44
シドは当たり前のように死んだ。一緒に救急車に乗って、シドと病院に行った。救急車の中で私はシドの顔を見ながら、10年前のことを思い出していた。10年前も同じようにシドと一緒に救急車に乗って、病院へ行った。あのときもあっけなくシドの命は終わった。たぶん、今回もそうなるだろうというくらい出血がひどかった。
病院でシドの家族が来るまで、ベッドに安置されているシドと二人きりになった。シドの顔にかけられた白い布をめくり、私はシドにキスをした。シドの唇はまだ微温くて、まだ動けるんじゃないかと思った。私は唇をそっと離したあと、しばらくシドの顔を見ていた。シドの顔は血色は消え、黄色くなり始めていた。私は右手でシドの頬をゆっくり撫でた。親指で鼻先から頬をなぞった。そのあと、顔に白い布をかけ、パイプ椅子に腰掛けた。
45
シドの家族が来たあと私は挨拶をし、事情を説明し、すぐに病室を出た。携帯をバッグから取り出した。まだ11時すぎだった。まだ、午前中の出来事だ。ため息をつくと、一緒に涙が流れた。灰色したビニールの廊下は涙で霞んでいる。奥の窓ガラスから差し込む白い光がやけに眩しく見えた。ゆっくりと廊下を歩き、会計ロビーに着いた。緑色のビニールが張られているベンチに腰掛けた。
座ったまま、前かがみになり、両手で顔を覆った。手はすぐに涙でぐしゃぐしゃに濡れた。息をするとき、声がでないように押し殺した。息をするたびに両肩が上がった。
結局、同じことの繰り返しだ。そもそも、シドを救えたとしても未来なんて変わらないんだと思った。
46
ベッドに寝転がった。自分の部屋に戻ってきても何も変わることはなかった。シドはしっかりと死んだ。それも今回も私の目の前でしっかりと死んだ。私はこの現実を見せられるためにタイムスリップをしたのかもしれない。そして、今、この瞬間に眠りについたら、あとは現実に戻るだけだろう。今朝、ファミレスで少し寝たのに27歳の私に戻ることが出来なかったのはおそらく、シドが死んでいなかったからだ。シドが死んで私のタイムスリップのツアーが終わることになっていたのだろう。
性格悪すぎるなって思った。何に性格悪いと言えばいいのかその存在がわからないけど、とにかく性格が悪い。いい思いさせておいて、二度としたくなかった辛い経験をもう一度させられた。私がそもそもシドが死ぬ前日にタイムスリップしたのが悪かったのかもしれない。なんでシドが死ぬ前日なんか選んだんだろう。その選択をした自分が馬鹿馬鹿しく感じた。
目を瞑り、寝ることに集中する。ほぼ、オールした上にしんどいことがあったから身体はものすごく疲れている。疲れていて、もう何もしたくない。だけど、シドの頭部から大量出血している光景や、救急車で酸素マスクをつけられているシドの姿、病院に着いて処置室へ運ばれる姿、そして、死んだ姿。すべての映像が何度も再生され、そのたびに私は絶望した気持ちになり、胸が痛む感覚がした。
47
眠ることができなかった。私は当たり前のように学校を休んだ。親にシドが死んだことを簡素に伝えたら、ほっておいてくれた。身体は重くて、食欲は当然のようになかった。歯磨きをして、顔を洗い、水を飲んだあと、また自分の部屋に戻り、携帯を手に取ったあとベッドに寝転んだ。携帯を操作して、一昨日、二人で自撮りした写真を表示した。写真のなかのシドと私は笑顔で、二人の奥にカラフルなクリスマスツリーが写っていた。結局、同じだと思った。27歳の私がずっとシドの写真を見て、シドのことをぼんやりと考えているのは一緒だ。
私は我慢できなくなり、両足を何度も何度もジタバタして、やり場のない感情をベッドにぶつけた。
48
眠気は一向にやってこなかった。昨日みたいにシドが居ないと生きていけないと思った。シドが居るということだけで私は簡単に眠ることができた。眠れないのは不眠症の所為だと思っていたけど、実はそうではなかったことに気がついた。私の人生にはシドがいないと、もうどうすることもできないんだ。一日目デートが終わった日、ぐっすり眠ることができたのも、ファミレスで眠気が来て仮眠したのもすべてシドが居るという安心感で眠気がやってきたんだ。きっと。だから、シドを失った私はまともに眠ることすら困難になっているんだ。
現に今もこんなに疲れているのに眠ることができない。私の人生はシドがいないともう、無理なんだよ。
「なんで死んじゃうの? シド」私はぽつりとそう言った。そう言ったあと、大きなため息をついた。
49
一睡もしないまま、シドの通夜に参列した。シドの両親に挨拶をすると、病院のときの礼を言われた。私は通夜に呼んでくれたことに礼を言った。通夜が終わったあと、シドの顔を見せてもらった。棺の中で寝ているシドは病院のときと同じように穏やかな顔をしていた。シドを抱きしめたい衝動と、胸にこみ上げてくる熱さを感じた。私は息を止め、その感覚が落ち着くのを待った。すっとその感覚が緩まったのを感じたとき、息を吐いた。そして、私は「さよなら」とぼそっと言った。
50
結局、眠れずに2日が経った。流石につらすぎるから、親にそのことを伝えて、近所の内科に行った。内科で眠れない症状を伝えると1週間分の睡眠薬が処方された。私はすでに頭が回っておらず、医者の話や、受付のお姉さんの話は頭に入ってこなかった。身体はふわふわしていて、雲の上を歩くように気持ちが悪かった。
家に帰り、すぐに睡眠薬を飲み、ベッドに寝転んだ。そして、目を瞑った。何も考えることができず、私は自然と無を感じていた。もはやシドのことを考えるということすらできなくなっていた。だけど、なかなか眠りに入らない。目を瞑ったまま、待っていたら、いつの間にか眠っていた。
51
目を覚ました。身体は右手を下にして、横向きになっていた。景色は実家の私の部屋だった。私は起き上がり、机に置いていた携帯を手に取った。携帯も昨日のままだった。携帯で時間を見ると朝の5時半すぎだった。ものすごく長い時間寝ていたことになる。昨日のお昼すぎに寝たから、20時間近く眠っていたことになる。少しだけ頭が痛かった。
私はようやっと気づいた。なんでタイムスリップが終わっていないのか、よくわからなかった。占いのおばさんは2回寝たらタイムスリップが終わるって言ってた。だけど、私はすでに3回目の睡眠を終えてしまった。私はため息をついた。シドが死んだ世界で生き続けても意味がない。しかも、今更高校生をやっても意味がない。もし、これで27歳に戻れなかったら、また大学受験をしなくちゃいけないし、就職活動をしなくちゃいけない。
そして、消えることがない空虚を感じて、死ぬために生きなくちゃいけなくなる。それだけで、ものすごく嫌になった。27年間それなりに私も頑張っていたんだなと思った。
今日も学校を休んだ。昼過ぎに桜子から、メッセージが来た。何日も学校に行っていないから、気にかけてくれたのだろう。メッセージには私を気遣う言葉と、もしよかったらカフェで話そうと書いてあった。だから私はその誘いに乗ることにした。
52
パルコのスタバで桜子と会った。高校生の桜子と久々に再会した。桜子は幼く見えたけど、今とそれほど変わらない印象を受けた。スターバックスの店内はいつものように落ち着いていて、コーヒーの甘い香りが店内に漂っている。私と桜子は店員からフラペチーノを受け取ったあと、窓側の席に座った。駅前通りは多くの人たちが今日も行き交っていた。
「日奈子、大丈夫?」桜子はそう言った。私はコアとなる部分は一緒だから、大した変わらないと思った。それは思い出の中の桜子と一緒だ。
