32
 あたりは一瞬で静まり返った。この道を歩いていた何人かは立ち止まり、車道の車は停まっていた。何人かの人が大丈夫ですかと言って、車の方へ走っていくのが見えた。私は尻もちをついたままだった。目の前に立っているシドを見るとシドは振り向き、車の方を見ていた。
 私はまだ、自体を飲み込めていなかった。スーパーのショーウィンドウにシルバーの車が突っ込んでいた。ショーウインドウのガラスは粉々になっていた。何秒かして、ざわざわと多くの人が話し始めたのがわかった。歩みを止めていた何人かは再び歩き始めた。「ヤバいね」とか「大丈夫かよ」などの複数の話し声がざわめきになっていた。そして、私は派手に転んでいたのに、シド以外、誰一人として、私が滑って転んだことを認知していないようだった。

「日奈子、大丈夫か」シドはそう言って、右手を私に差し出した。シドは私をまっすぐに見つめていた。
「私より、車。車、事故ってる」私はそう言って、事故現場の方を指さした。
「ああ、ヤバいな」私はシドの右手を掴み、シドに起こしてもらった。だけど、シドは事故現場を見ずにずっと私を見つめていた。
「――大丈夫?」
「だいじょばない」シドは私の手を繋いだまま、そう言った。

33
「やばかったな」シドはコーヒーを一口飲んだあとそう言った。
「やばかった」
「たぶん、あの車、俺にストライクだったよな」
「そうだね。いつもの待ち合わせ場所、粉々になってたもん」
「あの車の運転手大丈夫だったかな」
「わからない。――シドが無事でよかった」
「昨日、地下鉄で嫌な予感するって言ってたよな」
「うん。すごくね」
「すごいな。日奈子」シドはそう言ったあと、微笑んだ。

 シドと私は学校に行く気にならず、そのまま駅前の喫茶店に入った。この喫茶店は年季が入っていた。壁やカウンターはブラウンで統一されていて、床のタイルも四角くて茶色のものが引き詰められていた。照明は裸電球を何個も天井から吊るしたものになっていて、店内はとても薄暗かった。シドと私は赤いソファのボックス席に座っている。たぶん、純喫茶の部類にこのお店も入るのだろう。
 シドはコーヒー、私はコーラを飲んでいる。事故の余韻がお互いにまだ残っていた。
 
「なあ、日奈子。今日もしかすると俺、死んでたかもな」
「うん」
「――もしかして、昨日言ってた夢のことってこのことだった?」
「――うん」私はそれしか言葉が出てこなかった。ストローをくわえ、コーラを一口飲んだ。そして、窓越しに外を眺めた。道路には切れ目なく車が走っていて、どの車もゆっくりと通り過ぎていった。
「あのとき、お前がコケてくれたから、助かったよ。たぶん命拾いした」
「――よかった」
「ありがとう」シドはそう言ったあと、窓の外に広がる雪景色を眺めていた。窓の外では無数の人達が駅に吸い込まれていた。

「ねえ」
「なに?」
「学校行く気、なくしたね。さっきの事故で」
「そうだな。萎えたよな。気持ちが」
「ねえ、一層のこと、学校サボっちゃおう。今日」
「いいね。それ乗った」シドはそう言って、微笑んだ表情をした。
「これ飲み終わったらさ、私の家に来ない?」
「え、日奈子の家、行っていいの? やばくない? 二人っきりで実家行くのは」
「なにビビってるのさ」私はそう言って、笑った。恥ずかしがっているシドが可愛く見えた。
「いや、そうじゃなくてさ」シドはそう言った。明らかに目が泳いでいた。
「大丈夫だよ。親は少なくとも6時までは帰ってこないし、お昼ご飯もうちで食べれるしさ」
「オッケー。わかった。あー、緊張するな」
「もう、緊張しないでよ」私はそう言って、笑った。

