震えていて、涙がまた頬を伝っていた。
「私は2年前に結婚して家を離れました。今は大阪に住んでて子供もいます。
・・・私は、逃げたんです。」
年の離れた妹を、あの家に置き去りにした。もう高校生だし大丈夫だろうって。無理してること、分かってたのに。
彼女の泣き声は次第に大きくなっていく。溢れる涙を必死に受け止めながら、彼女は嗚咽を漏らす。
わたし、と、彼女が泣く。
「わたし本当は知ってたんです。」
心臓が強く跳ねた。やめて、その先を言わないで。そんな私の心の叫びが聞こえるはずもなく、彼女は口を開く。
「宮が、そういうコトしてお金を稼いでるって。」
誰かに頭を殴られたのかと思った。そのくらい意識が揺れた。
彼女はついに膝をついて泣き出してしまった。本当は支えてあげた方がいんだろうけど、それは分かってるんだけど、体が動かない。私は今、空っぽだった。
お姉ちゃんは結婚して家を出て行った。それが幸せな結婚だったのかどうかは分からない。旦那さんは大分年上だったし、お姉ちゃんがお金を求めていたのも事実だった。私と姉は仲は良かった、離れてからも電話をくれた、でも私は大事なことは何も話せなかった。本当に言いたい事は何も言えなかった。2人子供が生まれて、お姉ちゃんも大変そうだった。そんな彼女に、何か頼みごとをする事なんてできなかった。
家にはお金がない、お金がない、お金がなかった。でも生きていかなければならない、学校に行きたい、友達と遊んでお洒落をしたい、普通になりたい、普通の高校生になりたかった。
わたしが出来ることは、一つしか思いつかなかった。
そのうち寝られなくなった。自分が汚くて何回も手を洗うようになった。手の皮が剥けて、でも石鹸を何回も擦り付けなきゃ何にも触れなかった。ご飯が食べれなくなった。お金は手に入ったのに、これで友達と駅前のドーナツ屋さんに行けるのに。気づけば私は、布団の上から起き上がれなくなった。
そっか。死のう。
次に起き上がれた時は、その感情と一緒だった。
玄関を開けて、ただいま、と小さな声で呟いた。そのままとぼとぼと階段を上がって、どうにもならない気持ちのまま部屋の布団に包まる。あの後取り乱したことを謝って、お姉ちゃんは病院を去っていった。私はしばらくその場に立ちすくんで、彼女の涙でびしょびしょになったハンカチを握りしめて帰った。懺悔をどう受け取ればいいのか分からない。自分が今どうしたいのかも分からない。分からない、何も分からないんだ。
コンコン、とドアがノックされる。
「清ちゃん、少し話いい?」
「・・・ごめん。少し体調悪くて。」
「大事な話なの。」
いつになく真剣な声でおばさんがそう言うから、仕方なくドアを開ける。制服姿のままの私を見ておばさんは顔をしかめて、それを取り繕うように不格好に笑った。
「清ちゃん、あのね、聞きたい事があるんだけど。」
「・・・」
「この前男の子と一緒にいたって美和子さんから聞いたの。」
「・・・え?」
男の子?誰だろう。記憶をたどって、そう言えば少し前に美憂ちゃんと他の子たちと帰っている時に、他の高校の男の子たちに話しかけられた事を思い出した。一緒に遊ばないかと誘われて、断ったけど少しだけ歩きながら話した気がする。その時に1人のクラスメイトが一目惚れしちゃった、なんて言って次の日に学校で幸せそうにスマホを握り締めていたっけな。
考えている私を見て肯定だと受け取ったのか、おばさんは困ったように眉を下げる。
「ねえ清ちゃん。その、男の子と遊んだりする事には何も言わないわ。清ちゃんだって高校生だし。」
「え、いや、ただみんなで話しただけだし…」
「でもね、やっぱりママどうしても心配になっちゃうの。ほら、最近ニュースでも聞くじゃない。高校生なのに妊娠しちゃった、とか。」
