76
私は病院の処置室の前のベンチに座って、待っている。今回も同じだ。シドと私は救急車で運ばれた。私はどこも怪我はなかった。ただ、左腕に青あざができて、少しだけ痛むだけだった。病院の廊下は消毒とビニールの匂いが混じっていた。運ばれたこの病院は古臭く、塩化ビニールで出来た床は灰色で、所々ワックスが剥がれていた。床の色の所為で、ずいぶんと暗い印象を受け、それが私の気分をさらに落ち込ませた。
しばらくして、処置室の引き戸が開いた。看護師が扉を開け、どうぞと言っていた。扉から男の人が出てきた。シドだった。私はベンチから立ち上がり、シドの方へ行った。シドの額にはガーゼがついてた。
「6針縫った」シドはそう言った。
「痛そう」私はそう言った。
「超痛いよ。マジで」
「――生きてる?」
「死ぬかと思った。――だけど、生きてる」シドがそう言ったあと、私はシドに抱きついた。
「――ねえ、シド。私の身代わりになるとか、私を救うとか、そういうこと、もう考えないで」そう言い終わったあと、右目から涙が頬を伝ったのを感じた。そのあとすぐに何粒の涙が続けて出てきた。
「ごめん。悪かった」シドは私の背中に手を回し、抱きしめた。
「バカでしょ。何回も言わせないでよ。――二人で一緒に居れたら私はそれだけで十分なの。――だからお願い」
「――わかった」
「シド。私にとって、あなたはとても必要なの。ずっと――」そう私が言っている途中でシドは私が破裂するんじゃないかって、力で抱きしめた。シドの右腕でぐっと私の身体は、よりシドの左肩へ引き寄せられた。ウールのコートの匂いがした。
「ずっと、一緒にいよう」背中で感じるシドの両手は暖かく、肩は筋肉質でしっかりと硬かった。
77
結局、私とシドが病院に運ばれて、病院を出る頃には、時計の針は15時を回っていた。本当はルタオでケーキを食べるはずだったのにその時間を病院で過ごしてしまった。病院を出るとすでに日はオレンジ色になっていて、あと1時間もすれば日没が訪れる弱々しい太陽だった。冬至前の寂しい感じがすでに出ていた。
「シド、そういえば、今日、バイトなんじゃないの?」
「いいよそんなの。怪我もしてるし。さっき、電話したんだ。日奈子がトイレ行ってる間に」
「そうだったんだ」
「こっちはさ、怪我してるのにめっちゃ怒られたよ。オーナーに。俺に何時間働かせる気なんだって言われた。俺のことコマとしか思ってないよな。普通、大丈夫? とかさ、聞くよな。なんか嫌になっちゃうよね」
「えー、酷いね。上司に恵まれてないね」
「まあね。ってことで、仕切り直しにルタオ行こうぜ」シドはそう言って、ニコッと笑った。
78
「美味しい。最高」私はドゥーブルフロマージュを一口食べたあとそう言った。ドゥーブルフロマージュを口に入れた瞬間、とろけてミルクの甘さが口いっぱいに広がった。ゆっくりそれを噛むと、レアチーズの甘さとベイクドチーズの酸味、風味が口の中で立ち、それだけで幸福な気持ちになった。
病院からルタオのカフェまでタクシーで移動した。病院は思ったほど、離れていなくて、ワンメーターで行くことができた。カフェの中はほとんど満席に近かった。私とシドは窓側の4人席に座っている。テーブルの上には白いお皿に乗ったドゥーブルフロマージュ2つとコーヒーとカフェオレが並んでいる。
「やっぱ、何回食べても美味いわ」シドはそう言いながら、フォークでドゥーブルフロマージュをすくい、口の中に入れた。しばらく、私とシドは黙々とドゥーブルフロマージュを食べた。さっきの事故なんてまるでなかったかのように食べ続けた。私とシドはほぼ、同じくらいに食べ終わった。ドゥーブルフロマージュを食べ終わって、シドを見るとシドは微笑んだ。
「美味しかったね」シドはそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。
「うん、最高だった。あそこで帰らなくてよかった」
「やっぱり、小樽に来たら、これ食べて帰らないとね。後悔するよ」
「だよね。――事故からのギャップがヤバいね」
「あぁ。死ぬかと思った。マジで。ホント、殺しにかかってるよな。俺たちのこと。――こういうのお祓い行ったらどうにかなるのかな」
「お祓いでどうにかなったら、私達のどっちかが、死んでないよ。たぶん」
「そっか。多分、今日って、最高に不運な日なんだろうな。だって、こんだけ事故りそうになるんだよ?」
「もう、一回、事故ってるけどね」
「あ、そうだった」
「――ねえ、痛い思いさせて、ごめんね」
「ううん。日奈子が無事でよかった」
「結局、シドは私のこと守ってくれたね」
「――当たり前じゃん。日奈子のこと、守り抜くよ」
「――シド」
「なに?」
「死なないでよかった」私はそう言ったあと、また涙が溢れそうになった。だけど、口をつぐみ、力を入れ、泣くのを我慢した。
79
ルタオを出て、小樽運河の方へ歩き始めた。シドは左手で私の右手を握って、そのまま私の右手も一緒にシドのコートのポケットの中に突っ込んだ。日はとっくに沈んでしまって、夜になっていた。片側3車線の大きな道路が等間隔で置かれた街灯でオレンジ色に照らされていた。道路は雪で白いから、雪がオレンジ色の街灯を反射して、道路だけぼんやりとオレンジ色の世界になっていた。
さっきより、気温は下がっているのがわかった。凛とした冷たい空気が顔や耳を一気に覆った。15分くらい黙々と歩くと、小樽運河が見えてきた。運河は昼間見た景色とは違った。
