62
 寒い。ものすごく寒く感じる。肌をさすような冷たさだ。私はコートを着ていた。袖を見ると黄色だった。私は、白い道で立ち止まっていた。降ったばかりの凛とした雪の匂いがした。抱えていた白いバッグの中身を確認した。財布と携帯、ポケットティッシュが入っていた。

 携帯を取り出し、時間を確認した。12時過ぎだった。メッセージの通知があった。メッセージはシドからだった。『ヒロシ前、着いたよ』という文面が表示されている。

 私は慌てて地下鉄の駅まで走った。

63
 大通駅に着き、南北線の改札口を抜けた。地下街へつながる改札前の地下通路の暖房があまりきいていなかった。出口から吹き込む風がとても冷たかった。地下で反響する無数の足音と話し声の雑音はいつもどおりだった。
 シドは三越のショーウインドウの前に立っていた。シドは携帯をいじっていた。耳に付けているシルバーのピアスが照明に反射している。シドはベージュのダウンに黒のパンツを履いていた。ショーウインドウによりかかり、右足を左足首に組んでいた。私は立ち止まり、しばらくシドの姿を眺めていた。手が熱くなり、手のひらに少し汗が滲んだのを感じた。
「日奈子」シドは私に近づいてそう言った。私はその場で立ち止まったままでいた。
「――日奈子」シドはもう一度私にそう呼びかけた。シドは真剣そうな眼差しで私を見ていた。
「――ごめん。遅くなって」
「――いいよ。大丈夫だよ」
「うん。ごめん」
「よーし、ランチ行くか」シドはそう言って、左手で私の右手を繋いだ。

64
 イタリアンバルでパスタを食べた。ランチ営業もやっている店で、お酒もほしくなるくらい雰囲気が良いお店だった。ランチを食べたあと、サッポロファクトリーまで歩いた。外は雪がかすかに溶けていた。車道の雪は溶け切り、アスファルトは黒く濡れていた。

 シドに手を引かれて、黙々と歩いた。ファクトリーに着き、映画を見ようと言われた。手をつないだまま映画を観た。前回と同じ映画だ。私は時折、映画を見ているシドの表情を観た。シドは真剣に観ていた。寝る気配もなく、スクリーンをじっと観ていた。
 映画は主人公が雨の中、ヒロインを救い出していた。そして、ビルとビルの間で追手を巻き、びしょ濡れでキスをしていた。

65
「映画、面白かったね」そう言ったあと、私はカフェモカを一口飲んだ。
「ああ、結構よかったね。最後、敵に追われてるところ、超ハラハラした」シドはコーヒーが入ったマグカップを持ち上げながらそう言った。
「ね、あれどうなるかと思ったよね」
「最後、雨の中でキスするシーン。あれよかったね」
「うん、結構ロマンティックだったよね」
「うん、いい映画だった」シドはコーヒーを一口飲んだ。
 カフェの窓から見える外はすっかり暗くなっていた。5時を過ぎたカフェは客はまばらだった。淡い電球に照らされたと木でできたテーブルや椅子の色がとてもファンタジックでシックな空間を作っていた。サッポロビールの工場を再利用したレンガ館やサッポロビールの煙突を登るサンタクロースのオブジェがオレンジ色の照明と青と白の電飾で彩られていた。