「うん、ありがとう」私はそれだけ返事した。
「すごく顔色悪いね」
「うん、2日くらい寝れなくて、昨日病院行って、薬で寝たら20時間も寝ちゃったんだよね。それでかもしれない」
「うわ。大変だったね」
「そうだね」
「ねえ、日奈子。私ね、人を励ますとかそういうことって、下手くそだと思うんだ。だから、直接的な言い方になったらごめんね。――辛いよね。人が死ぬって」
「うん。すごく辛いことだよ」
「そうだよね。今はものすごく日奈子が傷んでるんだと思うんだ。日奈子の心が」
「うん」
「だからね、私、そっとしておくことも大切だと思ったの。だけどさ、何日か我慢したけど、もう無理だった。だから、日奈子のこと誘っちゃったの。ごめんね」
「ううん。久々に外に出て、気が紛れたよ。シドのお葬式以外、外に出なかったから」私はそう言ったあと、シドの肉体はすでに灰になっているのかと、ふと思った。それは絵空事のようにしか思えなかった。
「そうなんだ」桜子はそう言ったあと、フラペチーノを一口飲んだ。
「うん。――あーあ。上手く付き合えてると思ったのにな」
「そうだよね。日奈子の惚気話聞いてて、私もそう思ったよ」
「だけど、相手が死んじゃったら、恋愛が上手くいくとか、そういうのも全部なくなっちゃうんだね。――当たり前の話だけど」
「そうだよね。振られるとかじゃないもんね。だって、死んじゃうんだよ。あり得ないよ」
「――シドさ、私のことかばって――かばって死ん――じゃった」喉が急に詰まる感覚で声をだすことが出来なくなった。そして、大量の涙が一気に溢れ、頬に伝う感触がした。私はカウンターテーブルに突っ伏した。トレーナーの裾は簡単に濡れていった。背中に擦られる感触がした。桜子が背中を擦ってくれているのだろう。桜子側からジッパーを開ける音がして、がさこさと何かを探している音がした。
「ティッシュ。使って」桜子がそう言ったから、私は突っ伏したまま頷いた。涙を止めようと食いしばったけど、一向に止まる気配はなかった。私は食いしばるのをやめて、静かに涙が収まるのを待つことにした。桜子はずっと私の背中を擦ってくれている。桜子の手の温かさがトレーナー、Tシャツ、キャミソール越しでもしっかりと背中に伝わっていた。
涙が少し落ち着いた。私は顔を上げ、桜子のポケットティッシュを一枚取り、鼻を噛んだ。そのあと、もう一枚ティッシュを取り、頬と目元を拭いた。せっかくしたメイクも一緒に取れているのがティッシュの色を見てわかった。もういいやと思った。どうせ、化粧直しもしないで、どこかでマスクを買って、マスクをつけて帰ろうと思った。
「落ち着いた?」桜子はそっとした声でそう言った。
「うん。ごめん。――ありがとう」私はまだ顔全体が火照っているように感じた。じんわりと熱を持っていて、頭がぼーっとしていた。短いため息をつくと、少しだけ気合が戻った気がした。
「本当は、あの日、私が死ぬはずだったんだよ。だけど、シドは私のこと、かばって私のこと救ってくれたの」
「――そうなんだ。ごめん、どういう事故だったの?」
「横断歩道で信号待ってたら、私の方に車が突っ込んできたの。それで、シドが私を突き飛ばしたんだ。――そしたら、シドが車に引かれてたの」
「そうだったんだ――」桜子がそう言ったあと、またしばらくの間、沈黙が続いた。
「バカな話だよね。ホントに。なんで私のこと、かばったんだろう。自分が死ぬことないのに」
「シド、すごいね。――咄嗟の判断で、日奈子のこと守ってくれたんだね」
「ううん。バカげてるよ。そんなの。あの事故で、どちらかが生き残って、どちらかが死んでしまうのは決まってたのかもしれない。だから、私とシドはあの日を境に一緒に生きることなんて無理なのかもしれないと思ったんだ。私」
「すごく、バカげてるね」
「でしょ。桜子ならわかってくれると思った」
「日奈子。辛いね」
「うん、すごく辛い」私はそう言ったあと、すっかり氷が溶けてしまったフラペチーノを一口飲んだ。
「ねえ、桜子。私さ、もう生きていけないと思うんだよね」
「やめてよ。そんなこと言わないで。辛いだろうけど」
「ごめん。そういう意味じゃないんだ。私、シドがいないと眠れないことに気が付いたの」
「眠れない?」
「うん。私ね、元々不眠症気味だったんだけど、シドと付き合い始めてから、寝れるようになったんだよね」私は自分が軽く話を脚色していることに少し罪悪感を覚えた。本当はシドが死んでから不眠症になった。
「そうだったんだ。――日奈子、不眠症だったんだね」
「うん。実はね。だけど、シドがいるだけで寝れたんだよね。3日前にシドが死んで、私、不眠症、ぶり返しちゃったみたい」
「そうなんだ。なんか、安心できるところがあったのかな。日奈子の中で」
「うん、そうかも。私、シドがいないと無理かも」
「――そっか」桜子はそう言ったあと、ため息をついていた。
「私、どうしたらいいんだろう」私はそう言ったあと、野暮な質問をしたと思った。相手はまだ17歳の桜子だ。こんな質問するのは親友でも酷な気がした。案の定、桜子は沈黙し、私を見つめていた。そうして目があったまま、会話は止まった。そして桜子は私の左手を両手で握った。桜子の手は柔らかくて一瞬ドキッとした。
「日奈子。――今は立ち直らなくていいよ。とにかく今は悲しもう。シドのこと。――頑張らないで。立ち直ろうとすること。思いっきり悲しんでから、次のこと考えたらいいよ。そしたら、きっと上手くいくよ。――私も手伝うから」桜子はそう言った。桜子の頬に何粒の涙が流れた。私はそれを見て、また胸が痛くなった。
「――ありがとう」私はそう言った。そして、私も涙がまた溢れた感覚がした。
53
シドが死んでから2週間が経った。私は17歳のままだった。あれから短い時間で何度も眠ったけど、一向に27歳の私に帰れる気配はなかった。私はすでに半分諦めていた。たぶん、これはもう、二度と27歳に戻ることができない。だったら、戻ることを諦めて、17歳の今の人生をしっかりと行ったほうがいいと思った。
「失うことによって気づくことがある」と占いのおばさんが言っていたことを思い出した。私はシドを失ったことで自分の人生をしっかりと生きることを突きつけられているのだろう。27歳までの私はシドの影を追って、後悔して、苦しい生活をしていた。だけど、それを辞めたらいいってことなのだろう。もう一度、17歳から人生やり直せるチャンスをやるから。ってことなのだろう。
神なのか、時空なのかわからないけど、性格悪すぎると思った。もっと私のこと寄り添ってくれてもいいのにと思った。
だけど、そんな簡単にシドのことなんて忘れることができない。私は右手の平を眺めた。一週間前、確かにシドが私の右手を握った。その感触を思い出した。だけど、だんだんとその感触も消えていくのがわかった。前のときと一緒だ。こうやってシドの声やシドの感触を忘れていく。そして、シドの顔も簡単に思い出すことができなくなるんだ。
54
私が学校を休んでいる間に冬休みが始まってしまった。そして、クリスマス・イブもやってきた。私は引きこもったまま、外に出ず、自分の部屋でテレビを見て過ごした。外の世界はクリスマスで楽しそうだった。私は17歳になる準備をすることにした。机に置かれていた教科書を何冊かに目を通した。ノートも見たけど、今現在やっている勉強の殆どは面倒で面白くなさそうだった。