私達は、観光案内所の前にある広場に着いた。広場の欄干に手をかけて、運河を見ると、青色LEDの電飾が、運河に沿って一直線に光っていた。奥に見える橋の欄干にも同じように青くなっていた。そして、運河の遊歩道沿いに等間隔に並んでいるガス灯も同じように青色の電飾がされていた。ガス灯のオレンジ色の光と青色LEDの淡い光が運河の水面に反射して、とても幻想的な世界になっていた。
「写真撮ろう」シドはそう言って、携帯を取り出した。そして、私の背中に左手を回して、右手で携帯を操作して、自撮りした。
「私も」私はそう言ったあと、自分の携帯をバッグから取り出し、シドの背中に右手を回し、左手で携帯を操作して、自撮りした。
「よし、遊歩道行くか」シドはそう言って、私の右手を繋いで、また歩き始めた。広場から、階段を降りて、運河横の遊歩道に入った。遊歩道はガス灯のオレンジで照らされていた。間近でみる青いイルミネーションはやっぱり綺麗だった。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「今、ふと思ったんだけどさ、俺ら、今日寝れないな」シドがそう言ったあと、私は黙ってしまった。私はよくわからなくなった。このまま、元の世界にタイムスリップして戻るわけがないと自然に思っていたから、そのことについて何も考えいなかった。
「――日奈子?」シドはそう言って、私の方を見た。
「嫌だよ、私。戻りたくない」
「俺もそうだよ。――だけど、タイムスリップは本来、2回寝たら戻るって言われただろ。占いのおばさんに」
「そうだけど、私は前のとき、戻らなかったよ。前の世界に」
「そうかもしれない。だけど、それが今回も出来るとは限らないだろ」
「そうかもしれないけど、私は今回も戻らないことを信じてる。――シドは信じきれないの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、嫌なんだよ。戻るのが」
「私も嫌だよ。ずっと一緒に居たいよ。このまま」
「だけど、どうなるかわからない。だから、今日は寝ないようにしよう」
「――わかった」私はそう言ったあと、ため息をついた。もし、これが永遠じゃなくて、シドが死んだ世界に戻るのであれば、私は戻った世界でどうすればいいのだろう。シドがいないと意味がない。私にとっての世界はシドがいないと何も起きないことはもうわかっている。おまけに17歳から人生、やり直しだ。それもたった一人で。
80
札幌に戻ってきた。帰りのJRの電車の中では、二人とも無言で、手を繋いだまま過ごした。魔法が解ける前の憂鬱ってきっとこういう感じなのだろう。小樽からどんどん離れていく車窓も寂しかった。真っ暗な日本海が不気味に見えた。途中から、吹雪はじめて、白い雪の粒が斜めに過ぎ去っていった。シドの手のぬくもりだけが今、確かなことのように思えた。
結局、どこにも行くあてがなくて、地下鉄で地元に戻り、国道沿いのファミレスに入った。とりあえずドリンクバーを頼み、シドはコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座り、トラックとタクシーしかほぼ通っていない国道を眺めていた。雪は本格的に降り始めていた。
「ねえ。本当にこれでお別れかな」
「お別れかもしれないね」
「そんなの。――理不尽だよね」
「理不尽だね。――だから、ギリギリまで起きてよう。お互い。オールしてさ、最後の最後まで一緒にいよう」
「私は信じないよ。戻ること。絶対、このままシドと二人で人生歩むことができるんだよ。――それにプロポーズしたんだから、責任取ってよ」
「当たり前だろ。俺だって、元の世界に戻ること、信じないよ。信じたくない。だけど――」
「だけど、なにさ」私はムキになって食い気味にそう言った。
「戻っちゃうかもしれない」シドはそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。
「ねえ、シド。約束して」
「なにを?」
「戻らないってことを信じ切るってことを」私はそう言ったあと、右手の小指をシドの方に差し出した。シドもそっと右手の小指を出し、私の小指に結んだ。
「わかった。信じ切るよ」シドはそう言ったあと、右手を何度か揺らし、指切りをした。
81
「私、不眠症なんだよね」
「――マジで?」
「そう。結構前から」
「それって、もしかして俺が死んでからのこと?」
「うん。そうだよ。シドが死んでから上手く寝ることができなくなったの。私。睡眠剤飲んでだましだまし寝てたな。27歳のとき。」
「仕事とか、きつかったんじゃない?」
「うん、すごいしんどかったよ。酷い時、睡眠時間1時間くらいで仕事行ったこともあったな。今となっては遠い過去だけどね」
「――そうだったんだ」
「うん。私の人生ね、全然上手くいかないんだ。毎日、ふらふらだったな。だけどね、1回目タイムスリップしたとき、久々にゆっくり寝ることができたんだ。どうしてかわかる?」
「どうして?」
「シドが生きていたからだよ。シドが生きてたから眠れたんだよ。あの日だけ。それで、次の日にシドが死んだでしょ。そのあとから、またすぐに不眠症になったの。眠剤飲まないと寝れなかったの」
「俺が生きていたら、日奈子は不眠症にもならなかったんだろうな」
「うん。私もそう思う」
「ホント、どうしてこうなったんだろうな。なんで、片方が死ななくちゃならなかったんだろうな。――生きていたら、そんなことにならなかったのにな」
「ホントね。私達、経験しなくてもいい経験をしてるのかもって、思っちゃう。――私ね、シドが死んだこと、本当に深い傷になってたんだと思うんだ。その傷がずっと癒えなかったから、シドが死んだ10年、私の人生歩むことができなくなったのかもしれないね」