「ねえ」私はそう言った。
「なに?」
「私って、寂しがり屋かも」
「え、どうして?」
「だって、一人じゃ何もできないから――」
「――いいんだよ。それを含めて日奈子なんだから、それでいいんだよ」
「優しいね。シドは。だけど、本当は一人で強くなって何でも上手く乗り越えなくちゃいけないんだよ」
「普通ならね。だけど、今は普通じゃないから、俺にとっては何でも貴重に思える」
「普通じゃない?」
「うん。なあ、日奈子。今が一番楽しいよ。久しぶりにこんな気持ちになった。――こんなの久しぶりだよ。ホントに」
「――私も今が楽しいよ。こう見えても」
「わかってる。だから、日奈子が寂しがり屋だろうがどうだっていいんだよ。今、ここに日奈子が居てくれるだけでいい。日奈子がいない世界なんて、退屈で真っ暗だから」
「ねえ、シド。こうやって、ずっとシドとクリスマス気分を味わうにはどうすればいいんだろうね」
「タイムスリップしちゃえば、叶うよ」
「タイムスリップ?」私は少し動揺した。タイムスリップという言葉がシドから発せられたことが信じられなかった。
「あぁ、何回もタイムスリップすれば、何回も今日と同じような気分に浸ることができるじゃん。タイムマシーン使って何回も同じ日をやるんだよ。そしたら、日奈子が遅刻することもわかるから俺も遅刻に合わせて待ち合わせ場所に行けばいいし」シドはそう言って笑った。
「ちょっと。そこで遅刻の話持ってこないでよ」そう言ったあと、私も笑った。
「あとは世界中の時計の針を止める。そして、日奈子と二人で止まった世界を散歩するんだよ。クリスマスツリーもイルミネーションも止まったままで、クリスマスの音楽もなし。クリスマスツリーの前で固まったままでいる人達の変な表情見て笑うんだよ」
「え、それはやだなぁ。趣味悪いよ」
「あ、この人、鼻の下伸びてる! とか言いながら一人一人見て笑うんだよ」シドはそう言って、自分の鼻の下を伸ばした表情して、右手の人差し指で自分の顔を差した。
「バカでしょ」私はそう言って、笑った。
「だけど、タイムスリップならそんな心配もいらない。何回も日奈子と楽しい日々を過ごすことができる。――本当はタイムスリップなんかしなくても一緒に過ごせればいいんだけどね」
「えっ――」
「だから、タイムスリップが一番現実的」シドはそう言って、にっこりとした表情をした。
「――そうだね。非現実だけど、現実的。だけど、ファンタジーだね」私はそう言ったあと、自分でも何を言っているんだかよくわからなかった。
「クリスマス近いからね。――クリスマス、バイト入っちゃってごめんな」
「ううん。今日でも十分だよ」
「来年はクリスマス・イブにクリスマス気分を味わえたら最高だな。二人で」
「――うん、そうだね」私はそう言ったあと、また不意に涙が溢れそうになった。

66
 シドと一緒に手すりにもたれて、アトリウムが一望できる2階の踊り場から大きなクリスマスツリーを眺めていた。クリスマスツリーは地下から3階くらいまでを貫いている。クリスマス色の電飾が木をぐるぐると覆っていて、それらの光の反射で赤やゴールドの大きなオーナメントがファンタジックに反射していた。ドーム状になっている天井ガラスの中央から、青白い電飾の帯が左右に広がって吊るされている。青い光の中を時折、白い光が流れていた。だから、アトリウムの中は青白く、ツリーのカラフルな電飾が混ざり合い、淡い空間になっていた。

「ねえ、写真撮ろうよ」私はそう言って、携帯をバッグから取り出した。
「いいね」シドは笑顔でそう言った。私は携帯のカメラを起動した。右手でシドの腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、シドの身体に首をもたれて、シドと私とクリスマスツリーが入るように自撮りした。

 自撮りし終わったあと、手すりの後ろにあるベンチに座った。シドはベンチに座っている間も私の左手をつないでいた。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子。好きだよ。ずっと」
「私もだよ。シド」
「私もってことは?」シドはそう言って、ニヤニヤとした表情をしていた。
「――好きだよ」
「待ってた。その言葉」シドは私にキスをした。唇が重なったまま数秒間の時が流れた。シドの唇は柔らかくて、温かった。シドはそっと唇を離した。そして、何秒間かシドの目を見たまま、また時が流れた。シドの瞳は茶色くて、吸い込まれそうなくらい透明だった。そのあとシドは微笑んだ。

「なあ」シドはそう言った。
「なに」
「俺たち、ずっとこのまま居ような」
「――そうだね」
「永遠に日奈子のこと思ってるよ」
「――私もだよ」
「あぁ」シドはそう言ったあと、左手で私の右手を握った。私はシドの右手でしっかりと握り直した。