椅子に座り、ノートをテーブルに広げた。そして、何も書かれていないページに17、18、19と書き始めた。そして、27まで書き、年表を作った。そして、高校卒業と大学入学、卒業、就職を18、22の欄に書いた。今までの私の人生を振り返ろうとしたけど、これ以上は何も出てこなかった。
23からの私は何もなかった。ただ、書店の中で一日中働いて、疲れて、お風呂入って、寝るだけを繰り返しているだけだった。私はふと、仕事はどうなったんだろうと思った。私が無断欠勤したとしても別にあの会社では珍しいことではないから、もしかしたら、普通に回っているのかもしれない。私がいなくったってあの職場は回る。そして、私を求めていない。
次に私が歩みたい人生プランを書こうとした。だけど、全く思いつかなかった。別に何がしたいわけでもない。出会いも求めていないし、明確にやりたい夢もない。結局、私には何も残っていない。
55
桜子から、また、メッセージがあった。《もし、大丈夫だったら、またスタバいかない?》と来た。《うん、大丈夫だよ》とメッセージを送ると、明日もスタバで話すことになった。
56
「ごめんね。日奈子のこと、ほっておけなくてさ」
「ううん。ありがとう。気が紛れるよ」
「それならいいけどさ、無理しないでね。途中で帰ってもいいから」
「ありがとう」私はそう言った。桜子は本当に優しいし、私のことを本当の意味でわかってくれている唯一の人物だ。小学校の時から、なぜかわからないけど、息が合う。小中高校と、桜子は陽キャのグループにいつも属しているけど、私と二人で遊ぶ時間を作ってくれる。一方、私は陰キャ気味で地味で少数派の友達グループに属することがほとんどだ。だから、時折、友達からあの二人が、なんで仲がいいんだろうって言われることが度々あった。
「最近は寝れてる?」
「うん。少し寝れるようになったよ」
「よかったー。寝れないのが一番キツイからね。体調的に」
「桜子、なんかお母さんみたいだよ」
「だって、気になって仕方ないんだもん。日奈子のこと」
「ありがとう。私のことよりもさ、桜子。クリスマスなのにデートしなかったの?」
「うん。彼、バイトだって。マジでありえないよね。クリスマスくらい休み取れよな」桜子はそう言って笑った。
「そうだったんだ」
「うん。だから、私と彼のクリスマスは先週の土曜日だったの。だから、大丈夫だよ」
「そっか」私はそう言ったあと、フラペチーノを一口飲んだ。
「ねえ、日奈子。タイムスリップできたらいいのにね」桜子がそう言った。私は少し、ドキッとした。タイムスリップという言葉に思わず身構えた。
「そしたらさ、私が日奈子にこれから起きること伝えてね。日奈子もシドも救えるかもしれないって、昨日の夜思ったんだ」
「タイムスリップね」私はそう言った。すでに私はタイムスリップしていると言えるわけがなく、私は桜子が言ったタイムスリップという言葉を返しただけだった。
「うん。――無神経なこと言ってたらごめんね。私ね、なぜかわからないけど、昨日そう思ったことを伝えなくちゃって思ったんだ。昨日ね、タイムマシンっていう映画観たんだよね。ツタヤでDVD借りて。その映画は死んじゃう恋人を助けようと思って、タイムマシーン作って、タイムスリップを繰り返す話なんだ。だけど、結局、恋人を救うことが出来ないんだよね。それでタイムマシーンの操作事故で未来に吹っ飛んじゃうって話なんだけどさ。それ観たあと、すぐに日奈子にLINEしたの」
「そうだったんだ」
「――ごめんね。やっぱり、変なことだよね」
「ううん。そんなことないよ」私はそう言った。すでに私はその変なことをやっているんだよ。桜子と言いたくなった。だけど、それこそ桜子に言ってどうにかなる問題じゃない。余計に心配させるだけだ。
「だからね、失った人を追い求めたくなる感情ってどの人にもあるんだろうね」桜子はそう言ったあと、ため息をひとつ、ついていた。
57
家に帰り、またベッドに寝転んだ。ラックに掛けた黄色いコートを眺めていた。そういえば、27歳のときの人生では、シドの止血をするために黄色いコートを使ったから、この時期、すでにこの黄色いコートはなかった。血まみれになったコートを泣きながら、燃えるゴミの袋に詰め込んで捨てた。この黄色いコートだけでもすでに前回の17歳と違う結果になっていた。
ベッドから起き上がり、机の下にしまってある椅子を引き、座った。そして、昨日年表を書いたノートを開き、ペンを持った。そういえば、シドが死んだのも前回の17歳のときと違った。私はノートに縦線を書き、前と後と書いた。
前
・シドはデートの翌日朝に死んだ
・シドが死んだ場所は駅前の待ち合わせ場所
・黄色いコートは捨てた
後
・シドはデートの2日後に死んだ
・シドが死んだ場所はファミレス近くの交差点
・コートは捨ててない
・ファミレスでシドとオールした
今、思いつくだけでこれだけ差があった。占いのおばさんが『過去を変えることはできない』って言っていたけど、すでに私は過去を変えている。私はノートのページを捲り、今度は「おばさんが言ってたこと」と「実際にあったこと」と書いた。
○おばさんが言っていたこと
・過去は変えられない
・2回寝ると戻れる
○実際にあったこと
・過去は変えれた
・何回寝ても元に戻らない
そうノートに書いたあと、私は気が付いた。すでにおばさんが言っているタイムスリップと違うことを私はしているということになる。何度、眠っても一向に元の世界に戻らないし、過去は何点かは変わっている。シドが死んだのは同じ結果だけど、内容が違う。
ペンのノックを何度も押して、神経質な音を立てた。どうなってるんだろう? おばさんが言っていたのはタイムスリップはツアーみたいなものだって言っていた。ツアーってことはたぶん、その時代にタイムスリップして過去に起きた出来事をショーケース越しに見ているような感覚なのだろう。だから、過去を変えられないから、2回寝たら元の世界に戻ることが出来る。過去が変わらないから、元の世界も変わらない。
だけど、私の場合、すでに過去は変わってしまったから、元の世界の私は――。
ため息をついた。元の世界の私はたぶん、消滅したのかもしれない。
おばさんはそのことをタイムパラドックスって言ってた。タイムスリップして自分が生まれる前の世界で、親を殺したら、元の世界の自分も存在しなくなる。私はそれと似たようなことをしたのかもしれない。だから、タイムスリップした世界に留まり続けることができたとしか、考えられない。そして、その答えはもう、永遠にわからない。
58
正月も12月の延長線上みたいにポッカリと心に穴が空いたまま過ごした。そして、年始のお祝いムードが抜け、そのムードの寂しさも一緒に1月4日は私にのしかかった。成人の日を過ぎたら冬休みは終わる。そして、私は学校に行くだろう。タイムスリップして、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。そして、シドがいなくなってからも1ヶ月が経とうとしていた。
私は桜子に会ったあとから、ひたすら逃避することを考えていた。実際、何度考えても、今後の私の人生をどうやって進めていけばいいのか、全くわからなかった。今更、大学に行って、何を学ぶんだろう? 私にとってやりたい仕事なんてほとんどない。本屋の仕事も元々、憧れて入ったけど、もう十分やりきった。出版不況の所為で給料にならないし、毎日クタクタなまま、プライベートを犠牲にして働かなくちゃならないことは十分にわかっている。なろうと思っても正社員にすらなれないんだ。