「日奈子、もう、そんな思いさせないから。これからの10年、絶対、お互いに楽しくなるよ。日奈子が経験した27歳とも違うし、俺が経験した27歳とも違う結果になってるよ。きっと。だから、夢で終わらせないようにしよう」
「うん。だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いいよ。俺のことも監視しろよ」シドは笑いながらそう言った。
「うん。絶対に寝かせないから」私はそう言って、笑った。
「こういうとき、酒欲しくなるよな」
「うん。飲もうよ。ねぇ、一杯おごって」
「なに飲む?」
「ハイボール」
「やるな」シドはそう言って、呼び出しボタンを押した。
ハイボールが入ったグラスが出された。店員は私とシドが未成年であることを疑いもせず、そのまま酒を出した。お金さえ払えば、大体のことは多目に見てくれる。そういう暗黙のルールで社会は回っている。目の前にグラスがもうあるんだから、すでに私達の責任ではないと思った。
シドとグラスを合せた。グラス同士がゆるく触れた音がした。シドは慣れたようにハイボールを飲み始めた。私もハイボールを口に含んだ。安いウイスキーの苦味と炭酸を口の中で感じた。ハイボールを飲み込むと食道がアルコールで熱くなるのを感じた。
「さすがにファミレスだから、酒なさすぎだよな」
「飲むところじゃないからね」
「安いワインか、ビールか、ハイボールだったら、やっぱハイボールだよな」
「そうだね。私もそう思った」
「お酒、一緒に飲むの初めてだな」シドはそう言ったあと、もう一口ハイボールを飲んだ。
「そうだね。シドと飲みたかった」
「俺もだよ」シドのグラスはもう残りわずかになっていた。
「ピッチ早くない?」
「こんなもんでしょ」シドはグラスを飲み干して、呼び出しボタンを押した。
「なんかさ、早く酔いたくなった。むしゃくしゃして」
「ちょっと、一人で飲んでるわけじゃないんだからさ、先に勝手に酔わないでよ」私はそう言って、笑った。
「俺、結構強いから、最初から飛ばさないと酔わないのさ。だから許して」
「いいよ。信じるよ」
「ありがとう。いい子ちゃんじゃないから、どんどん飲むわ」シドがそう言ったとき、店員が来た。シドはまたハイボールを頼んだ。
「なあ」
「なに?」
「楽しかったな。今日」
「うん、楽しかったね」
「こんな気持ちになれてよかったよ」
「うん、私も」
「これからもずっと、一緒にいよう」
「もう、当たり前でしょ。――結婚してくれるんでしょ?」
「うん。本当は今日、区役所に行って、婚姻届出したいくらいしたいよ」
「まだ出来ないのにね」
「俺が18になってないからな」シドがそう言ったあと、おかわりのハイボールを店員が運んできた。
「ねえ」
「なに?」
「お酒飲んで、おでこ痛くないの?」
「うん、痛いよ。今。縫ったところズキズキする」
「そうだよね。そう思った」私はそう言って、笑った。
「いや、笑い事じゃないからね。痛いもん」シドはそう言って、笑った。
「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」シドはそう言って、ハイボールを口づけた。
「――もう一回、タイムスリップしたかも。今度は小樽になんか行かないで、安全なところで二人でいい子になって閉じこもるの」
「冬眠するクマみたいだね」
「うん。危険な日は冬眠するんだよ。そして、そっと災難がすぎるのを待つ。――そういうことしてたかもしれないね。だけど、次、タイムスリップしても、27歳の今のシドには会えないかもしれないね」
「そっか。27歳の俺が死ぬわけだからね」
「そう。そういうこと。結局、タイムスリップしても頭の中、ぐるぐるするだけだったかもね」私はそう言ったあと、ハイボールをごくごくと喉に流しこんだ。食道が一気に熱くなるのを感じた。
「だから、今日、シドが死ななくて本当によかった」
「あぁ。俺もそう思ってるよ。このくらいの怪我で済んでよかったわ」
「痛そうだったけどね。――あの時、私を守ってくれてありがとう」
「ううん」
「シドが死ななくてよかった。死なれたら困るよ、私。また、何も面白くない人生を過ごすことになるんだから」私は泣きそうになるのをごまかすためにハイボールをまた一口飲んだ。
「なあ、日奈子」
「――なに」私がそう言うとシドは両手で私の左手を握った。
「いいか、よく聞けよ。ずっと一緒にいよう。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」シドの目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手でシドの手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめん。泣いてばかりだね」私は感情の波がおだやかになってからそう言った。
「泣いてもいいよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」私は笑ってそう言った。口角を上げたとき、まぶたが腫れぼったくなっているの感じた。
「日奈子のハイボール、もう氷溶けて薄まってるよ」シドはそう言ったあと、ハイボールを一口飲んだ。
「私ね。ずっとこうしたかったの」頭がカクンと下がった。そして、一瞬寝そうになっていたことに気づいた。
「――日奈子?」
「シドと。ずっと、こうして――話したり、一緒にいたかった」意識が朦朧とする。頭の中が空っぽになっていく感覚が襲ってきた。
「俺もだよ」