「なあ。もし、俺が死んだらどうする?」
「――シドが死ぬの?」私はそう言った。シドにそう言われて動揺した。シドが死んだ光景が瞬時に思い浮かんだ。雪の上に血まみれのシド。赤くなって捨てた黄色いコート。病院のベッドで顔にしのい布をかけられて安置されていたシド。棺桶に入った安らかな表情のシド。すべて嫌な光景だ。シドが死んだあと、すべての光景が最悪で色褪せない記憶がものすごく嫌だ。それらが瞬間的に思い浮かんだ。
「あぁ。俺が明日死ぬとするじゃん」
「止めて」私は思わずシドの話を遮った。
「え、どうして」
「そんな話しないで。寂しいに決まってるじゃん。――シドが死んだら。私、寂しすぎて生きていけないから止めて。――そんなわかり切ってること、聞かないでよ。悲しくて、辛いんだから!」私は強くそう言った。少しだけ、辺りに私の声が響いた。眼の前を通りがかった何人かの人が私とシドの方に視線を一瞬向けたのがわかった。私は左手でスカートの裾をぐっと握った。スカートは簡単に皺になり、手の中に布の一部が収まった。

「日奈子、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。――ごめん」シドは落ち着いた声でそう言った。
「シド、二度と死なないで。二度とね。――人間いつかは死ぬけど、二人で幸せを十分に噛み締めてから死んで。お願いだから。決して私を守ろうとしないで。私は私で自分の身を守るから。シドは自分の身を守って」
「日奈子、そうは行かないんだよ。俺は日奈子を守らなくちゃいけない。――俺は日奈子に死なれちゃ困るんだよ。今、ここで日奈子に死なれたら、俺はこの先ずっと日奈子と過ごしたいと思ってた時間を一人で過ごすことになるんだよ。――だから、日奈子に危険なことがあったら俺は日奈子のこと守らなくちゃいけない」
「それは私だってそうだよ――」
「日奈子が死ぬことがわかってるんだったら、俺は日奈子が死ぬのを阻止する」
「――阻止しないでよ」
「いや、阻止する。死んでもらっちゃ困るからね」
「私もだよ。――シドにはまだ、死んでほしくない」
「俺も死ぬ気はないよ。だから、日奈子も死なないで」シドはそう言った。シドを見るとシドは真顔だった。

「ほら」シドはそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私はゆっくりと右手の小指をシドの小指に結んだ。
「俺さ、なんでもっと早く日奈子のこと深く知ろうとしなかったんだろうって思う時があるんだ」
「私もだよ」
「俺の人生、いつもそうなんだよ。気がついた時に大切なことを失って、そのとき初めて気がつくんだ。なんでもっと真剣に深く向き合おうと思わなかったんだろうって。――だから、死ぬわけにはいかないんだよ。俺も日奈子も。日奈子とこうやって何気なく過ごせる時間をたくさん作りたいんだよ」シドはそう言った。私はそれを聞いて、また泣きそうになった。
「――私もだよ。私ね、シドとねこうやって何気ない時間を過ごしたいの。ずっと。だけど、それができなくなって、モヤモヤしてっていう人生は歩みたくないの」
「そんな人生歩まないようにしよう」
「うん」私はそう言った。私は涙がこらえきれなかった。右目から、一滴、涙が頬を伝う感触がした。

67
「家まで送るよ」シドがそう言った時、乗り込んだ地下鉄はちょうど発車した。ドアのすぐ横の角の席に私は座っていて、シドは私の左隣にいる。車内は空席が目立った。だから、シドの隣に客は座ってなかった。車内が空いているから、みんな大体、一人分のスペースを空けて座っていた。
「吹雪いてるからいいよ。それより、明日、一緒に学校に行こう」私はそう言った。
「いや、送るよ」
「だって、明日も早いでしょ。明日さ、駅で合流しようよ」
「いや、送っていくから」
「――わかった」私がそう言ったあと、二人とも無言になった。沈黙の間に列車は2つの駅に停車し、発車した。トンネルの壁で光っている白い蛍光灯が窓の外で星のように流れている。

「ねえ。変なこと言ってもいい?」私はそう言って、沈黙を破った。
「なに?」
「――明日、シドが死ぬと思うんだ」
「俺が?」
「そう。明日死ななかったとしても、明後日かもしれない」
「つまり、明日か明後日、俺が死ぬってことか」シドがそう言った。私はシドの表情をちらっと横目で見た。シドの表情は真剣そうな表情をしていた。
「そう。両方とも交通事故。だから、シドには交通事故に遭ってほしくないの」
「――そっか。そしたら、俺も変なこと言ってもいい?」
「なに?」
「明日、日奈子が死ぬと思うんだ」
「――私が?」
「あぁ。明日死ななかったとしても、明後日死ぬかもしれない」
「――そうなんだ」
「うん。つまり、これってさどっちかが死ぬってことかな」
「わからない。私、わからなくなってきた」
「俺も。今日、オールしよ。学校なんてほっぽり出して」
「ダメだよ。流石に親に怒られる」
「――そっか。したら、明日学校行くふりして、学校サボろう」
「いいよ」
「いつものところで待ち合わせでいい?」
「嫌だ。それはダメ」
「うーん、そしたらどうしようかな。――俺が日奈子の家に迎えに行くよ。玄関の前で待ってて」
「わかった。いいよ」私がそう言ったあと、またしばらくの沈黙が流れた。