「だからそういうんじゃ・・・」
「清ちゃん。」
「不純なことはしてないわよね?」
下手くそに笑った口元は歪んでいて、おばさんの目は空洞だった。ああ、この目に清ちゃんはちゃんと映っているのだろうか。
ああ、なんかもう全部。気持ち悪い。
「え・・・ちょっと・・・どうしたの・・・?」
思わず笑いがこぼれてしまって、そんな私をおばさんが気味悪そうに見つめる。でも私の笑いは収まるどころか徐々に大きくなっていく。ごめん清ちゃん、これ清ちゃんの体なのに。でも駄目だった。もう全部だめだ。気持ち悪い、全部要らない、全部捨てたい。もう、何だっていいや。
「清ちゃん!?」
おばさんを押しのけて部屋を出た。階段を駆け下って、そのまま玄関を飛び出した。
久しぶりに夜の街を歩いた。無駄にあちこちが光っていて、目がクラクラする。黒いスーツを着た若いお兄さんが道を行く人に声をかけている。酔っ払いが大きな声で笑いながら歩いている。カツカツとヒールを鳴らす露出の多いお姉さんが長い爪でスマホをいじっている。見慣れたはずの風景が、彼女の目を通すと少し違ったもののように見えた。
夜の街を歩く。何も持たずプラプラと歩く。周りの好奇の目が集まっているのが分かって自分が制服のままな事に気づいたけど、もう何でもよかった。
お姉さーん、そんな恰好で何してんの。
ねえ、ここで休んでく?
様々な声が聞こえてくるけど、返す気になれなくて無視して歩いた。けど、誰かに腕を引っ張られて、足が止まる。
「何してるの。」
そこにいたのは怖いお兄さんでも酔っ払いでもなかった。病院であった時と同じように、清矢くんは真っすぐに私の瞳を射抜く。何も答えない私に、目立つよ、と彼が上着をかけてくれる。なんでこんな所にいるんだろう。私の疑問を感じ取ったのか、彼は近くのビルを指さした。
「ここでバイトしてるから。」
そこには小さな居酒屋さんがあった。一瞥して、私の視線はまた地べたへと戻る。彼は何も言わず私の傍に立っている。ねえ、と自分の掠れた声が響く。
「ねえ、この辺で一番高いビルを教えて。」
私の唐突な質問に、清矢くんは何も言わないままだった。何も言わない代わりに、彼がバイトしているという居酒屋さんが入っているビルを指さして、歩き出す。から、私もその後に続いた。無言のまま、真っ暗なボロボロの階段を上っていく。どのくらい上っただろう。徐々に月の明かりが私たちの足元を照らしていて、冷たい風を直に感じた。
屋上に立って、月を見上げる。一歩ずつ、一歩ずつ。吸い込まれるように私の足は屋上の奥へと向かう。ツタが生い茂って、柵はもうその機能を果たしていなかった。ゆっくりと進む私を彼はじっと見つめていた。
屋上のヘリに、立つ。風が痛いほど冷たい。
そのまましばらく月を見上げていれば、ポロリと言葉がこぼれてきた。
「頭おかしいって思ってくれていいんだけど。」
「うん。」
「私ほんとは、この子じゃないの。」
「うん。」
「本当は私は飛び降りて病院に運ばれた。はずなのに目覚めたら私は交通事故で入院してて、知らない女の人が泣いてた。私は、真っ青な顔で眠ってる私を見下ろせたの。本当のこの子は、清ちゃんは、今もまだ眠ってる。私の体で。」
「うん。」
「最初はこの体を返したくないって思った。家族に愛されてて、お金があって、当たり前のようにご飯が出てきて。でも、でも、きっと違うの。」
ゴミ箱の中や引き出しの中にも渡る監視、完璧に管理されている食事、友好関係まで干渉されていて、きっと彼女は自分の本当の気持ちを口に出すことなく生きてきたんじゃないだろうか。たくさんの事を隠して、たくさん無理をして理想の娘を演じてきたんじゃないだろうか。クローゼットの奥深くに、鍵付きの引き出しに、自分の気持ちを隠して。