「ずっとね。――もう、戻りたくないよ。――シド。離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」シドはそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。セーターの袖はすぐに涙で滲みた。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさを誘った。
「おい、日奈子。寝るなよ」シドがそう言ったのが聞こえた。私の意識は穏やかに闇に向かっていくのがわかった。
「おいって。――起きろよ。日奈子。寝るな。――マジかよ」シドはそう言って、何度も私を揺さぶっている。だけど、全然、体勢を起き上がることも出来なかったし、どんどんシドの声が遠くなっていくのを感じた。
「日奈子。――ありがとう。――ずっと、大好きだよ」シドの声が泣き声になっていた。シドの声はそれ以降、聞こえなくなった。
82
「戻ってきたね」私は右側を向くと占いのおばさんが立っていた。サリーはオレンジだった。私は大きく息をはいた。息をはききると、虚無感がぐっと襲ってきた。何もない、何もかも終わったんだと思った。
「何もかも終わったんだ」
「ええ、終わりよ」
「何もかも――」
「どう? 気分は」
「最悪です」
「そう。辛いこと言うようだけど、これが現実なんだから仕方ないことだよ。人間、抗うことが出来ないことがほとんどなの」
「――私にとって、この世界は何もないことが十分にわかりました。これからの人生もきっと、失望したまま生きることもわかりました。それくらい、心の中が空っぽです。私、もう、生きていく気力ないかもしれません」
「そうは言っても、人間生きなくちゃいけない。どんなにじっとしていてもお腹は減るし、嫌でも食べたり飲んだりしなくちゃいけない。――それが現実を受け入れるってことなのかもしれないね」おばさんの声以外、何も音がなかった。この部屋も空っぽだ。私かおばさんが話すたびに声が不自然に響いた。この部屋はまだ夢のつづきみたいな、そんな現実感のなさだった。
「――だけど、私、わかったことがあるんです。実はこの椅子を使えば、人間、運命に抗うこともできるって。だから、2回目のタイムスリップしようと思ったんです。それで実際にタイムスリップして、抗うことができました。簡単です。そんなの。私は彼がいない世界では生きていけないし、彼がいない世界を望みません。彼がいる世界でしか私は幸せになれない。なら、その世界に留まればいい。そういうことです」私がそう言ったあと、しばらく沈黙が訪れた。おばさんは私のさっきの話を本当に聞いていたのか不安になるくらい、不自然に時間が流れていった。
「あなたにいいこと教えてあげる。――この椅子はね、実はタイムスリップする装置ってわけではないんだよ」おばさんは冷たく冷静な声でそう言った。
「どういうことですか?」
「私はこの椅子に座るときに行きたい過去のことをイメージしてって言ったでしょ。そのときあなたはどうなっているかと言うと、過去の世界に意識が行くの。これがタイムスリップよね。だけどね、本当はこの椅子って、自分が作り上げた世界に行くことが出来る椅子なの」
「どういうことですか?」
「つまり、さっき、あなたが言った通りよ。答えはあなた自身で出したじゃないの。――自分の人生、こうしたいと思った世界を新たに作ってくれるってこと。だから、死んだ人が死ななかった世界の中で、自分が生きたいと思ったら、その世界に行って、人生を作り直すことができるの」
「え、だけど、2回寝たら、元の世界に戻っちゃいますよね?」
「あれもね、私がそう言っているだけで、本当はそうならないの。みんな、私の話を聞いて、2回寝たらタイムスリップが終わるんだと信じるから、椅子はその通りにしてくれるってだけのことなの。だから、私の話を無視した人はタイムスリップしてもその世界に留まり続けることができるってことよ」
「――そうだったんですね」
「そう。そしてね、あなたもその一人なの。多分、もう二度と私に会うこともないでしょうし、今までみたいな暗い人生は歩むことはないでしょう。おめでとう」
「え、どういうことですか?」
「それは自分で体感してみなさい。おばさんは応援してるからね」おばさんの方を見るとおばさんは優しく微笑んでいた。目尻の皺の本数、深さがより優しい印象を受けた。
83
揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見るとシドが立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。シドが右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねるとシドの人差し指があたった。そのあとシドの笑い声が聞こえた。
窓の外は夜明け前の青さだった。雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。
「おはよう」シドはそう言った。
「おはよう」私は初めてシドに起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。
「なあ」
「なに?」
「ずっと一緒にいれるな」シドはそう言って、微笑んでた。シドの表情を見て、私は生きるってこういうことなんだと思った。
私は病院の処置室の前のベンチに座って、待っている。今回も同じだ。シドと私は救急車で運ばれた。私はどこも怪我はなかった。ただ、左腕に青あざができて、少しだけ痛むだけだった。病院の廊下は消毒とビニールの匂いが混じっていた。運ばれたこの病院は古臭く、塩化ビニールで出来た床は灰色で、所々ワックスが剥がれていた。床の色の所為で、ずいぶんと暗い印象を受け、それが私の気分をさらに落ち込ませた。