そして、そもそも、シドがいないと私の人生は回り始めない。絶対にそうだ。シドと一緒に人生を作っていかないと、私は生きていけないんだ。だけど、シドはもういない。その現実を私はまた受け入れたくなかった。
59
学校が始まり、私は通学を始めた。クラスに入ると幼い同級生達が楽しそうにグループを作って会話をしていた。私が教室に入ると、江利が声を掛けてきた。私は江利に自分の席の場所を教えてもらった。コート掛けにコートを掛けたあと、自分の席に座ると、江利は前の席に座った。
「日奈子、大丈夫?」江利は心配そうな表情でそう言った。
「うん。大丈夫だよ」私はそう言った。江利はクラスで唯一、私とシドが付き合っていたことを知っている。だから、シドが死んだことが私にとってどんなことであったのかも簡単に想像できているのだろう。
「私より、江利は元気だった?」
「うん、私はこの通り、元気だよ。結構バイトしたから疲れたんだけどね」
「そうだったんだ。年末年始だからコンビニも忙しかったでしょ?」
「うん、大晦日もシフト出たんだけど、大晦日はめっちゃ暇だったさ。最後の3時間くらい立ってるだけだったから、むしろ辛かったわ」江利はそう言って笑った。
「そっか、みんな家で紅白観て、おせちでも食べてる感じだよねきっと」
「そうそう。ホント、外に出ないんだね。その代わり2日からものすごく忙しかったよ。マジで時給と割に合わなかったわ」
「どれくらい忙しかったの?」
「目回るくらい」
「マジで。大変だったね」
「うん。しかもさ、うちの店、今すごい人手不足なんだよね。だから、高校生なのに大人がやる仕事をやらさせられたりしてさ、結構めんどいのさ」
「そうなんだ」
「ねえ、日奈子もやらない? バイト」
「え、キツそうじゃん」
「だけど、すぐに決まるよ。お小遣い欲しかったら言ってよ。私がオーナーに言っておくから」江利がそう言ったとき、ちょうど先生が教室に入ってきた。江利は話を止めて、自分の席に戻った。
60
始業式は退屈だった。狭い体育館にぎっちりと数百人が体育座りをしている光景は久々に見ると異様に感じた。ろくに換気もしていないから、酸素が薄くぼんやりとした。校長はシドの交通事故を話のネタにしている。残念ながらをすでに5回言っていた。何が残念ながらだ。ふざけるなと思った。お前は何もシドのこと知らない癖に何言っているんだろうと思った。ニュースのやり方と一緒だ。センセーショナルに取り上げれば、何でも感傷的に物事を伝え、教訓にすることができる。そんなことで、シドを使わないでほしいと思った。
ものすごく腹が立つ。お前が善人だと評価されるためにシドは死んだわけじゃないんだ。こういう善人面したヤツがどんな組織でも簡単にトップになる。愛がないんだよ。愛が。残念ながらと言っておけば、死者に祈りを捧げたことになるのか。もういいだろ。もう。私は校長の話が終わるまでイライラが収まらなかった。
校長の話が終わり、部活の活動報告になった。スキー部がなにかの大会で優勝したらしい。部員が壇上で校長から、賞状を授与されている。体育座りをしながら、私は何もやることがないなら、バイトするのもいいなと思った。江利のところで江利と一緒にだべりながらレジ番しているのも悪くないと思った。そして、5万くらい上手く稼げたら、好きなこと出来る幅も広がるなと思った。5万円――。
5万円出してタイムスリップしたんだった。5万円出して、本当に人生が変わってしまったなと思った。一瞬、シドの死を止めることが出来ると思いこんでいた自分がバカみたいに思えた。シドが死なないでタイムスリップが終わって27歳の私に戻ったら、左指には結婚指輪がついていて、シドと幸せな日々が待っていると思った。そう思えたのはほんの10時間くらいのことだ。
ふと、私は思いついてしまった。私はバイトをすることにした。
61
「すみません。タイムスリップしたいです」私はそう言って、おばさんに5万円が入った封筒を差し出した。
「え、あなた、どうしてそのこと知ってるの?」おばさんはそう言って、不審そうな顔で私を見た。
「私、実は10年後からタイムスリップしてきたのですが、2日経っても戻れなかったんです」
「お嬢ちゃん、タイムスリップしてきたんだ。そしたら、私のところでタイムスリップしたってことだよね?」
「はい、そうです。私、このタイムスリップで同じ辛いこと2回も経験したんですけど、もう一度タイムスリップして、どうしても相手に伝えたいことがあるんです。だから、タイムスリップさせてください」
「一回、お茶でも飲んで、落ち着こうか。お茶持ってくるからちょっと待っててね」おばさんはそう言ったあと、おばさんは立ち上がった。今日のサリーの色はオレンジだった。サリーのオレンジの裾がひらりと弧を描いた。おばさんは、前回来たときと同じように奥の部屋へ行った。私はその間、膝に乗せている両手を開いたり閉じたりを繰り返した。両手の平はしっとりと汗で滲んでいる。そうしているうちにおばさんはお盆にお茶を乗せて、こちらに戻ってきた。
「はいどうぞ」おばさんはそう言って、私にお茶を差し出した。お茶からはタージリンの香りがした。
「ありがとうございます」
「お嬢ちゃんさ、そういえば、冬頃に来たことがあったよね。今、お茶を淹れているときにふと思い出したの」
「はい、一回来ました」
「そのとき、言ってたもんね。前の世界には戻りたくありませんって」
「はい、そう言いました」
「私がその時、言ったこと、覚えてるかしら」
「運命には抗えない。自分で道を開いて」
「そう。その通り。運命には抗えないし、自分で人生の道を切り開いて行かないといけないの。どんな人でも。――お嬢ちゃん、本当は何歳なの?」
「27歳です」
「そう。ならわかるでしょ。そのくらいの年齢なら」
「はい、わかってるつもりです」
「だけど、不思議ね。こんな人初めて見た。タイムスリップして戻らない人」
「自分でも信じられません」
「そうだよね。本人が一番信じられないよね。もしかして、元の未来に戻ろうと思ってる? 残念だけど、過去に戻ることは出来ても、未来に行くことはできないんだけど」
「いいえ、私はまた、過去に戻りたいんです」
「そう。過去に戻りたいんだ」
「はい。そうです」
「うーん。そしたら、タイムスリップして、そのままなのにどうしてまたタイムスリップしたいの?」
「私が付き合ってた彼が死んだからです。この世界でも」
「そうなんだ。それはお気の毒に」
「私、もしかしたら、すでに死んでた人間かもしれないんです。彼が私の身代わりになって死にました。本当は私が死ぬべきだったんです。だから、今度は彼を救いたい。いや、元々、事故になんて遭わないようにしたいんです。彼も私も死なないようにしたい。ただ、それだけです」
「そう。よく考えた結果、そうしたいと強く思ったんだね」
「はい。だから、この1ヶ月、コンビニでバイトしてお金作りました」
「わかった。あなたには悪いと思うけど、私はどうなっても知らないからね。私はただ、いつもと同じようにタイムスリップを手伝う。それだけをするからね。それでいい?」
「――はい、お願いします」私がそう言ったあと、おばさんは立ち上がり、椅子がある部屋の方を指さした。
シドは当たり前のように死んだ。一緒に救急車に乗って、シドと病院に行った。救急車の中で私はシドの顔を見ながら、10年前のことを思い出していた。10年前も同じようにシドと一緒に救急車に乗って、病院へ行った。あのときもあっけなくシドの命は終わった。たぶん、今回もそうなるだろうというくらい出血がひどかった。