「・・・この子にはこの子なりの地獄がある。」
私には見えない地獄が、この子にはある。外からは見えない地獄が誰にだってあるんだ。そんなの、耐える意味があるんだろうか。こんな世界でどうしてみんな生きているんだろう。すごく、怖くなってしまった。
「私が、私が今ここから飛び降りたら、どうなるのかな。この地獄、終わらせちゃってもいいんじゃないかな。」
キラキラと輝く街が下に広がっている。思っていたよりも高くて足が竦むけど、この一歩くらいなら私にだって踏み出せるはずだ。こんな私にだって、死ぬ勇気くらいあるはずだ。泣いているのは、この世界から離れられるのが嬉しいからに決まってる。決まってるでしょ。
しばらくの沈黙の後、俯いていた清矢くんがゆっくりと顔を上げた。
そして、痛いくらいまっすぐに私を見つめる。
ねえ。
「どうして勝手に人を不幸だと決めつけるの?そんなのきみに決められる筋合いはないよ。」
風が吹く。冷たい風が私の頬をかすめて、通り過ぎていく。
「確かに、この子にも地獄があるのかもしれない。きみにも地獄があるように。でも、それと不幸は直結しないよ。不幸と死にたい気持ちも、きっと直結しない。」
『可哀想かどうかなんて、きみに決められることじゃないんじゃない?』
病院であった時にいわれた言葉を思い出す。あの時も彼は真っすぐに私の瞳を射抜いて、そう言った。一点の曇りもない瞳で、そう言った。
もう一度、清矢くんが私を呼ぶ。
「きみにとっての不幸は何?お金が無いこと?親に愛されないこと?それは他の誰から見ても不幸なのかな、君と同じ状況になったらみんな死にたいと思うのかな。きっと違う。なんだって人それぞれなんだよ。誰かにとっての幸せも誰かにとっては幸せやないし、きみにとっての地獄が誰かを救っていることだってあるんだよ。」
「人間なんてみんな自分単位だ。無償の愛なんてみんなが持てるわけじゃない、人のために死ぬことなんてできなくて当たり前なんだよ、自分の幸せを一番に願うのは悪い事じゃないんだよ。結局、どうにか出来るのは自分の事だけなんだから。」
風が冷たかった。さっきよりも冷たかった。きっとそれは私が泣いているからだ。涙が風で冷やされているからだ。どうすることも出来ず、でも涙はとめどなく溢れてくる。そんな私に、清矢くんが手を差し伸べる。
「・・・宮。佐倉宮。あんたは、それ以外の何者でもない。佐倉宮としてしか生きられないんだ。どうしようもならない事を抱えて、でもそれでも生きてみないか。大切なひとやものを大切に出来るだけで、十分だ。生きるんだよ、自分の幸せを。」
私は、自分の涙すら拭うことが出来ない。でも、それでも。私だって。精一杯手を伸ばして、彼の手を握り返した。温かくて、優しくて、痛いほど冷たかったはずの風が急に冷たく感じなくなった。
ねえ、清矢くん。私は、私はね。
言おうとして目を開けると、
そこには誰もいなかった。
「・・・え・・・。」
誰もいなかったのだ。握っていたはずの手はない。あるのは自分の手だけ。不思議な感覚に襲われて、あれ、と思った。彼はさっき私の名前を呼んだ。
なんで、私の名前、知ってるんだろう。
キーン、と頭の奥で音が鳴った。そうだ、そう言えば。初めて病院で会った日、これからお見舞いに行くという清矢くんの両手は空っぽで、カバンすら持っていなかった。さっきかけてくれたはずの上着はどこにもない。気が付けば私は走り出していた。慌てて階段を下って、さっきバイトしてると言ったお店をみて、立ちすくんでしまった。そこはもう電気がついていなくて、それどころかあちこちボロボロだった。お店の前には「閉店しました。長い間ご愛顧有難うございました。」の張り紙があってその張り紙は数年前の物だった。