34
 私はシドを実家に招き入れた。私は家に着いてほっとした気持ちになった。シドをリビングに通し、ダイニングテーブルの椅子に座るよう私はシドに伝えた。
「お腹へったでしょ」私はそう言って、かばんから弁当を2つ取り出し、テーブルの上に置いた。
「お、なにこれ。美味そう」
「今、温めて来るね」私は弁当を2つ持ち、キッチンへ向かった。弁当をレンジで温めた。弁当からはコチュジャンのいい香りがした。2つの弁当を温め終え、1つの弁当をシドの方へ持っていった。
「はい、どうぞ。本当は学校で食べてもらおうと思ったけど、まさかのうちで食べることになっちゃったね」私はテーブルに弁当を置いた。
「やばい、めっちゃいい匂いする」
「やばいでしょ。これ」私はそう言いながら、もう一度キッチンへ行き、自分の弁当を持ってきた。テーブルに弁当を置き、私はシドの向かい側に座った。私はいただきますと言い、両手を合せた。シドもいただきますと言った。

シドは割り箸をわり、弁当の蓋を開けた。
「これ、韓国の料理?」
「うん。ヤンニョムチキン。美味しいよ」
「自分で美味しいって言うなら、絶対美味しいな、これ」シドはそう言いながら、箸でヤンニョムチキンを取り、一口食べた。
「うっま。なにこれ」
「でしょ。これ、私の絶対うまい料理」私もヤンニョムチキンを箸で取り、一口頬張った。シドはそのあと、無言で弁当を食べ進めていた。私もあまり話さずに弁当を食べた。
「いや、うますぎだって。日奈子。やばいな」
「嬉しい。――シドに食べてもらいたかったの。ずっと」
「なんでもっと早く食べさせないんだよ。めっちゃうまいわ」
「ありがとう」私はそう言った。シドは頷きながら、弁当を食べていた。
「なあ、日奈子。これ、昨日帰ったあと作ってくれたんだろ?」
「そうだよ」
「最高だな」シドはそう言って、また弁当に箸をつけて食べた。

35
 ご飯を食べ終わったあと、私の部屋でシドと二人っきりになった。私は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、2つのコップに注いだ。部屋に戻って、シドに出した。
「ありがとう」シドはそう言って、オレンジジュースを私から受け取った。シドは私の部屋の床に足を崩して座っていた。
「これが女の子の部屋だよ」
「茶化すなよ」シドはそう言った。シドの顔は少し赤くなっていた。私はオレンジジュースを机におき、ベッドに行き、枕を持った。
「ほら、これが女の子の枕だよ」私はそう言って、枕を両手に持って左右に振った。
「バカかよ。恥ずかしいなぁ。もう」シドはそう言って、そっぽを向いた。私は枕をベッドに置いたあと、シドの背中に抱きついた。
「ねえ、外だとこんなこともできないでしょ」私はシドの耳元でそう囁いた。
「――そうだな」
「どう?」
「悪くない」シドはそう言った。

「ねえ」私はまたそっとした声でシドの耳元で囁いた。
「なに?」
「こうしてると落ち着くね。――なんでだろう」
「そういう運命なんだよ。俺たち」シドはそう言ったあと、右側に寝転び始めた。
「おー、ちょっとちょっと、持っていかれる」私もシドの身体に抱きついたまま、シドと一緒に寝転んだ。右腕にシドの全体重がかかった。
「あー、ちょっと、腕痛いって」私はそう言ったあと、右腕を無理やりシドの脇腹から抜いた。
「あ、ごめん、ごめん」シドはそう言って笑った。全く悪気がなさそうな、とても軽い謝り方だった。私は起き上がって、一度シドをまたぎ、シドの横に添い寝した。シドは私の髪をゆっくりと撫でた。何度もゆっくりと丁寧に私の頭を撫でた。
「よしよし」シドはそう言ったあと、私に抱きついた。シドの左手が私の胸元の前を通り、私の右肩に左手を添えた。そして、シドは私を左手で自分の身体に寄せるようにした。私の背中がシドにくっついた。

「ねえ」
「なに?」
「もし、今、この瞬間、世界が滅亡したらどうする?」
「なにこれ? ダサいセリフシリーズ?」
「うん。ちゃんと、ちょうどいいダサいセリフちょうだいね」
「後悔する。あともう少しだったのに」シドがそう言ったあと、私とシドは笑った。
「めっちゃ未練タラタラじゃん」
「そりゃあ、そうでしょ。こんな状況でさ、世界に滅亡されちゃ、困るよ」
「ウケる」私はそう言って、肩を震わせながら静かに笑った。私の部屋は今、とても静かだ。時計の秒針がしっかりと響くくらい静かだ。私はシドと二人でシャボンの膜の中に閉じ込められているような心地よさを感じている。このまま時が止まってしまえば、完璧だと思った。時が止まってしまえば、私とシドはシャボンに閉じ込められたまま、安全に二人きりで過ごすことが出来るようになるんだ。だけど、残念だけど、秒針はしっかりと1秒1秒進んでいた。