病院でシドの家族が来るまで、ベッドに安置されているシドと二人きりになった。シドの顔にかけられた白い布をめくり、私はシドにキスをした。シドの唇はまだ微温くて、まだ動けるんじゃないかと思った。私は唇をそっと離したあと、しばらくシドの顔を見ていた。シドの顔は血色は消え、黄色くなり始めていた。私は右手でシドの頬をゆっくり撫でた。親指で鼻先から頬をなぞった。そのあと、顔に白い布をかけ、パイプ椅子に腰掛けた。
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シドの家族が来たあと私は挨拶をし、事情を説明し、すぐに病室を出た。携帯をバッグから取り出した。まだ11時すぎだった。まだ、午前中の出来事だ。ため息をつくと、一緒に涙が流れた。灰色したビニールの廊下は涙で霞んでいる。奥の窓ガラスから差し込む白い光がやけに眩しく見えた。ゆっくりと廊下を歩き、会計ロビーに着いた。緑色のビニールが張られているベンチに腰掛けた。
座ったまま、前かがみになり、両手で顔を覆った。手はすぐに涙でぐしゃぐしゃに濡れた。息をするとき、声がでないように押し殺した。息をするたびに両肩が上がった。
結局、同じことの繰り返しだ。そもそも、シドを救えたとしても未来なんて変わらないんだと思った。
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ベッドに寝転がった。自分の部屋に戻ってきても何も変わることはなかった。シドはしっかりと死んだ。それも今回も私の目の前でしっかりと死んだ。私はこの現実を見せられるためにタイムスリップをしたのかもしれない。そして、今、この瞬間に眠りについたら、あとは現実に戻るだけだろう。今朝、ファミレスで少し寝たのに27歳の私に戻ることが出来なかったのはおそらく、シドが死んでいなかったからだ。シドが死んで私のタイムスリップのツアーが終わることになっていたのだろう。
性格悪すぎるなって思った。何に性格悪いと言えばいいのかその存在がわからないけど、とにかく性格が悪い。いい思いさせておいて、二度としたくなかった辛い経験をもう一度させられた。私がそもそもシドが死ぬ前日にタイムスリップしたのが悪かったのかもしれない。なんでシドが死ぬ前日なんか選んだんだろう。その選択をした自分が馬鹿馬鹿しく感じた。
目を瞑り、寝ることに集中する。ほぼ、オールした上にしんどいことがあったから身体はものすごく疲れている。疲れていて、もう何もしたくない。だけど、シドの頭部から大量出血している光景や、救急車で酸素マスクをつけられているシドの姿、病院に着いて処置室へ運ばれる姿、そして、死んだ姿。すべての映像が何度も再生され、そのたびに私は絶望した気持ちになり、胸が痛む感覚がした。
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眠ることができなかった。私は当たり前のように学校を休んだ。親にシドが死んだことを簡素に伝えたら、ほっておいてくれた。身体は重くて、食欲は当然のようになかった。歯磨きをして、顔を洗い、水を飲んだあと、また自分の部屋に戻り、携帯を手に取ったあとベッドに寝転んだ。携帯を操作して、一昨日、二人で自撮りした写真を表示した。写真のなかのシドと私は笑顔で、二人の奥にカラフルなクリスマスツリーが写っていた。結局、同じだと思った。27歳の私がずっとシドの写真を見て、シドのことをぼんやりと考えているのは一緒だ。
私は我慢できなくなり、両足を何度も何度もジタバタして、やり場のない感情をベッドにぶつけた。
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眠気は一向にやってこなかった。昨日みたいにシドが居ないと生きていけないと思った。シドが居るということだけで私は簡単に眠ることができた。眠れないのは不眠症の所為だと思っていたけど、実はそうではなかったことに気がついた。私の人生にはシドがいないと、もうどうすることもできないんだ。一日目デートが終わった日、ぐっすり眠ることができたのも、ファミレスで眠気が来て仮眠したのもすべてシドが居るという安心感で眠気がやってきたんだ。きっと。だから、シドを失った私はまともに眠ることすら困難になっているんだ。
現に今もこんなに疲れているのに眠ることができない。私の人生はシドがいないともう、無理なんだよ。
「なんで死んじゃうの? シド」私はぽつりとそう言った。そう言ったあと、大きなため息をついた。
49
一睡もしないまま、シドの通夜に参列した。シドの両親に挨拶をすると、病院のときの礼を言われた。私は通夜に呼んでくれたことに礼を言った。通夜が終わったあと、シドの顔を見せてもらった。棺の中で寝ているシドは病院のときと同じように穏やかな顔をしていた。シドを抱きしめたい衝動と、胸にこみ上げてくる熱さを感じた。私は息を止め、その感覚が落ち着くのを待った。すっとその感覚が緩まったのを感じたとき、息を吐いた。そして、私は「さよなら」とぼそっと言った。
50
結局、眠れずに2日が経った。流石につらすぎるから、親にそのことを伝えて、近所の内科に行った。内科で眠れない症状を伝えると1週間分の睡眠薬が処方された。私はすでに頭が回っておらず、医者の話や、受付のお姉さんの話は頭に入ってこなかった。身体はふわふわしていて、雲の上を歩くように気持ちが悪かった。
家に帰り、すぐに睡眠薬を飲み、ベッドに寝転んだ。そして、目を瞑った。何も考えることができず、私は自然と無を感じていた。もはやシドのことを考えるということすらできなくなっていた。だけど、なかなか眠りに入らない。目を瞑ったまま、待っていたら、いつの間にか眠っていた。
51
目を覚ました。身体は右手を下にして、横向きになっていた。景色は実家の私の部屋だった。私は起き上がり、机に置いていた携帯を手に取った。携帯も昨日のままだった。携帯で時間を見ると朝の5時半すぎだった。ものすごく長い時間寝ていたことになる。昨日のお昼すぎに寝たから、20時間近く眠っていたことになる。少しだけ頭が痛かった。
私はようやっと気づいた。なんでタイムスリップが終わっていないのか、よくわからなかった。占いのおばさんは2回寝たらタイムスリップが終わるって言ってた。だけど、私はすでに3回目の睡眠を終えてしまった。私はため息をついた。シドが死んだ世界で生き続けても意味がない。しかも、今更高校生をやっても意味がない。もし、これで27歳に戻れなかったら、また大学受験をしなくちゃいけないし、就職活動をしなくちゃいけない。
そして、消えることがない空虚を感じて、死ぬために生きなくちゃいけなくなる。それだけで、ものすごく嫌になった。27年間それなりに私も頑張っていたんだなと思った。
今日も学校を休んだ。昼過ぎに桜子から、メッセージが来た。何日も学校に行っていないから、気にかけてくれたのだろう。メッセージには私を気遣う言葉と、もしよかったらカフェで話そうと書いてあった。だから私はその誘いに乗ることにした。
52
パルコのスタバで桜子と会った。高校生の桜子と久々に再会した。桜子は幼く見えたけど、今とそれほど変わらない印象を受けた。スターバックスの店内はいつものように落ち着いていて、コーヒーの甘い香りが店内に漂っている。私と桜子は店員からフラペチーノを受け取ったあと、窓側の席に座った。駅前通りは多くの人たちが今日も行き交っていた。
