18
 寒い。ものすごく寒く感じる。肌をさすような冷たさだ。雪が降っている。私はコートを着ていた。袖を見ると黄色だった。そのあと、胸元あたりのボタンを見ると黒色のものだった。気に入っていた黄色のダッフルコートを着ている。さっきまでのTシャツの軽さと比べるとすごく重かった。頭にはフードを被っていた。
 私は、白い道で立ち止まっていた。実家から地下鉄の駅まで行く道だった。降ったばかりの凛とした雪の匂いがした。すでに雪は15センチくらい積もっていた。

 本当に過去に来たのかもしれないと思った。私は抱えていた白いバッグの中身を確認した。財布と携帯、ポケットティッシュが入っていた。携帯はiPhoneではなかった。

 携帯を取り出し、時間を確認した。12時過ぎだった。メッセージの通知があった。メッセージはシドからだった。『ヒロシ前、着いたよ』という文面が表示されている。

 私は慌てて地下鉄の駅まで走った。

19
 大通駅に着き、南北線の改札口を抜けた。地下街へつながる改札前の地下通路の暖房があまりきいていなかった。出口から吹き込む風がとても冷たかった。地下で反響する無数の足音と話し声の雑音はいつもどおりだった。寒くて、身体が震え、歯がカチカチと弱く音を立てている。三越の広場にある黄色いHIROSHIの液晶画面には天気予報が写っていた。札幌は-2℃と書いてあった。

 広場にはいくつものアルミの柱が立っていて、柱にはドーナッツのような赤いベンチが取り付けられている。待ち合わせをしている多くの人が、ベンチに座り、柱に寄りかかっていた。そして、ほとんどの人が携帯を見ていた。

 シドは三越のショーウインドウの前に立っていた。シドは携帯をいじっていた。シドはベージュのダウンに黒のパンツを履いていた。ショーウインドウによりかかり、右足を左足首に組んでいた。私は立ち止まり、しばらくシドの姿を眺めていた。手が熱くなり、手のひらに少し汗が滲んだのを感じた。

 壊れかけた時計の秒針のように鼓動が大きくなった。胸から飛び出そうなくらい大きな音を立てている。シドが顔をふと上げた。そして私と目があった。シドの目は優しくぱっちりしていた。シャープな顔立ちとセンターパートの髪型がとても似合っていた。耳に付けているシルバーのピアスが照明に反射していた。

「日奈子、待ってたよ」シドは私に近づいてそう言った。私はその場で立ち止まったままでいた。
「――ん?どうしたんだ日奈子」シドはもう一度私にそう呼びかけた。私はシドの声を聞いて鳥肌が立った。こういう声だった。遠のいていたシドの声、仕草、立ち姿の雰囲気。私は今、目の前にいるシドから衝撃を受けている。
「――ごめん。遅くなって」私はそう言った。少し、力んだ声になった。
「いいよ。そんなことより、ランチ行こうぜ」シドはそう言って、左手で私の右手をつないだ。


20
 地下通路を歩き始めた。誰かに手を引かれるのは10年ぶりだった。シドの手は暖かく、ゴツゴツしていた。私はこの感覚を忘れていた。思わず泣きそうになり、再び立ち止まった。シドもすぐに立ち止まり、そして、振り返った。不思議そうな顔で私を見た。

「どうした? ――ウソ。泣いてる」シドはそう言った。
「――ごめん」我慢できず、涙が何粒も溢れ出てしまった。私は左手で口を覆い、指を目頭に当てた。シドの顔を見ることができなかった。
「どうした。日奈子」シドは笑いながらそう言った。シドは私の手を引いて通路の壁側へ移動した。地下街を歩く何人かの人達は私達のことを見て見ぬ振りをしていた。そうした視線は感じたけど、私の涙は止まらなかった。私はバッグからポケットティッシュを取り出し、ティッシュを目頭に当てた。シドは私の背中をさすった。それでより涙が溢れてきた。

「ごめん。もう落ち着いた。――大丈夫。行こう」私はそう言ってシドの手を引いた。シドと手を繋ぎ、歩き始めた。
「日奈子。ごめん。俺、なんか悪いことしたかな」シドは心配そうな顔で私を見ていた。
「ごめんね。違うの。時間に遅れた自分に不甲斐なく感じたの」
「気にするなって。俺はなんとも思ってないから」
「ううん。これは自分の問題なの。ねえ、どこのお店行くの?」
「めっちゃ食えて、最高なところ。こっちだな」シドはそう言って出口の方を指した。

21
 イタリアン食べ放題の店で、パスタとピザを90分かけてかなりの数を食べた。そして、お腹いっぱいのまま、サッポロファクトリーまで歩いた。外は雪がかすかに溶けていた。車道の雪は溶け切り、アスファルトは黒く濡れていた。