そして私は、もう一つ思いだした。彼の顔には涙ぼくろがあったんだ。右目の下に。
思わず、右手が顔に伸びた。
少女が、目を覚ましたらしい。
おしゃべり好きな看護師さんがそう教えてくれた。その顔にはもちろん好奇があったけど、でも、その笑顔は心の底から嬉しそうでもあった。
今日は休日だけど、制服を着た。きちんとボタンを留めて、リボンを整えて、鏡の前に立つ。そして胸ポケットから鍵を出して引き出しをもう一度開いた。
ミユへ、の文字と、最後に書かれている日付は4月11日。しがつ、じゅういちにち。小さな声で呟いてみる。この日が、彼女が交通事故にあった日。そして私が飛び降りた日。この日、清ちゃんはミユちゃんにこの手紙を渡そうとしていた。
ある日のお昼。美憂ちゃんが急に笑い出したことがある。
『なんか清に美憂ちゃんって呼ばれるのやっぱり変。』
『・・・わたし、なんて呼んでた?」
『小さい時からずっとミユって呼んでたよ。一緒にいすぎてミユキヨって近所のおばさんたちにいっつも呼ばれてたんだから。』
清ちゃんは、美憂ちゃんに話したい事があったんだ。それで、もう十分だった。
ノックをすれば、はい、と小さな声が返ってくる。お母さんそっくりの掠れた低い声は、ずっと寝ていたからかいつも以上に掠れていた。
無言のまま病室に入って、ベッドの横に立つ。窓の外を眺めていたままだった彼女はゆっくりとこちらを振り向いて、そして、ああ、と声を出す。
「もしかして、宮ちゃん。」
彼女は驚かなかった。それどころか私の名前をよんで、優しく微笑む。そこには棘が無くて、同じ顔なのにこんな風に笑うことが出来るんだと、自分の顔を見て驚いた。
月の光が窓の外から私達を照らす。その光を眩しそうに見つめながら、彼女は私が話し出すのを待っていた。
口が渇く。
喉の奥から、声を絞り出した。
「・・・ねえ、わたし、体返したくない。」
キョトン、とした顔で私の方を見る。久しぶりに見た自分の顔はこけていて、唇に血色もない。それ以上何も言わずそのまま黙って俯いていれば、彼女は小さく笑った。
「うーん。そうね。悪くないかも、あなた可愛いし。髪だって手入れすれば綺麗になるし。」
あっけらかんとそう言って、ボサボサの髪を手櫛で整えながら、彼女はああと声を出す。
「気づいたと思うけど私のママ過保護すぎるのよね。部屋もママに全部管理されてるようなものだし。私ね、ジャンクフードって食べたことがないの。あとカラオケとかも行ったことないし。夜更かしも出来ないしゲームも駄目。ああ、バイクにも乗ってみたいなあ。あなたになれば、それが全部できるかな。」
私が当たり前に出来ることを彼女は心底羨ましそうに話す。私があなたの当たり前が羨ましいように、彼女も私の当たり前が羨ましいのだ。変なの。本当に変。冷たいビルの屋上を思い出して目の奥が厚くなる。
指を折って楽しそうにやりたい事を一通り数えて、でも、と彼女は私を真っすぐに見つめた。その目は、どこかで見たことがある気がした。
「でもごめん、やっぱ返して。だって私、あなたじゃないんだもん。」
当たり前の事だ。そんな当たり前の事を何もためらわずに言える清ちゃんが眩しかった。
「・・・みんなに、理解してもらえなくても?」
「クローゼットの奥、見た?」
「ごめん。」
「責めてるわけじゃないの。もしかして、引き出しも?」
無言で頷けば、そっか、と彼女は息を吐きだす。
「でもそれでも、あの人は私の母だから。絶対に理解してもらえないし、認めてもらえないし、本当の事を言える日が来るかも分からない。もしかしたら一生隠して生きるのかも。」