しばらくして、処置室の引き戸が開いた。看護師が扉を開け、どうぞと言っていた。扉から男の人が出てきた。シドだった。私はベンチから立ち上がり、シドの方へ行った。シドの額にはガーゼがついてた。
「6針縫った」シドはそう言った。
「痛そう」私はそう言った。
「超痛いよ。マジで」
「――生きてる?」
「死ぬかと思った。――だけど、生きてる」シドがそう言ったあと、私はシドに抱きついた。
「――ねえ、シド。私の身代わりになるとか、私を救うとか、そういうこと、もう考えないで」そう言い終わったあと、右目から涙が頬を伝ったのを感じた。そのあとすぐに何粒の涙が続けて出てきた。
「ごめん。悪かった」シドは私の背中に手を回し、抱きしめた。
「バカでしょ。何回も言わせないでよ。――二人で一緒に居れたら私はそれだけで十分なの。――だからお願い」
「――わかった」
「シド。私にとって、あなたはとても必要なの。ずっと――」そう私が言っている途中でシドは私が破裂するんじゃないかって、力で抱きしめた。シドの右腕でぐっと私の身体は、よりシドの左肩へ引き寄せられた。ウールのコートの匂いがした。
「ずっと、一緒にいよう」背中で感じるシドの両手は暖かく、肩は筋肉質でしっかりと硬かった。
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結局、私とシドが病院に運ばれて、病院を出る頃には、時計の針は15時を回っていた。本当はルタオでケーキを食べるはずだったのにその時間を病院で過ごしてしまった。病院を出るとすでに日はオレンジ色になっていて、あと1時間もすれば日没が訪れる弱々しい太陽だった。冬至前の寂しい感じがすでに出ていた。
「シド、そういえば、今日、バイトなんじゃないの?」
「いいよそんなの。怪我もしてるし。さっき、電話したんだ。日奈子がトイレ行ってる間に」
「そうだったんだ」
「こっちはさ、怪我してるのにめっちゃ怒られたよ。オーナーに。俺に何時間働かせる気なんだって言われた。俺のことコマとしか思ってないよな。普通、大丈夫? とかさ、聞くよな。なんか嫌になっちゃうよね」
「えー、酷いね。上司に恵まれてないね」
「まあね。ってことで、仕切り直しにルタオ行こうぜ」シドはそう言って、ニコッと笑った。
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「美味しい。最高」私はドゥーブルフロマージュを一口食べたあとそう言った。ドゥーブルフロマージュを口に入れた瞬間、とろけてミルクの甘さが口いっぱいに広がった。ゆっくりそれを噛むと、レアチーズの甘さとベイクドチーズの酸味、風味が口の中で立ち、それだけで幸福な気持ちになった。
病院からルタオのカフェまでタクシーで移動した。病院は思ったほど、離れていなくて、ワンメーターで行くことができた。カフェの中はほとんど満席に近かった。私とシドは窓側の4人席に座っている。テーブルの上には白いお皿に乗ったドゥーブルフロマージュ2つとコーヒーとカフェオレが並んでいる。
「やっぱ、何回食べても美味いわ」シドはそう言いながら、フォークでドゥーブルフロマージュをすくい、口の中に入れた。しばらく、私とシドは黙々とドゥーブルフロマージュを食べた。さっきの事故なんてまるでなかったかのように食べ続けた。私とシドはほぼ、同じくらいに食べ終わった。ドゥーブルフロマージュを食べ終わって、シドを見るとシドは微笑んだ。
「美味しかったね」シドはそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。
「うん、最高だった。あそこで帰らなくてよかった」
「やっぱり、小樽に来たら、これ食べて帰らないとね。後悔するよ」
「だよね。――事故からのギャップがヤバいね」
「あぁ。死ぬかと思った。マジで。ホント、殺しにかかってるよな。俺たちのこと。――こういうのお祓い行ったらどうにかなるのかな」
「お祓いでどうにかなったら、私達のどっちかが、死んでないよ。たぶん」
「そっか。多分、今日って、最高に不運な日なんだろうな。だって、こんだけ事故りそうになるんだよ?」
「もう、一回、事故ってるけどね」
「あ、そうだった」
「――ねえ、痛い思いさせて、ごめんね」
「ううん。日奈子が無事でよかった」
「結局、シドは私のこと守ってくれたね」
「――当たり前じゃん。日奈子のこと、守り抜くよ」
「――シド」
「なに?」
「死なないでよかった」私はそう言ったあと、また涙が溢れそうになった。だけど、口をつぐみ、力を入れ、泣くのを我慢した。
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ルタオを出て、小樽運河の方へ歩き始めた。シドは左手で私の右手を握って、そのまま私の右手も一緒にシドのコートのポケットの中に突っ込んだ。日はとっくに沈んでしまって、夜になっていた。片側3車線の大きな道路が等間隔で置かれた街灯でオレンジ色に照らされていた。道路は雪で白いから、雪がオレンジ色の街灯を反射して、道路だけぼんやりとオレンジ色の世界になっていた。
さっきより、気温は下がっているのがわかった。凛とした冷たい空気が顔や耳を一気に覆った。15分くらい黙々と歩くと、小樽運河が見えてきた。運河は昼間見た景色とは違った。