「ねえ」
「なに?」シドはそう言った。
「――本当に死なないで。死んでほしくないの」
「大丈夫。死なないよ。日奈子も俺も」
「ねえ、約束して」私は真剣にシドを見つめた。
「いいよ」シドは私を見つめてそう言った。私はシドの瞳に吸い込まれそうになった。膝においていた私の左手の小指にシドは右手の小指を絡めた。小指と小指を結んだまま、地下鉄の窓から流れる白い蛍光灯と窓に写っているシドと私の姿を眺めていた。

68
 携帯に充電器を付けた。電気を消し、ベッドに寝転んだ。大きく息を吐くと一緒に涙がたくさん溢れた。今度こそ、シドを死なせない。私はそう決意した。シドが生きている世界にすれば、私達はきっと幸せな人生を過ごしていけるはずだ。
 シドは私が死ぬと言った。明日か明後日。もし、私が死んだらシドは死なないで済むのだろうか。それだったら、私が死んで、シドが生きれば、それで十分だ。きっとシドは私が居なくてもやっていけるはずだ。元々、私と違って根が明るいし、気合であらゆる困難を乗り越えていけるような精神力もあるはずだ。私の死くらい乗り越えて行けるはずだ。
 明日、シドは死なないだろう。だって、私を迎えに来てくれるんだから。明日の夜まではきっと安心して過ごすことができるだろう。そして、退屈な学校に行かないで、明日もシドと二人で過ごすことができる。それだけでもすごく嬉しいし、絶対、楽しい一日になる。そんな当たり前のことが毎日続けばいいのに――。
 強い眠気を感じ、そのまま私は眠った。

69
「おまたせ」私はシドにそう言った。シドは私の家のマンションの玄関の前に立っていた。
「生きてるな。日奈子」シドはそう言って、笑った。シドは制服を着ていなかった。
「あれ、制服じゃないの?」
「学校行く気ないから、最初から私服にしたんだ。日奈子も私服に着替えてくれば?」確かにシドの言う通りだった。両親もすでに仕事に出ていて、家には誰もいなかった。
「わかった。ちょっと待っててね」
「いいよ。デートの続きしよう」シドはそう言ったあと、私はすぐに家に戻った。

 シドと手を繋いで歩き始めた。外はスッキリと晴れていた。水色の空が気持ちよかった。空気は氷点下なのがすぐにわかるくらい凛としていた。雪の下は氷になっていて、その上に積もった雪で何度も滑りそうになった。だから、私とシドはペンギンみたいにペタペタと靴底をあまり上げないでちまちまと歩いていた。
「滑るね」
「ああ、だけど、日奈子の手は離さないよ」
「――うん。離さないで」私はそう言ったあと、シドに握られている右手にぎゅっと力を入れた。

 横断歩道がちょうど赤になった。私とシドは自然と歩みを止め、信号を待っている。道の向かいにいつもシドと待ち合わせているスーパーが見えた。あのスーパーの前でシドは車に轢かれた。私は腕時計を見た。まだ車が突っ込む時間じゃなかった。
「ねえ」
「なに?」
「やっぱり、こっち側の道から駅に行こう」私は左手で右の方を指さした。これでスーパーの向かい側の歩道を歩くことになる。
「え、だけど、こっちのほうが近いじゃん」
「スーパーの前、通るの嫌だ」
「――わかった」シドはそう言ったあと、私の手を引いて、私が指さした方へ歩き始めた。