「日奈子、大丈夫?」桜子はそう言った。私はコアとなる部分は一緒だから、大した変わらないと思った。それは思い出の中の桜子と一緒だ。
「うん、ありがとう」私はそれだけ返事した。
「すごく顔色悪いね」
「うん、2日くらい寝れなくて、昨日病院行って、薬で寝たら20時間も寝ちゃったんだよね。それでかもしれない」
「うわ。大変だったね」
「そうだね」
「ねえ、日奈子。私ね、人を励ますとかそういうことって、下手くそだと思うんだ。だから、直接的な言い方になったらごめんね。――辛いよね。人が死ぬって」
「うん。すごく辛いことだよ」
「そうだよね。今はものすごく日奈子が傷んでるんだと思うんだ。日奈子の心が」
「うん」
「だからね、私、そっとしておくことも大切だと思ったの。だけどさ、何日か我慢したけど、もう無理だった。だから、日奈子のこと誘っちゃったの。ごめんね」
「ううん。久々に外に出て、気が紛れたよ。シドのお葬式以外、外に出なかったから」私はそう言ったあと、シドの肉体はすでに灰になっているのかと、ふと思った。それは絵空事のようにしか思えなかった。
「そうなんだ」桜子はそう言ったあと、フラペチーノを一口飲んだ。
「うん。――あーあ。上手く付き合えてると思ったのにな」
「そうだよね。日奈子の惚気話聞いてて、私もそう思ったよ」
「だけど、相手が死んじゃったら、恋愛が上手くいくとか、そういうのも全部なくなっちゃうんだね。――当たり前の話だけど」
「そうだよね。振られるとかじゃないもんね。だって、死んじゃうんだよ。あり得ないよ」
「――シドさ、私のことかばって――かばって死ん――じゃった」喉が急に詰まる感覚で声をだすことが出来なくなった。そして、大量の涙が一気に溢れ、頬に伝う感触がした。私はカウンターテーブルに突っ伏した。トレーナーの裾は簡単に濡れていった。背中に擦られる感触がした。桜子が背中を擦ってくれているのだろう。桜子側からジッパーを開ける音がして、がさこさと何かを探している音がした。
「ティッシュ。使って」桜子がそう言ったから、私は突っ伏したまま頷いた。涙を止めようと食いしばったけど、一向に止まる気配はなかった。私は食いしばるのをやめて、静かに涙が収まるのを待つことにした。桜子はずっと私の背中を擦ってくれている。桜子の手の温かさがトレーナー、Tシャツ、キャミソール越しでもしっかりと背中に伝わっていた。
涙が少し落ち着いた。私は顔を上げ、桜子のポケットティッシュを一枚取り、鼻を噛んだ。そのあと、もう一枚ティッシュを取り、頬と目元を拭いた。せっかくしたメイクも一緒に取れているのがティッシュの色を見てわかった。もういいやと思った。どうせ、化粧直しもしないで、どこかでマスクを買って、マスクをつけて帰ろうと思った。
「落ち着いた?」桜子はそっとした声でそう言った。
「うん。ごめん。――ありがとう」私はまだ顔全体が火照っているように感じた。じんわりと熱を持っていて、頭がぼーっとしていた。短いため息をつくと、少しだけ気合が戻った気がした。
「本当は、あの日、私が死ぬはずだったんだよ。だけど、シドは私のこと、かばって私のこと救ってくれたの」
「――そうなんだ。ごめん、どういう事故だったの?」
「横断歩道で信号待ってたら、私の方に車が突っ込んできたの。それで、シドが私を突き飛ばしたんだ。――そしたら、シドが車に引かれてたの」
「そうだったんだ――」桜子がそう言ったあと、またしばらくの間、沈黙が続いた。
「バカな話だよね。ホントに。なんで私のこと、かばったんだろう。自分が死ぬことないのに」
「シド、すごいね。――咄嗟の判断で、日奈子のこと守ってくれたんだね」
「ううん。バカげてるよ。そんなの。あの事故で、どちらかが生き残って、どちらかが死んでしまうのは決まってたのかもしれない。だから、私とシドはあの日を境に一緒に生きることなんて無理なのかもしれないと思ったんだ。私」
「すごく、バカげてるね」
「でしょ。桜子ならわかってくれると思った」
「日奈子。辛いね」
「うん、すごく辛い」私はそう言ったあと、すっかり氷が溶けてしまったフラペチーノを一口飲んだ。
「ねえ、桜子。私さ、もう生きていけないと思うんだよね」
「やめてよ。そんなこと言わないで。辛いだろうけど」
「ごめん。そういう意味じゃないんだ。私、シドがいないと眠れないことに気が付いたの」
「眠れない?」
「うん。私ね、元々不眠症気味だったんだけど、シドと付き合い始めてから、寝れるようになったんだよね」私は自分が軽く話を脚色していることに少し罪悪感を覚えた。本当はシドが死んでから不眠症になった。
「そうだったんだ。――日奈子、不眠症だったんだね」
「うん。実はね。だけど、シドがいるだけで寝れたんだよね。3日前にシドが死んで、私、不眠症、ぶり返しちゃったみたい」
「そうなんだ。なんか、安心できるところがあったのかな。日奈子の中で」
「うん、そうかも。私、シドがいないと無理かも」
「――そっか」桜子はそう言ったあと、ため息をついていた。
「私、どうしたらいいんだろう」私はそう言ったあと、野暮な質問をしたと思った。相手はまだ17歳の桜子だ。こんな質問するのは親友でも酷な気がした。案の定、桜子は沈黙し、私を見つめていた。そうして目があったまま、会話は止まった。そして桜子は私の左手を両手で握った。桜子の手は柔らかくて一瞬ドキッとした。
「日奈子。――今は立ち直らなくていいよ。とにかく今は悲しもう。シドのこと。――頑張らないで。立ち直ろうとすること。思いっきり悲しんでから、次のこと考えたらいいよ。そしたら、きっと上手くいくよ。――私も手伝うから」桜子はそう言った。桜子の頬に何粒の涙が流れた。私はそれを見て、また胸が痛くなった。
「――ありがとう」私はそう言った。そして、私も涙がまた溢れた感覚がした。
53
シドが死んでから2週間が経った。私は17歳のままだった。あれから短い時間で何度も眠ったけど、一向に27歳の私に帰れる気配はなかった。私はすでに半分諦めていた。たぶん、これはもう、二度と27歳に戻ることができない。だったら、戻ることを諦めて、17歳の今の人生をしっかりと行ったほうがいいと思った。
「失うことによって気づくことがある」と占いのおばさんが言っていたことを思い出した。私はシドを失ったことで自分の人生をしっかりと生きることを突きつけられているのだろう。27歳までの私はシドの影を追って、後悔して、苦しい生活をしていた。だけど、それを辞めたらいいってことなのだろう。もう一度、17歳から人生やり直せるチャンスをやるから。ってことなのだろう。
神なのか、時空なのかわからないけど、性格悪すぎると思った。もっと私のこと寄り添ってくれてもいいのにと思った。
だけど、そんな簡単にシドのことなんて忘れることができない。私は右手の平を眺めた。一週間前、確かにシドが私の右手を握った。その感触を思い出した。だけど、だんだんとその感触も消えていくのがわかった。前のときと一緒だ。こうやってシドの声やシドの感触を忘れていく。そして、シドの顔も簡単に思い出すことができなくなるんだ。
54
私が学校を休んでいる間に冬休みが始まってしまった。そして、クリスマス・イブもやってきた。私は引きこもったまま、外に出ず、自分の部屋でテレビを見て過ごした。外の世界はクリスマスで楽しそうだった。私は17歳になる準備をすることにした。机に置かれていた教科書を何冊かに目を通した。ノートも見たけど、今現在やっている勉強の殆どは面倒で面白くなさそうだった。