私達は、観光案内所の前にある広場に着いた。広場の欄干に手をかけて、運河を見ると、青色LEDの電飾が、運河に沿って一直線に光っていた。奥に見える橋の欄干にも同じように青くなっていた。そして、運河の遊歩道沿いに等間隔に並んでいるガス灯も同じように青色の電飾がされていた。ガス灯のオレンジ色の光と青色LEDの淡い光が運河の水面に反射して、とても幻想的な世界になっていた。
「写真撮ろう」シドはそう言って、携帯を取り出した。そして、私の背中に左手を回して、右手で携帯を操作して、自撮りした。
「私も」私はそう言ったあと、自分の携帯をバッグから取り出し、シドの背中に右手を回し、左手で携帯を操作して、自撮りした。
「よし、遊歩道行くか」シドはそう言って、私の右手を繋いで、また歩き始めた。広場から、階段を降りて、運河横の遊歩道に入った。遊歩道はガス灯のオレンジで照らされていた。間近でみる青いイルミネーションはやっぱり綺麗だった。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「今、ふと思ったんだけどさ、俺ら、今日寝れないな」シドがそう言ったあと、私は黙ってしまった。私はよくわからなくなった。このまま、元の世界にタイムスリップして戻るわけがないと自然に思っていたから、そのことについて何も考えいなかった。
「――日奈子?」シドはそう言って、私の方を見た。
「嫌だよ、私。戻りたくない」
「俺もそうだよ。――だけど、タイムスリップは本来、2回寝たら戻るって言われただろ。占いのおばさんに」
「そうだけど、私は前のとき、戻らなかったよ。前の世界に」
「そうかもしれない。だけど、それが今回も出来るとは限らないだろ」
「そうかもしれないけど、私は今回も戻らないことを信じてる。――シドは信じきれないの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、嫌なんだよ。戻るのが」
「私も嫌だよ。ずっと一緒に居たいよ。このまま」
「だけど、どうなるかわからない。だから、今日は寝ないようにしよう」
「――わかった」私はそう言ったあと、ため息をついた。もし、これが永遠じゃなくて、シドが死んだ世界に戻るのであれば、私は戻った世界でどうすればいいのだろう。シドがいないと意味がない。私にとっての世界はシドがいないと何も起きないことはもうわかっている。おまけに17歳から人生、やり直しだ。それもたった一人で。
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札幌に戻ってきた。帰りのJRの電車の中では、二人とも無言で、手を繋いだまま過ごした。魔法が解ける前の憂鬱ってきっとこういう感じなのだろう。小樽からどんどん離れていく車窓も寂しかった。真っ暗な日本海が不気味に見えた。途中から、吹雪はじめて、白い雪の粒が斜めに過ぎ去っていった。シドの手のぬくもりだけが今、確かなことのように思えた。
結局、どこにも行くあてがなくて、地下鉄で地元に戻り、国道沿いのファミレスに入った。とりあえずドリンクバーを頼み、シドはコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座り、トラックとタクシーしかほぼ通っていない国道を眺めていた。雪は本格的に降り始めていた。
「ねえ。本当にこれでお別れかな」
「お別れかもしれないね」
「そんなの。――理不尽だよね」
「理不尽だね。――だから、ギリギリまで起きてよう。お互い。オールしてさ、最後の最後まで一緒にいよう」
「私は信じないよ。戻ること。絶対、このままシドと二人で人生歩むことができるんだよ。――それにプロポーズしたんだから、責任取ってよ」
「当たり前だろ。俺だって、元の世界に戻ること、信じないよ。信じたくない。だけど――」
「だけど、なにさ」私はムキになって食い気味にそう言った。
「戻っちゃうかもしれない」シドはそう言ったあと、コーヒーを一口飲んだ。
「ねえ、シド。約束して」
「なにを?」
「戻らないってことを信じ切るってことを」私はそう言ったあと、右手の小指をシドの方に差し出した。シドもそっと右手の小指を出し、私の小指に結んだ。
「わかった。信じ切るよ」シドはそう言ったあと、右手を何度か揺らし、指切りをした。
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「私、不眠症なんだよね」
「――マジで?」
「そう。結構前から」
「それって、もしかして俺が死んでからのこと?」
「うん。そうだよ。シドが死んでから上手く寝ることができなくなったの。私。睡眠剤飲んでだましだまし寝てたな。27歳のとき。」
「仕事とか、きつかったんじゃない?」
「うん、すごいしんどかったよ。酷い時、睡眠時間1時間くらいで仕事行ったこともあったな。今となっては遠い過去だけどね」
「――そうだったんだ」
「うん。私の人生ね、全然上手くいかないんだ。毎日、ふらふらだったな。だけどね、1回目タイムスリップしたとき、久々にゆっくり寝ることができたんだ。どうしてかわかる?」
「どうして?」
「シドが生きていたからだよ。シドが生きてたから眠れたんだよ。あの日だけ。それで、次の日にシドが死んだでしょ。そのあとから、またすぐに不眠症になったの。眠剤飲まないと寝れなかったの」
「俺が生きていたら、日奈子は不眠症にもならなかったんだろうな」
「うん。私もそう思う」
「ホント、どうしてこうなったんだろうな。なんで、片方が死ななくちゃならなかったんだろうな。――生きていたら、そんなことにならなかったのにな」