「ねえ」
「なに?」
「私達、今、シャボンの中に閉じ込められているみたいだね」
「シャボンの中に閉じ込められてるの?」
「うん。シャボンの中に閉じ込められて、ふわふわと浮いてるの。時間の流れもすべて止まって」
「いいかもな。それ。こうやったらどうなるの?」シドはそう言ったあと、左手の人差し指で、シャボンの膜を刺す真似をした。
「はい、破裂。現実に戻りました。残念」私がそう言うと、シドは笑った。
「なにそれ。じゃあ、シャボンを纏うにはどうすればいいの?」
「泡立ててればいいんだよ。シャンプーでも石鹸でもなんでも使って」
「こうやってやればいいの?」シドはそう言ったあと、左手で私の頭をワシャワシャとした。
「ちょっと、やめてよ。髪型崩れる」私はそう言ったあと笑った。
「ごめんって。でも、ほら、見てよ。シャボンの膜できたよ」シドは何もない空間を左手で指してそう言った。
「ホントだ。ねえ、最高だね」
「あぁ。ホント、シャボンの中に入れば、ずっと何も考えずに一緒に楽しく過ごせそうなのにな」シドはそう言ったあと、何もない空間に左手の人差し指で、シャボンの膜を刺す真似をまたした。

36
「俺、6時からバイトなんだよね」
「そうなんだ」
「だから、そろそろ帰るよ」
「――わかった」私がそう言ったあと、シドは立ち上がり、自分のコートを手に取り、そして、コートを着た。そして、シドは玄関まで歩いていった。私はシドの後ろを付いて行った。シドの背中を見ていると胸が苦しくなった。私は咄嗟にシドの腕をつかんだ。
「――行かないで」
「ダメだよ。行かないとオーナーにぶっ飛ばされるよ」
「あのコンビニ、代わりのスタッフくらい、いくらでもいるでしょ」
「そうもいかないよ。バイトは学校と違うんだから、休んじゃダメだよ。迷惑かけちゃう」
「ごめん。そうだよね」私はそう言ったあと、右手をシドの腕から離した。
「――じゃあね。美味しかった。マジで。ありがとう」
「ううん。――また作るね。ばいばい」
「うん。ばいばい」
「――バイト、頑張ってね」
「ありがとう」シドはそう言って、笑顔の表情をしていた。そして、ドアを開けて出ていった。

 シドが出たあと、私は急に力が抜けた。トボトボとした足取りで自分の部屋に戻った。部屋の床に仰向けに寝転がると涙が溢れた。バイトなんてどうでもいいから、ずっとここに居てほしかった。私はまるで明日もシドに会うかのように振る舞ったけど、もう明日、二度とシドと会えないかもしれないと思った。タイムスリップは夢みたいに簡単に終わってしまうのだろう。目覚めたら、27歳の私に戻るはずだ。そして、占い師のおばさんが私を起こしてくれるのだろう。起きたら、もう終わりだ。しばらく泣いたあと、私はおばさんの言葉を思い出した。
 シドが生きているこの世界に留まり続けたかった。私は現実世界に帰ることがものすごく嫌になった。そもそも、これはタイムスリップだと聞かされていたけど、もしかしたら、タイムスリップではなく、私の中の幻想にすぎないのかもしれないと思ったら、急に寒気がした。

 私は親が帰ってくる前に、私服に着替え外に出た。

37
 占いの店の前に着いた。占いの店は一昨日と何も変わっていなかった。同じ看板が雪に埋もれながら、堂々と軒先に立っていた。私は店に入った。
「いらっしゃいませ。今日は相談ですか」
「すみません。タイムスリップした者です。ひとつ聞きたいことがあります」わたしはおばさんにそう言った。
「わかった。どうぞ、なかに入って」おばさんはそう言って、赤いサリーの裾を泳がせて、私を占い席へ案内した。