 横目で信号が青になるのが見えた。あと少しであの信号を渡っていたことになっただろう。一回目は私が滑って転んだ結果、シドを事故から救うことになった。待っていた車も動き始めた。凍ったアスファルトが朝日で照らされ光っていた。横断歩道を待っていた何人かの人たちもゆっくり慎重に渡り始めた。みんなペンギンの散歩のように慎重に、静かに横断歩道を渡っていた。
「ねえ」
「なに?」
「もうすぐ、あのスーパーの前に車、突っ込むよ」
「え、マジで」シドがそう言ったあと、すぐに大きな音がした。そして、車が一台、スーパーの方へ突っ込んでいった。

70
 あたりは静まり返った。この道を歩いていた何人かは立ち止まり、車道の車は停まっていた。反対側の歩道で何人かの人が車の方へ走っていくのが見えた。「ヤバい」とか「うわぁ」とかそういう声が、いたるところから聞こえて、ざわつきになっていた。私とシドはその場に止まったまま、道路越しに反対側の歩道を見ていた。スーパーのショーウィンドウにシルバーの車が突っ込んでいた。ショーウインドウのガラスは粉々になっていた。車道を見ると中央分離帯を超えて、車が飛び出しているのが見えた。握っているシドの手がかすかに震えているのを感じた。

「日奈子、マジだったな」
「うん。マジなやつ。ヤバいね」
「ああ、ヤバいな」
「もしかして、俺らあの事故に巻き込まれてたかもしれないな」
「うん。あのままだったら巻き込まれてたよ」
「マジか――」
「うん、マジ」
「――震え止まらないだけど」シドはそう言った。シドの手はさっきにましてブルブルと震えているのが私の手に伝わった。私は繋がれた右手にまた力をギュッと入れた。ちょっとでも震えが止まればいいなと思ったけど、シドの震えは止まる気配はなかった。
「――大丈夫?」
「だいじょばない」シドは私の手を繋いだまま、そう言った。

71
 私とシドは地下鉄の駅に着き、いつも通り、定期をタッチして、改札を通り、大通まで行くことにした。地下鉄のホームにはいつものようにスーツ姿の人や、制服を着た高校生、オフィスカジュアルな姿の人で溢れていた。私も数ヶ月前までは同じように私服を着て、憂鬱に出勤していた。

 大通のパルコのスタバに入った。シドはコーヒーを頼み、私はフラペチーノを頼んだ。地下の客席は、数人の客しかいなかった。いつも混雑しているときにしかこのお店を使ったことがなかったから、ガラガラの店内は少し不思議な感じがした。だから、いつもなかなか座ることができないひとりがけのソファ席に座った。ソファはゆったりとした作りで、座るとクッションが深く沈み込んだ。