「ホントね。私達、経験しなくてもいい経験をしてるのかもって、思っちゃう。――私ね、シドが死んだこと、本当に深い傷になってたんだと思うんだ。その傷がずっと癒えなかったから、シドが死んだ10年、私の人生歩むことができなくなったのかもしれないね」
「日奈子、もう、そんな思いさせないから。これからの10年、絶対、お互いに楽しくなるよ。日奈子が経験した27歳とも違うし、俺が経験した27歳とも違う結果になってるよ。きっと。だから、夢で終わらせないようにしよう」
「うん。だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いいよ。俺のことも監視しろよ」シドは笑いながらそう言った。
「うん。絶対に寝かせないから」私はそう言って、笑った。
「こういうとき、酒欲しくなるよな」
「うん。飲もうよ。ねぇ、一杯おごって」
「なに飲む?」
「ハイボール」
「やるな」シドはそう言って、呼び出しボタンを押した。
ハイボールが入ったグラスが出された。店員は私とシドが未成年であることを疑いもせず、そのまま酒を出した。お金さえ払えば、大体のことは多目に見てくれる。そういう暗黙のルールで社会は回っている。目の前にグラスがもうあるんだから、すでに私達の責任ではないと思った。
シドとグラスを合せた。グラス同士がゆるく触れた音がした。シドは慣れたようにハイボールを飲み始めた。私もハイボールを口に含んだ。安いウイスキーの苦味と炭酸を口の中で感じた。ハイボールを飲み込むと食道がアルコールで熱くなるのを感じた。
「さすがにファミレスだから、酒なさすぎだよな」
「飲むところじゃないからね」
「安いワインか、ビールか、ハイボールだったら、やっぱハイボールだよな」
「そうだね。私もそう思った」
「お酒、一緒に飲むの初めてだな」シドはそう言ったあと、もう一口ハイボールを飲んだ。
「そうだね。シドと飲みたかった」
「俺もだよ」シドのグラスはもう残りわずかになっていた。
「ピッチ早くない?」
「こんなもんでしょ」シドはグラスを飲み干して、呼び出しボタンを押した。
「なんかさ、早く酔いたくなった。むしゃくしゃして」
「ちょっと、一人で飲んでるわけじゃないんだからさ、先に勝手に酔わないでよ」私はそう言って、笑った。
「俺、結構強いから、最初から飛ばさないと酔わないのさ。だから許して」
「いいよ。信じるよ」
「ありがとう。いい子ちゃんじゃないから、どんどん飲むわ」シドがそう言ったとき、店員が来た。シドはまたハイボールを頼んだ。
「なあ」
「なに?」
「楽しかったな。今日」
「うん、楽しかったね」
「こんな気持ちになれてよかったよ」
「うん、私も」
「これからもずっと、一緒にいよう」
「もう、当たり前でしょ。――結婚してくれるんでしょ?」
「うん。本当は今日、区役所に行って、婚姻届出したいくらいしたいよ」
「まだ出来ないのにね」
「俺が18になってないからな」シドがそう言ったあと、おかわりのハイボールを店員が運んできた。
「ねえ」
「なに?」
「お酒飲んで、おでこ痛くないの?」
「うん、痛いよ。今。縫ったところズキズキする」
「そうだよね。そう思った」私はそう言って、笑った。
「いや、笑い事じゃないからね。痛いもん」シドはそう言って、笑った。
「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」シドはそう言って、ハイボールを口づけた。
「――もう一回、タイムスリップしたかも。今度は小樽になんか行かないで、安全なところで二人でいい子になって閉じこもるの」
「冬眠するクマみたいだね」
「うん。危険な日は冬眠するんだよ。そして、そっと災難がすぎるのを待つ。――そういうことしてたかもしれないね。だけど、次、タイムスリップしても、27歳の今のシドには会えないかもしれないね」
「そっか。27歳の俺が死ぬわけだからね」
「そう。そういうこと。結局、タイムスリップしても頭の中、ぐるぐるするだけだったかもね」私はそう言ったあと、ハイボールをごくごくと喉に流しこんだ。食道が一気に熱くなるのを感じた。
「だから、今日、シドが死ななくて本当によかった」
「あぁ。俺もそう思ってるよ。このくらいの怪我で済んでよかったわ」
「痛そうだったけどね。――あの時、私を守ってくれてありがとう」
「ううん」
「シドが死ななくてよかった。死なれたら困るよ、私。また、何も面白くない人生を過ごすことになるんだから」私は泣きそうになるのをごまかすためにハイボールをまた一口飲んだ。
「なあ、日奈子」
「――なに」私がそう言うとシドは両手で私の左手を握った。
「いいか、よく聞けよ。ずっと一緒にいよう。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」シドの目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手でシドの手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめん。泣いてばかりだね」私は感情の波がおだやかになってからそう言った。
「泣いてもいいよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」私は笑ってそう言った。口角を上げたとき、まぶたが腫れぼったくなっているの感じた。
「日奈子のハイボール、もう氷溶けて薄まってるよ」シドはそう言ったあと、ハイボールを一口飲んだ。
「私ね。ずっとこうしたかったの」頭がカクンと下がった。そして、一瞬寝そうになっていたことに気づいた。