「お嬢ちゃんがタイムスリップしたってことで合ってる?」おばさんはそう私に聞いた。
「はい。そうです。一つ聞きたいことがあって来ました」
「そうなんだ。その前にリラックスしましょう。今、お茶出すからちょっとまってて」おばさんはそういって、お茶を取りにいった。

 私は大きく息を吐き出した。私にとって、向こうの世界に戻っても何一ついいことなんてないことに気づいてしまった。本屋で残業をし、ヘトヘトで毎日を過ごすことになる。生きがいがあまりない日常に戻ってしまうのだ。そして、シドはもちろん向こうの世界では故人になっていて私は絶望するんだ。それなら、このままこの世界に留まってシドと二人で楽しく過ごしたいと強く思った。

 おばさんがお茶を持って戻ってきた。おばさんはテーブルにお茶を置いたあと、私の前に座った。

「私、帰りたくないんです。元の世界に」
「そう、帰りたくないんだ」おばさんは優しく笑いながらそう言った。
「はい。私、前の世界になんて戻りたくありません」
「そうだよね。お嬢ちゃんのように帰りたくないって相談に来る人は珍しいね」
「そうなんですね」
「だから私も少し驚いてるの。珍しいから」おばさんはそう言ったあとお茶を一口飲んだ。おばさんは私にお茶を勧めた。だから、私もお茶を一口飲んだ。お茶はダージリンだった。前回とフレーバーが違うように感じた。

「それであなたはどうして今、ここにいるの?」
「彼に会いたくてここに来ました」
「彼には会えた?」
「はい、会えました。本当は、今日の朝、彼は死ぬはずでした。だけど、彼は生きています」私がそういうとおばさんは一瞬、驚いた顔をした。私はそれを逃さなかった。
「――だから帰りたくないんだ」おばさんは声色を変えずにそう言った。
「はい」
「残念だけど、それはできないと思う。私にはタイムスリップするお手伝いが出来ても、過去に留まることを手伝うことはできないの」
「留まることが出来た人はいないんですか?」
「そうだね。それはわからない。帰ってきた人しか私は知らないから」
「――私、帰りたくないです。帰っても辛いだけで、戻りたくないんです」
「帰りたくない気持ちはわかるよ。厳しいこと言うようだけど、人って抗えるものと抗えないものがあるの。占い師だからわかるけど、これは抗えないものだと思う。他の人にはできないボーナスだから。残念だけどね」そうおばさんが言ったあと、時計の秒針だけが場を支配した。

「ただ、私が言えることは、寝ることが現実に戻るトリガーになっているということだけかな」おばさんは思いついたようにゆっくりそう言った。
「寝ないと帰らないってことですか」
「そうじゃなくて、単純に2回眠ったときがトリガーなんだと思うの。大体の人はタイムスリップして一夜は過ごせる。だけど、次の夜は過ごせない。それだけのことよ」
「――わかりました。ありがとうございます」
「私が言えることは、ただひとつ。自分で道を切り開いて」おばさんはそう言ったあと、目尻に皺を作り、微笑んだ。

38
 私は占いの店に行ったあと、一人でサッポロファクトリーに寄った。アトリウムの吹き抜けには今日もクリスマスツリーが輝いていた。昨日、シドと一緒に眺めた光景、そのままだった。当たり前だ。クリスマスが終わるまで、この巨大なクリスマスツリーは撤去されない。そんなことはわかっている。私はそのまま、エスカレーターを登り、三階からアトリウムを眺めることにした。適当なベンチに座り、アトリウムのクリスマスツリーをぼんやりと眺めることにした。昨日のことを思い出した。そして、27歳の私に戻りたくないと思った。もし、戻ったとしても27歳のシドが存在している保証はどこにもない。

 だったら、私は今できることをするしかないと思った。私は立ち上がり、地下鉄の駅に戻ることにした。駅を出て、私は走り始めた。雪はしっかりと降りつもっていて、雪道は朝のようにツルツルと滑らなくなっていた。シドのバイトが終わる前にシドのコンビニに行きたいと思った。

