ああ、わたし、死ねなかったんだ。

目が覚めた瞬間、最初に浮かんだのはそんな言葉だった。
ぼんやりとした頭のまま横を見れば、そこに座っていた知らない女の人がわんわん泣いていた。良かった良かったと何度も繰り返して、私を力強く抱きしめる。嗅いだことのない香水の匂いがして、きつめの香水だなあ、なんてぼーっと考えていた。

次に現れた白衣を着たメガネのおじさんは、私の表情を確認しながらゆっくりと話しかける。反応が薄いままの私に気づけば泣いていた女の人の表情も変わっていて、私の手を強く握りしめる。

「自分の名前、分かりますか。」
「・・・みや、です。」
「そう、二宮さんですね。」

絞り出した声はカサカサで、きちんと発生が出来なかった。二宮?と頭にハテナマークが浮かぶ。違う。私は今、みやと言ったんだ。宮と書いてみや、名前の由来は特にない。私は自分の名前だけは結構に気に入っている。響きがいいからっていうだけの理由だけど。

「年齢は?」
「・・・じゅうなな、さい。」
「うん、そうですね。」

女の人が不安そうな顔のまま、しきりに頷いている。・・・この人は、誰なのだろう。疑問が増えていく中で、医者らしき人は更に私を混乱させる事を言う。

「あなたは交通事故でここに運ばれました。横断歩道を渡っている時に信号無視した車と接触して、しばらく意識が無かったんです。」
「・・・え?」

打撲が数か所で来ているが、幸い後遺症が残るような怪我は無かったこと、運転していたのは年配の男性で、既に警察の方で話が進んでいること、淡々と説明されたけど、私の意識は最初の言葉でまだ突っかかったままだった。

ひき逃げなんて、そう言って知らない女の人がまた涙をこぼして、近くにいた看護師さんが彼女の肩を優しくさする。何を言ってるんだろう、だって私は。

口を開こうとしたけど、喉がカラカラで上手く声が出せない。その様子に気づいたのか看護師さんが紙コップに水を入れてくれて、受け取って一口口に含む。そこで、気が付いた。ショートカットのはずの髪の毛が、伸びている。視界に入った手入れの行き届いた綺麗なロングヘアは明らかに私の物じゃなかった。慌てて鏡を探して、そんな急に動揺しだした私に女の人もお医者さんも慌てて声をかける。

「二宮さん、落ち着いてください。」
「清ちゃん!どうしちゃったの!!」

掴まれた腕を振りほどいて、近くの鏡を覗き込んだ。体中が痛かったけど、それどころじゃなかった。何も、言葉が出てこなかった。

「・・・誰。」

きよ!きよ!と知らない人の名前が連呼されて、それが私の事を指しているのだと気づいたけど理解は出来なかった。



「清ちゃん。ここがあなたの部屋よ。」

ドアを開ければ、そこはマンガに出てくるような女の子の部屋だった。花柄のカーテン、ピンク色のベッド、きれいに並べられた教科書類、窓際には花瓶が置いてあって、綺麗な花が刺さっている。なにより、広い。

「・・・やっぱり、思い出せない?」
「・・・ごめんなさい。」
「なんで謝るのよ。さあ、もう今日はゆっくりしてね。何かあったらすぐ呼ぶのよ。」
「・・・うん、ありがとう。」

不安げな表情を隠して優しく笑ったおばさんは、そういってゆっくり部屋のドアを閉めた。

ひとりになった瞬間ドット疲れが襲ってきて、見ず知らずの人のベッドにそのままダイブしてしまった。フカフカで、柔軟剤の甘い香りがして、すぐに寝れてしまいそうだった。眠ってしまわないように気を付けながら、目を瞑って今日の出来事を整理する。

『事故のショックによる一時的な記憶障害だと思います。』

お医者さんはそう言って、しばらく様子を見てみましょう、と混乱するおばさんをなだめた。普通の生活を送っているうちに徐々に回復するでしょう、そう言って私が何も言えないうちに家へと戻ってきてしまったのだ。初めて来たその家は、すごく立派な家だった。きちんとした標識があって、玄関が広くて、駐車場には真っ黒でピカピカしている車が止まっていた。家の中もどこも綺麗で、スリッパをはいて移動するなんて外国みたいだと思った。

ベッドに寝ころんだまま、長い黒髪に手櫛を通す。綺麗な髪の毛。わたしは小さい頃からずっとショートカットで、美容室に行くお金もないからいつも母が切ってくれていた。ギザギザで、枝毛ばっかりで、元々少し茶色っぽくて、まるで正反対。ゆっくりと立ち上がって、クローゼットの扉を開ける。綺麗に整頓されたヒラヒラの服たち。扉についている鏡を、まじまじと見つめた。

一重瞼で目は離れ気味、少しきつめの顔をしているなあと思った。右目の下にはほくろがあって、うん、歯並びがとても綺麗だ。好みが分かれる顔だなあなんて人様の顔に失礼な感想を述べる。身長は私よりも少し高い気がする。

今度は勉強机に座って、近くにあったノートを開いてみた。とても綺麗な字が並んでいて、そして書いてある数式は私には理解が出来なかった。ひかれている線はきっとすべて定規が使われていて、几帳面な子なんだろうなと思った。ノートを閉じて、またもや綺麗な字で書かれた「二宮 清」という名前を見つめる。清。私は今、二宮 清、みたいだ。どうしてこうなってしまったのかは分からない。でも、こうして私の容姿は変わっている。知らないおばさんが母だと名乗って泣いてくれている。本当の清ちゃんは。今どこにいるんだろう。分からない、分からない。頭がパンクしそうになってまたベッドに飛び込んで、目を閉じた。
次に目を開けたのはノックの音と同時だった。どうやら気づかぬうちに寝てしまったらしい。

「清ちゃん。ごめんね寝てた?ご飯食べれる?」

おばさんのその言葉で自分がとても空腹だった事に気が付いて、無言で頷いて階段を下りた。ご飯ののいい匂いが漂ってきて、お腹が大きく音を立てた。木で出来たお洒落な机にはお洒落な茶色のスーツを着たおじさんが腰かけていた。私を見るなり目に涙を浮かべて抱きしめる。

「清・・・!本当に良かった・・・!」

どうしていいのか分からず立ちすくんでいれば、おじさんは少し困ったように笑って、私の頭をポンポン、と撫でる。ママから話は聞いたよ、大丈夫だからね。と優しく微笑んでくれる。

「さあパパ。着替えてきてご飯にしましょう。今日は清の好きなビーフシチューを作ったのよ。」

そのおばさんの言葉で、この人が清の父親である事が分かった。促されるまま席について、陶器の器に盛られたビーフシチューを食べる。とても美味しくて、温かくて、ずうずうしくおかわりまで楽しんでしまった。普段清ちゃんは小食なのか、おばさんは驚いた顔をしていたけどでも嬉しそうにお皿にビーフシチューを盛ってくれる。外からの騒音も、怒鳴り声も、何もかもが一切聞こえない。静かな食卓に響く落ち着いた話声。こんな場所が本当にあるんだとなんだか絵本の世界にいるみたいだった。