「やばかったな」シドはコーヒーを一口飲んだあとそう言った。
「やばかった」
「たぶん、あのまま、横断歩道渡って、スーパーの前にいたら、あの車、俺たちにストライクだったよな」
「そうだね。いつもの待ち合わせ場所、粉々になってたもん」
「あの車の運転手大丈夫だったかな」
「わからない。――だけど、無事でよかった」
「そうだね」シドはそう言ったあと、もう一口コーヒーを飲んだ。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子さ、タイムスリップしてるだろ」シドはそう言った。笑っておらず、冷静そうな表情をしていた。私も冷静にその言葉をすっと胸に受け止めたつもりだ。別に同様も感じなかった。ただ、どちらが先にそのことを言い出すかの違いに思えた。
「うん。そうだよ」私は素直にすっとそう言った。
「やっぱり。――本当は何歳なの?」
「――27歳」
「へえ、そうなんだ」シドはそう言った。シドもさして驚いてなさそうな声でそう言った。
「そんなに驚かないんだね」
「あぁ、だって、今日の日奈子大人っぽいもん」シドはそう言って、柔和な表情をした。私は少し照れくさくなって慌てて、フラペチーノを一口飲んだ。
「私ね、今日か明日、シドが死ぬって言ったでしょ」
「うん」
「それね、本当なんだよ。私はシドが死ぬところを2回見てるの。シドの通夜も2回行ったの。――もう、嫌なんだ。そんな経験。もう二度と、そんな経験したくないの」
「――そうだな」
「うん。今日シドはあの車に轢かれて死ぬはずだったんだよ。私と学校に行くのにいつも通り、あの場所で私を待ってて、そして、死んだの。――私がもう少し早く行ってたら、こんなことにならなかったのにって、もう何万回も思ったよ。最初はそのうちシドがいなくなったこと受け入れられるだろうと思ってたんだ。だけど、10年経っても無理だった。シドが死んだこと受け入れるのなんて」
「――日奈子、大変だったんだな」
「うん。もうね、限界だったの。仕事も上手くいかないし。生きてて楽しくないし。シドがいないと私、前に進むことが出来なかったんだよ。シドがいないと何もできないよ」
「一人、残しちゃったんだね。日奈子のこと」
「そうだよ。勘弁してよ。なんでそんなに早く死んじゃったの? 私、シドと何気ない日常を過ごしたかっただけなの。20代はそうやって過ごして、結婚してさ、上手く行けば、シドと一緒に子育てしてっていう人生送りたかったの私は。――他の人なんて好きになれなかったよ」私はそう言ったあと、ため息をついた。今まで言いたかったことをそのままシドに言ってしまった。
「日奈子、悪かった。――ごめんな。こんな思いさせて」
「ううん。いいの。今、こうしてシドと会えてるんだから、それでいいの。私は、今そこにいるシドと一緒に長い人生作ることが出来るんじゃないかと思って、タイムスリップしたの。――私ね、タイムスリップ2回目なんだ。1回目は27歳から17歳にタイムスリップしたんだ。2回寝たら元の27歳に戻るって条件で。だけど、戻らなかったの。27歳に。しかも、シドは同じように死んでしまったから、結局、タイムスリップした意味がなくなったの。だってシドがいないんだもん。だから、そのまま数ヶ月過ごして、バイトしてお小遣い貯めて、タイムスリップさせてくれる占いのおばさんに5万円払って、今、ここにいるの」
「――そうなんだ。留まることができたんだ。一回目のタイムスリップで」
「うん。そのときね、思ったの。私がタイムスリップしてその世界に留まることが出来たなら、もう一回タイムスリップしてシドを死なせないことができるんじゃないかって。そして、シドが死んでない世界にそのまま私もとどまれば、ずっとシドと一緒にいることができるでしょ。――そう思ってタイムスリップしたの」私はそう言ったあと、フラペチーノを手に取り、もう一口飲んだ。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺も――」
「タイムスリップしてるんでしょ?」私はそう言ったあと、微笑む表情を作った。
「――そうだよ。先に言わないでくれよ。俺もタイムスリップしてるんだよ」シドは笑ってそう言った。
「本当は何歳なの?」
「27歳」
「うそ、同い年じゃん」
「あぁ。びっくりしたよ。同い年で。偶然なのか、必然なのかわからないけど、俺も27歳なんだよ。本当は」
「俺は日奈子と逆だったんだよ」
「逆?」
「うん。明日、日奈子が死ぬことを俺は知ってる。だから、タイムスリップしてきた」
「私も死んでるんだ」
「うん、日奈子も死ぬ。そして、俺も死ぬ。――今、思ったんだけどさ、どちらか片方が生きてる世界線がそれぞれあったってことだろ? それで、なぜかわからないけど、こうしてタイムスリップした生き残った片方が、それぞれこうやって出会って話してる。これって、奇跡じゃね?」
「え、ごめん、よくわからないんだけど……」私がそう言うと、シドは携帯を取り出し、何かを打ち込み始めた。そして、携帯を私に見せた。携帯の画面にはこう表示されていた。

1、日奈子17歳 dead 志登 27歳
2、日奈子27歳 志登17歳 dead
3、日奈子27歳 志登27歳 →新しい世界(win)

「えーっと。この1~3が世界線ね。それぞれの世界。1は俺から見た世界線で、2は日奈子から見た世界線。1と2ではお互いに共存することができない。つまり、どちらかが死んでるってこと。1だったら日奈子が死んでるし、2だったら俺が死んでる。だけど、俺と日奈子がそれぞれタイムスリップした結果、3の世界線が誕生した。つまり、今日、明日、どちらかが死ななければ。――俺たちは一緒に生きることができるってことかも」
「そっか。身体はお互い17歳のままだけど、意識は27歳同士だから、これでもし、このまま死ななければいいんだ」
「そう。そういうこと」シドはそう言ったあと、携帯をジーンズのポケットにしまった。そして、マグカップに手を取り、コーヒーを飲んだ。