 シドのコンビニの前に着いた。携帯で時計を見たら21時57分だった。窓越しにコンビニを覗くと、シドはまだレジにいて、もうひとりの店員と話していた。私は店内に入った。シドは話に夢中で、私が店内に入ったことに気づかなかった。私はホットドリンクコーナーに行き、ココアを手にとった。ちょうど、もうひとりの店員がレジを出た。私は迷わずにレジに行った。
 
「あれ、日奈子じゃん」シドは驚いていた。
「また会いたくて来ちゃった」私はそう言って、ココアをシドに渡した。シドがココアのバーコードを読み取り、レジの操作をした。私は財布を取り出し、120円をシドに渡した。
「俺も会いたかったよ。やるな、日奈子」
「シド、どうしても話したいことがあるの」
「なんだよそれ。死ぬわけじゃないんだから」シドがそう言ったあと、私は少しムスッとした表情を作った。
「マジなやつ」私はそう言った。
「――オッケー、わかった。日奈子、雑誌コーナーで待ってて。すぐ準備するから」シドはそう言って、お釣りをくれた。

 私はシドに言われたとおり、雑誌コーナーでファッション誌を読んでいた。コートのポケットにココアを入れた。ポケットからココアの温かさを感じた。少ししてから、シドがやってきた。シドの気配に気づき、私はシドの方を振り返った。シドは呆気にとられている表情をしていた。私も思わず、呆気にとられた。
「――おまたせ」シドはようやっとそう言った。
「ううん、大丈夫。――どうしたの?」
「いや、大丈夫。外出るか」シドは出口の方を指差してそう言った。

39
 車もまばらな静かな夜だった。時折雪がちらつき、寒かった。きっと気温は氷点下だ。顔に触れている外気は凛として冷たかった。シドはバイト前に家に帰っていたのか、服は制服から、ジーンズにベージュのダウンになっていた。手をつないでゆっくり歩いている。もう、ずっとこうしているだけでいいやと私は思った。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺も会いたいって思ってたんだよ」
「私も」
「じゃあ、両思いだな。今日はそんな気分だったよ。一日」そうシドが言ったあと、私は立ち止まった。
「シド、これだけは言わせて。あなたは私にとって、とても必要なの。ずっと好きだから。ずっと」そう私が言っている途中でシドが私を抱きしめた。一瞬、時が止まったかと思った。鼓動が徐々に大きくなっていく。私も両手をシドの背中に回した。
「――日奈子。ずっと、一緒にいよう」背中で感じるシドの両手は暖かく、顎を当てた肩は硬かった。

40
 どこにも行くあてがなくて、結局、国道沿いのファミレスに入った。もう、明日の学校なんてどうでもよかった。とりあえずドリンクバーを頼み、シドはコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座り、トラックとタクシーしかほぼ通っていない国道を眺めていた。雪は本格的に降り始めていた。
 
「私、眠れないんだよね」
「マジで。もしかして不眠症?」
「そう。結構前から」
「病院行ったほうがいいよ」
「もう、とっくに行ってるよ。眠剤出されてる」
「そうなんだ」
「だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いや、逆だろ。それ」シドは笑いながらそう言った。
「いいの。今夜だけでいいから」
「ってことは、オールか」
「そうだね」私はニコッとしてそう言った。
「こういうとき、酒欲しくなるよな」
「飲めるの?じゃあ、飲もうよ。一杯おごって」
「なに飲む?」
「ハイボール」
「やるな」シドはそう言って、呼び出しボタンを押した。

 ハイボールが入ったグラスが出された。私はグラスが来るまで、未成年だということをすっかり忘れていた。店員は疑いもせず、そのまま酒を出した。目の前にグラスがもうあるんだから、すでに私達の責任ではないと思った。
 シドとグラスを合せた。グラス同士がゆるく触れた音がした。シドは慣れたようにハイボールを飲んでいた。私もハイボールを口に含んだ。安いウイスキーの苦味と炭酸を口の中で感じた。ハイボールを飲み込むと食道がアルコールで熱くなるのを感じた。