「でもしょうがないじゃん。どうしたって私は私でしかないんだもの。」
真っすぐに私を見て、彼女は笑う。綺麗だった。涙が出そうになるくらい。知らない人の手で、ううん、それだけじゃなくて、ずっとずっと汚らわしいと憎んで生きてきた自分が、初めて綺麗に思えた。
心臓が掴まれたように痛くて、思わず声を荒げてしまう。
「っ・・美憂ちゃんにだって、気持ち悪いって言われるかもしれないよ?」
「あなた、痛い所突くわね。」
「大好きな人に認められないって苦しいよ!辛いよ絶対!!・・・っ・・それでもいいの?」
彼女の事を思い出しているのだろうか。その微笑みは苦しくて、痛くて、胸が抉られそうだった。でもそれでも清ちゃんは投げ出さない。自分を捨てないで、自分の足で立っている。何も言わないまま、私の手を掴んだ。そのまま引っ張って、優しく抱きしめる。涙がこぼれて彼女の肩を濡らす。いつかびしょびしょになったハンカチのように、彼女の肩が重くなっていく。
「いいの、それでも。それでも私は、自分を抱きしめて歩いてくわ。だって私に最後まで付き合ってくれるのは、私だけだもの。」
嗚咽が漏れた。苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて。でも、温かかった。この地獄と一緒に彼女は生きていくんだ。全部まとめて愛していくんだ。それが、自分だから。
月の明かりが徐々に眩しくなっていく気がする。彼女に抱きしめられたまま、小さく息を吐いた。
「・・・ごめん、私、酷い事言った。」
「いいよそんなの。あなたが言った事、間違ってないと思うよ。」
「ううん。ただの八つ当たりだ。体も勝手に使っちゃったし。秘密だって勝手に知っちゃった。・・・あと多分、成績も下げた。」
ふふ、と彼女がおかしそうに笑う。
私を抱きしめたまま、彼女は楽しそうにつぶやいた。
「ねえ、じゃあさ。」
「今度、メイクさせてよ。こんなかわいい顔してるんだから、もったいないじゃない。」
大きな涙が一つ、またこぼれて、急に眠気が襲ってきた。
手を繋いだまま、私達は、深い深い眠りに落ちた。
名前を呼ばれて、目を覚ました。
目の前には読みかけの本が置いてあって、読んでる間に寝てしまったようだ。寝るつもりなかったのになあ、と目をこする。日曜日の午後。また明日から仕事だと思うと憂鬱だが、仕方ない。働かなければ生きてけないし、仕事だって悪い事ばっかりじゃない。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。起こしてもらって丁度良かった。買い物行く?」
「そうだね。夜ご飯何食べよっか。」
短くなった黒髪をかき上げて、彼は座っている私に手を差し伸べる。その手を掴んで、私も椅子を立った。私の顔を見て、彼はぷっ、と吹き出す。
「ねえ、アイライン飛び出てるよ。」
「・・・失敗しちゃったの。」
「あんなに何回も教えたのに?」
「だって難しいんだもん。私不器用だし。」
いじけてしまったわたしをみてごめんごめん、と長くなった茶色い髪を撫でる。私だけ少しだけ高い位置にある彼の肩に頭を乗せれば、彼は優しく笑って。
「ねえ、駅前のケーキ屋さんにも寄ろうよ。気になってるって言ってじゃん」
「本当に!?行きたい!」
「よし、決まり。夜ご飯はどうしようねえ。」
「うーん・・・そうだなあ、清矢くん、食べたいものはある?」
少し考えてから、彼はあ、と声を出す。
「「ビーフシチュー!」」
「って、言うと思った。」
今度は彼がいじける番だった。頬を膨らませる彼の手を引っ張って街へと向かう。外は肌寒くて、彼の手を強く握った。見上げた時に見える涙ぼくろは、ただの黒い点のはずなのにいつだってなにより愛しく見えるのだ。