椅子に座り、ノートをテーブルに広げた。そして、何も書かれていないページに17、18、19と書き始めた。そして、27まで書き、年表を作った。そして、高校卒業と大学入学、卒業、就職を18、22の欄に書いた。今までの私の人生を振り返ろうとしたけど、これ以上は何も出てこなかった。
23からの私は何もなかった。ただ、書店の中で一日中働いて、疲れて、お風呂入って、寝るだけを繰り返しているだけだった。私はふと、仕事はどうなったんだろうと思った。私が無断欠勤したとしても別にあの会社では珍しいことではないから、もしかしたら、普通に回っているのかもしれない。私がいなくったってあの職場は回る。そして、私を求めていない。
次に私が歩みたい人生プランを書こうとした。だけど、全く思いつかなかった。別に何がしたいわけでもない。出会いも求めていないし、明確にやりたい夢もない。結局、私には何も残っていない。
55
桜子から、また、メッセージがあった。《もし、大丈夫だったら、またスタバいかない?》と来た。《うん、大丈夫だよ》とメッセージを送ると、明日もスタバで話すことになった。
56
「ごめんね。日奈子のこと、ほっておけなくてさ」
「ううん。ありがとう。気が紛れるよ」
「それならいいけどさ、無理しないでね。途中で帰ってもいいから」
「ありがとう」私はそう言った。桜子は本当に優しいし、私のことを本当の意味でわかってくれている唯一の人物だ。小学校の時から、なぜかわからないけど、息が合う。小中高校と、桜子は陽キャのグループにいつも属しているけど、私と二人で遊ぶ時間を作ってくれる。一方、私は陰キャ気味で地味で少数派の友達グループに属することがほとんどだ。だから、時折、友達からあの二人が、なんで仲がいいんだろうって言われることが度々あった。
「最近は寝れてる?」
「うん。少し寝れるようになったよ」
「よかったー。寝れないのが一番キツイからね。体調的に」
「桜子、なんかお母さんみたいだよ」
「だって、気になって仕方ないんだもん。日奈子のこと」
「ありがとう。私のことよりもさ、桜子。クリスマスなのにデートしなかったの?」
「うん。彼、バイトだって。マジでありえないよね。クリスマスくらい休み取れよな」桜子はそう言って笑った。
「そうだったんだ」
「うん。だから、私と彼のクリスマスは先週の土曜日だったの。だから、大丈夫だよ」
「そっか」私はそう言ったあと、フラペチーノを一口飲んだ。
「ねえ、日奈子。タイムスリップできたらいいのにね」桜子がそう言った。私は少し、ドキッとした。タイムスリップという言葉に思わず身構えた。
「そしたらさ、私が日奈子にこれから起きること伝えてね。日奈子もシドも救えるかもしれないって、昨日の夜思ったんだ」
「タイムスリップね」私はそう言った。すでに私はタイムスリップしていると言えるわけがなく、私は桜子が言ったタイムスリップという言葉を返しただけだった。
「うん。――無神経なこと言ってたらごめんね。私ね、なぜかわからないけど、昨日そう思ったことを伝えなくちゃって思ったんだ。昨日ね、タイムマシンっていう映画観たんだよね。ツタヤでDVD借りて。その映画は死んじゃう恋人を助けようと思って、タイムマシーン作って、タイムスリップを繰り返す話なんだ。だけど、結局、恋人を救うことが出来ないんだよね。それでタイムマシーンの操作事故で未来に吹っ飛んじゃうって話なんだけどさ。それ観たあと、すぐに日奈子にLINEしたの」
「そうだったんだ」
「――ごめんね。やっぱり、変なことだよね」
「ううん。そんなことないよ」私はそう言った。すでに私はその変なことをやっているんだよ。桜子と言いたくなった。だけど、それこそ桜子に言ってどうにかなる問題じゃない。余計に心配させるだけだ。
「だからね、失った人を追い求めたくなる感情ってどの人にもあるんだろうね」桜子はそう言ったあと、ため息をひとつ、ついていた。
57
家に帰り、またベッドに寝転んだ。ラックに掛けた黄色いコートを眺めていた。そういえば、27歳のときの人生では、シドの止血をするために黄色いコートを使ったから、この時期、すでにこの黄色いコートはなかった。血まみれになったコートを泣きながら、燃えるゴミの袋に詰め込んで捨てた。この黄色いコートだけでもすでに前回の17歳と違う結果になっていた。
ベッドから起き上がり、机の下にしまってある椅子を引き、座った。そして、昨日年表を書いたノートを開き、ペンを持った。そういえば、シドが死んだのも前回の17歳のときと違った。私はノートに縦線を書き、前と後と書いた。
前
・シドはデートの翌日朝に死んだ
・シドが死んだ場所は駅前の待ち合わせ場所
・黄色いコートは捨てた
後
・シドはデートの2日後に死んだ
・シドが死んだ場所はファミレス近くの交差点
・コートは捨ててない
・ファミレスでシドとオールした
今、思いつくだけでこれだけ差があった。占いのおばさんが『過去を変えることはできない』って言っていたけど、すでに私は過去を変えている。私はノートのページを捲り、今度は「おばさんが言ってたこと」と「実際にあったこと」と書いた。
○おばさんが言っていたこと
・過去は変えられない
・2回寝ると戻れる
○実際にあったこと
・過去は変えれた
・何回寝ても元に戻らない
そうノートに書いたあと、私は気が付いた。すでにおばさんが言っているタイムスリップと違うことを私はしているということになる。何度、眠っても一向に元の世界に戻らないし、過去は何点かは変わっている。シドが死んだのは同じ結果だけど、内容が違う。
ペンのノックを何度も押して、神経質な音を立てた。どうなってるんだろう? おばさんが言っていたのはタイムスリップはツアーみたいなものだって言っていた。ツアーってことはたぶん、その時代にタイムスリップして過去に起きた出来事をショーケース越しに見ているような感覚なのだろう。だから、過去を変えられないから、2回寝たら元の世界に戻ることが出来る。過去が変わらないから、元の世界も変わらない。
だけど、私の場合、すでに過去は変わってしまったから、元の世界の私は――。
ため息をついた。元の世界の私はたぶん、消滅したのかもしれない。
おばさんはそのことをタイムパラドックスって言ってた。タイムスリップして自分が生まれる前の世界で、親を殺したら、元の世界の自分も存在しなくなる。私はそれと似たようなことをしたのかもしれない。だから、タイムスリップした世界に留まり続けることができたとしか、考えられない。そして、その答えはもう、永遠にわからない。
58
正月も12月の延長線上みたいにポッカリと心に穴が空いたまま過ごした。そして、年始のお祝いムードが抜け、そのムードの寂しさも一緒に1月4日は私にのしかかった。成人の日を過ぎたら冬休みは終わる。そして、私は学校に行くだろう。タイムスリップして、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。そして、シドがいなくなってからも1ヶ月が経とうとしていた。