「ねえ」
「なに?」
「――私は明日、何時に死ぬの?」
「朝の8時過ぎ、駅の近くのファミレス前の交差点で死ぬよ。――車に轢かれて」
「あ、私が轢かれるんだ――」
「――え、なにか心当たりあるの?」
「うん。私、2回タイムスリップしたって言ったでしょ。1回目のとき、そこでシドが死んだの」
「え、俺が死んだの?」
「うん。私をかばって。――身代わりになって、私を守ってくれて、それでシドが死んじゃったの」
「――マジか」
「うん。だから、そのときもものすごく辛かったよ」
「――そうだったんだ」シドはそう言ったあと、ため息をついた。

「あー、なんかさ、どっか行くか。せっかくこうして二人で居るんだからさ」
「いいね」
「――よし、小樽行くか」シドはそう言ったあと、ニコッとした表情をした。そして、ソファから立ち上がった。

72
 札幌駅から快速電車に乗り込んだ。10時近くになり、通勤ラッシュが一通り終わった車内は空席が目立っていた。二人がけのシートに座った。シドは「先に座って」と言って、私を窓側に座らせた。確かにシドも27歳になったんだなと、ふと思った。電車は乗り込んでからすぐに発車した。そして、自動放送で小樽行きであることが告げられた。車内は温かく、湿度で少し窓が曇り始めていた。
 
 私は小樽に行くと聞いて、行き先はなんとなくわかってしまった。それはきっとシドも同じことを思っているのだろう。そして、それをすぐに思い出して、行動に移すところがすごく様になっていて、新鮮味を感じた。こういうことがしたかった。だけど、出来なかった。それが今、叶っていて、不思議な気持ちになった。

「なあ、日奈子」シドはそう言ったあと、右手で私の左手を繋いだ。それはさりげなく、とても自然に無駄のない動きだった。シドの手は少し冷えていた。
「なに?」私はそう答えた。
「俺も会いたいって思ってた」
「私も」
「じゃあ、両思いだな」シドはそう言った。
「最高だね」
「あぁ。好きだよ」
「私も」
「ありがとう。――こういうやり取りがしたかったんだよな。ずっと」
「私もだよ。こういうやり取り、ずっとやりたかった」私はそう言ったあと、窓から景色を見た。雪で白くなっている住宅街が左から右へどんどん流れていった。もしかしたら、もう、シドと離れ離れにならないかもと、ふと私は思った。このまま、シドは死なないで、私と一緒に同じ年齢。――お互い27歳の状態で17歳から、人生を歩むことができるかもと思った。もちろん、私も死ななければの話だ。

「ねえ」私はシドに話しかけた。
「なに?」
「私が死んだあと、他の人と付き合ったことある?」
「――大学のときに1人だけ付き合ったことあるよ。――ごめん」私は少しショックに感じた。だけど、シドからしてみたら、私はすでに死んでいる存在だったんだから、嫉妬しても仕方ないと思った。この感情が嫉妬になるのかどうか、いまいちわからなかった。
「ううん。謝ることじゃないよ。だって、それは前を向くために必要なことだし、自然なことだよ。だって、私、死んでるんだもん」
「他の人と付き合ったときさ、日奈子のことは絶対忘れないって決意したんだ。その上で、過去の辛いことから立ち直って、新しい道を進もうと思ってたんだ」
「うん」
「だけど、無理だったな。なんでかわからないけど、合わないんだよ。日奈子みたいに。相手の合わないところを見つけるたびに、あー日奈子だったら、こうだっただろうなっていう考えがすぐに出てきたんだ。それで、ダメだ。そんなこと考えちゃ、相手に悪いと思っただけど、自然とそういうのが湧き上がってくるから、自制が効かないんだよね。それで、結局、そうこう自分の頭でやっているうちに相手に愛想つかされちゃった。チャンチャン」シドはそう言って笑った。
「――そうだったんだ」
「そういうこと。だから、日奈子がいないと俺はダメなんだよ」
「――ごめんね。辛い思いさせて」
「ううん。もう昔の話だよ。こんなの。――日奈子は俺が死んでからいい人と出会えた?」
「ううん。無理だった。私は出会わなかったよ。シドのことしか10年間考えられなかった」
「そっか。――ありがとう。そんなに想っててくれたんだね」
「うん。私にはシドしかいないよ」
「俺もだよ。日奈子」シドはそう言って、私の方を向き、目があった。シドは微笑んでいた。