「――日奈子?」
「シドと。ずっと、こうして――話したり、一緒にいたかった」意識が朦朧とする。頭の中が空っぽになっていく感覚が襲ってきた。
「俺もだよ」
「ずっとね。――もう、戻りたくないよ。――シド。離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」シドはそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。セーターの袖はすぐに涙で滲みた。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさを誘った。
「おい、日奈子。寝るなよ」シドがそう言ったのが聞こえた。私の意識は穏やかに闇に向かっていくのがわかった。
「おいって。――起きろよ。日奈子。寝るな。――マジかよ」シドはそう言って、何度も私を揺さぶっている。だけど、全然、体勢を起き上がることも出来なかったし、どんどんシドの声が遠くなっていくのを感じた。
「日奈子。――ありがとう。――ずっと、大好きだよ」シドの声が泣き声になっていた。シドの声はそれ以降、聞こえなくなった。
82
「戻ってきたね」私は右側を向くと占いのおばさんが立っていた。サリーはオレンジだった。私は大きく息をはいた。息をはききると、虚無感がぐっと襲ってきた。何もない、何もかも終わったんだと思った。
「何もかも終わったんだ」
「ええ、終わりよ」
「何もかも――」
「どう? 気分は」
「最悪です」
「そう。辛いこと言うようだけど、これが現実なんだから仕方ないことだよ。人間、抗うことが出来ないことがほとんどなの」
「――私にとって、この世界は何もないことが十分にわかりました。これからの人生もきっと、失望したまま生きることもわかりました。それくらい、心の中が空っぽです。私、もう、生きていく気力ないかもしれません」
「そうは言っても、人間生きなくちゃいけない。どんなにじっとしていてもお腹は減るし、嫌でも食べたり飲んだりしなくちゃいけない。――それが現実を受け入れるってことなのかもしれないね」おばさんの声以外、何も音がなかった。この部屋も空っぽだ。私かおばさんが話すたびに声が不自然に響いた。この部屋はまだ夢のつづきみたいな、そんな現実感のなさだった。
「――だけど、私、わかったことがあるんです。実はこの椅子を使えば、人間、運命に抗うこともできるって。だから、2回目のタイムスリップしようと思ったんです。それで実際にタイムスリップして、抗うことができました。簡単です。そんなの。私は彼がいない世界では生きていけないし、彼がいない世界を望みません。彼がいる世界でしか私は幸せになれない。なら、その世界に留まればいい。そういうことです」私がそう言ったあと、しばらく沈黙が訪れた。おばさんは私のさっきの話を本当に聞いていたのか不安になるくらい、不自然に時間が流れていった。
「あなたにいいこと教えてあげる。――この椅子はね、実はタイムスリップする装置ってわけではないんだよ」おばさんは冷たく冷静な声でそう言った。
「どういうことですか?」
「私はこの椅子に座るときに行きたい過去のことをイメージしてって言ったでしょ。そのときあなたはどうなっているかと言うと、過去の世界に意識が行くの。これがタイムスリップよね。だけどね、本当はこの椅子って、自分が作り上げた世界に行くことが出来る椅子なの」
「どういうことですか?」
「つまり、さっき、あなたが言った通りよ。答えはあなた自身で出したじゃないの。――自分の人生、こうしたいと思った世界を新たに作ってくれるってこと。だから、死んだ人が死ななかった世界の中で、自分が生きたいと思ったら、その世界に行って、人生を作り直すことができるの」
「え、だけど、2回寝たら、元の世界に戻っちゃいますよね?」
「あれもね、私がそう言っているだけで、本当はそうならないの。みんな、私の話を聞いて、2回寝たらタイムスリップが終わるんだと信じるから、椅子はその通りにしてくれるってだけのことなの。だから、私の話を無視した人はタイムスリップしてもその世界に留まり続けることができるってことよ」
「――そうだったんですね」
「そう。そしてね、あなたもその一人なの。多分、もう二度と私に会うこともないでしょうし、今までみたいな暗い人生は歩むことはないでしょう。おめでとう」
「え、どういうことですか?」
「それは自分で体感してみなさい。おばさんは応援してるからね」おばさんの方を見るとおばさんは優しく微笑んでいた。目尻の皺の本数、深さがより優しい印象を受けた。
83
揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見るとシドが立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。シドが右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねるとシドの人差し指があたった。そのあとシドの笑い声が聞こえた。
窓の外は夜明け前の青さだった。雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。
「おはよう」シドはそう言った。
「おはよう」私は初めてシドに起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。
「なあ」
「なに?」
「ずっと一緒にいれるな」シドはそう言って、微笑んでた。シドの表情を見て、私は生きるってこういうことなんだと思った。