私は桜子に会ったあとから、ひたすら逃避することを考えていた。実際、何度考えても、今後の私の人生をどうやって進めていけばいいのか、全くわからなかった。今更、大学に行って、何を学ぶんだろう? 私にとってやりたい仕事なんてほとんどない。本屋の仕事も元々、憧れて入ったけど、もう十分やりきった。出版不況の所為で給料にならないし、毎日クタクタなまま、プライベートを犠牲にして働かなくちゃならないことは十分にわかっている。なろうと思っても正社員にすらなれないんだ。
そして、そもそも、シドがいないと私の人生は回り始めない。絶対にそうだ。シドと一緒に人生を作っていかないと、私は生きていけないんだ。だけど、シドはもういない。その現実を私はまた受け入れたくなかった。
59
学校が始まり、私は通学を始めた。クラスに入ると幼い同級生達が楽しそうにグループを作って会話をしていた。私が教室に入ると、江利が声を掛けてきた。私は江利に自分の席の場所を教えてもらった。コート掛けにコートを掛けたあと、自分の席に座ると、江利は前の席に座った。
「日奈子、大丈夫?」江利は心配そうな表情でそう言った。
「うん。大丈夫だよ」私はそう言った。江利はクラスで唯一、私とシドが付き合っていたことを知っている。だから、シドが死んだことが私にとってどんなことであったのかも簡単に想像できているのだろう。
「私より、江利は元気だった?」
「うん、私はこの通り、元気だよ。結構バイトしたから疲れたんだけどね」
「そうだったんだ。年末年始だからコンビニも忙しかったでしょ?」
「うん、大晦日もシフト出たんだけど、大晦日はめっちゃ暇だったさ。最後の3時間くらい立ってるだけだったから、むしろ辛かったわ」江利はそう言って笑った。
「そっか、みんな家で紅白観て、おせちでも食べてる感じだよねきっと」
「そうそう。ホント、外に出ないんだね。その代わり2日からものすごく忙しかったよ。マジで時給と割に合わなかったわ」
「どれくらい忙しかったの?」
「目回るくらい」
「マジで。大変だったね」
「うん。しかもさ、うちの店、今すごい人手不足なんだよね。だから、高校生なのに大人がやる仕事をやらさせられたりしてさ、結構めんどいのさ」
「そうなんだ」
「ねえ、日奈子もやらない? バイト」
「え、キツそうじゃん」
「だけど、すぐに決まるよ。お小遣い欲しかったら言ってよ。私がオーナーに言っておくから」江利がそう言ったとき、ちょうど先生が教室に入ってきた。江利は話を止めて、自分の席に戻った。
60
始業式は退屈だった。狭い体育館にぎっちりと数百人が体育座りをしている光景は久々に見ると異様に感じた。ろくに換気もしていないから、酸素が薄くぼんやりとした。校長はシドの交通事故を話のネタにしている。残念ながらをすでに5回言っていた。何が残念ながらだ。ふざけるなと思った。お前は何もシドのこと知らない癖に何言っているんだろうと思った。ニュースのやり方と一緒だ。センセーショナルに取り上げれば、何でも感傷的に物事を伝え、教訓にすることができる。そんなことで、シドを使わないでほしいと思った。
ものすごく腹が立つ。お前が善人だと評価されるためにシドは死んだわけじゃないんだ。こういう善人面したヤツがどんな組織でも簡単にトップになる。愛がないんだよ。愛が。残念ながらと言っておけば、死者に祈りを捧げたことになるのか。もういいだろ。もう。私は校長の話が終わるまでイライラが収まらなかった。
校長の話が終わり、部活の活動報告になった。スキー部がなにかの大会で優勝したらしい。部員が壇上で校長から、賞状を授与されている。体育座りをしながら、私は何もやることがないなら、バイトするのもいいなと思った。江利のところで江利と一緒にだべりながらレジ番しているのも悪くないと思った。そして、5万くらい上手く稼げたら、好きなこと出来る幅も広がるなと思った。5万円――。
5万円出してタイムスリップしたんだった。5万円出して、本当に人生が変わってしまったなと思った。一瞬、シドの死を止めることが出来ると思いこんでいた自分がバカみたいに思えた。シドが死なないでタイムスリップが終わって27歳の私に戻ったら、左指には結婚指輪がついていて、シドと幸せな日々が待っていると思った。そう思えたのはほんの10時間くらいのことだ。
ふと、私は思いついてしまった。私はバイトをすることにした。
61
「すみません。タイムスリップしたいです」私はそう言って、おばさんに5万円が入った封筒を差し出した。
「え、あなた、どうしてそのこと知ってるの?」おばさんはそう言って、不審そうな顔で私を見た。
「私、実は10年後からタイムスリップしてきたのですが、2日経っても戻れなかったんです」
「お嬢ちゃん、タイムスリップしてきたんだ。そしたら、私のところでタイムスリップしたってことだよね?」
「はい、そうです。私、このタイムスリップで同じ辛いこと2回も経験したんですけど、もう一度タイムスリップして、どうしても相手に伝えたいことがあるんです。だから、タイムスリップさせてください」
「一回、お茶でも飲んで、落ち着こうか。お茶持ってくるからちょっと待っててね」おばさんはそう言ったあと、おばさんは立ち上がった。今日のサリーの色はオレンジだった。サリーのオレンジの裾がひらりと弧を描いた。おばさんは、前回来たときと同じように奥の部屋へ行った。私はその間、膝に乗せている両手を開いたり閉じたりを繰り返した。両手の平はしっとりと汗で滲んでいる。そうしているうちにおばさんはお盆にお茶を乗せて、こちらに戻ってきた。
「はいどうぞ」おばさんはそう言って、私にお茶を差し出した。お茶からはタージリンの香りがした。
「ありがとうございます」
「お嬢ちゃんさ、そういえば、冬頃に来たことがあったよね。今、お茶を淹れているときにふと思い出したの」
「はい、一回来ました」
「そのとき、言ってたもんね。前の世界には戻りたくありませんって」
「はい、そう言いました」
「私がその時、言ったこと、覚えてるかしら」
「運命には抗えない。自分で道を開いて」
「そう。その通り。運命には抗えないし、自分で人生の道を切り開いて行かないといけないの。どんな人でも。――お嬢ちゃん、本当は何歳なの?」
「27歳です」
「そう。ならわかるでしょ。そのくらいの年齢なら」
「はい、わかってるつもりです」
「だけど、不思議ね。こんな人初めて見た。タイムスリップして戻らない人」
「自分でも信じられません」
「そうだよね。本人が一番信じられないよね。もしかして、元の未来に戻ろうと思ってる? 残念だけど、過去に戻ることは出来ても、未来に行くことはできないんだけど」
「いいえ、私はまた、過去に戻りたいんです」
「そう。過去に戻りたいんだ」
「はい。そうです」
「うーん。そしたら、タイムスリップして、そのままなのにどうしてまたタイムスリップしたいの?」
「私が付き合ってた彼が死んだからです。この世界でも」
「そうなんだ。それはお気の毒に」
「私、もしかしたら、すでに死んでた人間かもしれないんです。彼が私の身代わりになって死にました。本当は私が死ぬべきだったんです。だから、今度は彼を救いたい。いや、元々、事故になんて遭わないようにしたいんです。彼も私も死なないようにしたい。ただ、それだけです」
「そう。よく考えた結果、そうしたいと強く思ったんだね」
「はい。だから、この1ヶ月、コンビニでバイトしてお金作りました」
「わかった。あなたには悪いと思うけど、私はどうなっても知らないからね。私はただ、いつもと同じようにタイムスリップを手伝う。それだけをするからね。それでいい?」
「――はい、お願いします」私がそう言ったあと、おばさんは立ち上がり、椅子がある部屋の方を指さした。