「お酒、一緒に飲むの初めてだね」そう言ったあと、もう一口ハイボールを飲んだ。
「そうだな。日奈子と飲むと思わなかった」
「他の人とは飲んでたの?」
「まあね。俺もそういうお年頃だから」シドのグラスはもう残りわずかになっていた。
「ピッチ早くない?」
「こんなもんでしょ」シドはグラスを飲み干して、呼び出しボタンを押した。
「それより、俺は日奈子のことが心配だよ」
「私の心配なんてしてくれるの?」
「当たり前だろ。寝れないのはヤバいよな」そうシドが言ったとき、店員が来た。シドはまたハイボールを頼んだ。

「もう、慣れちゃった。調子いいときは普通に寝れるし、寝れなくても、眠剤飲めば、寝れるときもあるから、まだマシなほうだよ。私の不眠は」
「そうなんだ。今まで知らなくて悪かった」
「いや、シドが謝ることじゃないよ。私、初めてシドに言ったんだから」
「――俺さ、もう少し、日奈子のこと知る努力したほうがいいと思うんだ」
「え、十分してるでしょ」私は笑ってそう言い返した。
「いや、してなかった。もっと一緒にいる努力とか、そういうことすればよかったって思う時があるんだ」シドがそう言ったあと、おかわりのハイボールを店員が運んできた。

「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」シドはそう言って、ハイボールを口づけた。過去のことがフラッシュバックした。何か満たされないあの寂しさが胸に溢れるのを感じた。
「――寂しいに決まってるでしょ。それに苦しいよ」
「悪い。変なこと言ったな」
「シドに死なれたら困るよ、私。何も面白くない20代を過ごすことになるんだよ。目標もなくね」私は泣きそうになるのをごまかすためにハイボールをまた一口飲んだ。
「なあ、日奈子」
「――なに」私がそう言うとシドは両手で私の左手を握った。
「いいか、よく聞けよ。ずっと一緒にいよう。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」シドの目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手でシドの手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。

41
「ごめん。昨日から泣いてばかりだね」私は感情の波がおだやかになってからそう言った。
「いいよ。泣けよ。泣きたいときに泣かないヤツは損するよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」私は笑ってそう言った。口角を上げたとき、まぶたが腫れぼったくなっているの感じた。
「日奈子のハイボール、もう氷溶けて薄まってるよ」シドはそう言ったあと、ハイボールを一口飲んだ。
「いいの。私はゆっくり飲むの。――私ね。ずっとこうしたかったの。シドと。ずっと、こうして話したり、一緒にいたかったの。ずっとね」
「俺もだよ」
「私ね、相談したんだ。苦しくて。そしたら、その相談した人が自分で道を切り開くしかないって言うんだよね。厳しいよ。――私だって、抗いたいよ。私だって。今までのことなんてどうでもいいから、今を生きたいよ。私」私がそう言ったあと、しばらく沈黙が流れた。シドは黙って、私の次の言葉を待っているのがわかった。

「もう、戻りたくないよ。シド。――ねえ、離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」シドはそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。セーターの袖はすぐに涙で滲みた。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさを誘った。

42
 揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
 
 私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見るとシドが立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。シドが右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねるとシドの人差し指があたった。そのあとシドの笑い声が聞こえた。

 窓の外は夜明け前の青さだった。雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。

「おはよう」シドはそう言った。
「おはよう」私は初めてシドに起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。

43
 シドと手を繋ぎ、朝8時過ぎの国道を歩いている。道はツルツルしていて、何人かが尻もちをついた跡が雪道の上に残っていた。国道の横断歩道を渡ろうとしたら、ちょうど青信号が点滅した。私達は立ち止まり、信号が青になるを待つことにした。駅と反対方向に向かっているから、私とシド以外この信号を待っている人はいなかった。

 穏やかな朝だ。変な体勢で寝ていたから、身体が妙に痛かった。ふたりとも当然のように学校に行く気はなかった。右折してきた車が一台、スリップしているのが見えた。
「危ない」シドがそう言った。私は右側から大きく押され、投げ出された。私は受け身を取れず、左肩から地面に着き、雪溜まりの方まで仰向けのまま滑った。

 何が起きたのかわからなかった。左肩、左腕が痛い。だけど、大きな音がしたのはわかった。空は冬らしい澄み切った水色をしていて、白くて弱い太陽が眩しかった。