 シドに手を引かれながら、シドのバイトの話とか、友達の話を聞いていた。ファクトリーに着き、映画を見ようと言われた。手をつないだまま映画を観た。私は時折、映画を見ているシドの表情を観た。シドは真剣に観ているフリして、後半寝ていた。このまま一緒にシドといれたらどれだけいいのだろうと思った。もし、過去を変えたら、明日の夜、眠って、おばさんのところに戻ったら、シドは向こうの世界でも生きているのだろうか。
 
 映画は主人公が雨の中、ヒロインを救い出していた。そして、ビルとビルの間で追手を巻き、びしょ濡れでキスをしていた。もし、明日を変えることができるのなら、私はこのままがいいと思った。

22
「寝てたでしょ。後半」そう言ったあと、私はカプチーノを一口飲んだ。
「いや、寝てないって。覚えてるって」シドはコーヒーが入ったマグカップを持ち上げながらそう言った。
「したら、教えてよ。後半」
「あれでしょ。追われてた。敵に」
「それで?」
「うーん、なんとかなった。うん、いい映画だった」シドはコーヒーを一口飲んだ。
「絶対、寝てたでしょ」私は笑った。
「昨日、バイト長くてきつかったんだって」
「そうなんだ。それでも、有罪だね」
 カフェの窓から見える外はすっかり暗くなっていた。日曜の5時を過ぎたカフェは客はまばらだった。淡い電球に照らされたと木でできたテーブルや椅子の色がとてもファンタジックでシックな空間を作っていた。サッポロビールの工場を再利用したレンガ館やサッポロビールの煙突を登るサンタクロースのオブジェがオレンジ色の照明と青と白の電飾で彩られていた。
 昨日、一人でサンドイッチを買ったときと同じカフェなのに華やかさが違うように感じた。クリスマスの所為かもしれないけど、シドといると世界が明らかに違うような気がした。

「ねえ、シド」私はシドのことをまっすぐ見てそう言った。
「なに?」
「――疲れてるのにデートに連れて来てくれてありがとう」
「どうしたんだよ。急に。――照れるな」
「私のために無理をしてくれてるってところがギュッと来るよ。すごくね」
「君のためなら俺は死ねる。――このセリフ、一回言ってみたかったんだよな。使っちゃった」
「相変わらず、ダサいセリフ好きだね」私はそう言って、笑った。
「こういうところで、ダサいセリフを言うから、味が出るだろ?」
「水風船の時みたいに?」
「あれ、あのとき、俺、なんて言ったっけ?」
「『もし、俺が明日死んでもいいようにこれやろう』って言ってたよ」私がそう言うと、シドは笑った。
「ダッサ。今日のセリフのほうが、かっこいいじゃん」
「そう? どっちもどっちだよ」私はそう言ったあと、カプチーノを一口飲んだ。
「あ、ひげ出来てる」シドは私の唇あたりを指さしてそう言った。私は慌てて、トレーに乗っかっていた紙ナプキンで口を拭った。
「あ、ズルい。飲んだあとすぐにそういうこと、指摘するんだから」私は左手の人差し指でシドを指さして、大げさにそう言った。
「だって、カプチーノの泡、口に付いてるんだもん」
「なんか、こういうのもさ、ダサいセリフで言ってみてよ」
「えー、なんだろう。君の白いひげに触れたい」
「うーん、微妙だね」
「だよね」シドがそう言ったあと、私とシドはお互いに笑った。久々に自然に笑ったなと私は思った。私はここ最近、笑うことも少なくなっていたと思う。桜子と話していてもお腹の底から楽しいと思って、笑うことは最近ものすごく減っていた。シドがいるだけで、こんなに違うんだと思った。

「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺って、淡白かな」
「え、そんなことないよ。どうして?」
「だってさ、映画館で寝ちゃったんだよ。俺」
「――いいんだよ。それを含めてシドなんだから、それでいいんだよ」
「優しいな。日奈子は。普通だったら怒るよな。そんなことしたら」
「普通ならね。だけど、今は普通じゃないから、私にとっては何でも貴重に思えるの」
「普通じゃない?」
「うん。私、今が一番楽しいよ。久しぶりにこんな気持ちになった。――こんなの久しぶりだよ。ホントに」
「――そっか。俺も今が楽しいよ。こう見えても」
「わかってるよ。だから、シドが淡白だろうがどうだっていいの。今、ここにシドが居てくれるだけでいいの。シドがいない世界なんて、退屈で真っ暗だから」
「日奈子、こうやって、ずっとクリスマス気分を味わうにはどうすればいいんだろうな」
「タイムスリップしちゃえば、叶うんだよ。きっと」
「タイムスリップ?」
「うん、何回もタイムスリップすれば、何回も今日と同じような気分に浸ることができるでしょ。だから、タイムスリップが一番現実的」
「非現実だね」
「クリスマス近いからね」
「――クリスマス、バイト入っちゃってごめんな」
「ううん。今日でも十分だよ」
「来年はクリスマス・イブにクリスマス気分を味わえたら最高だな。二人で」
「――うん、そうだね」私はそう言ったあと、また不意に涙が溢れそうになった。
「ごめん、トイレ行ってくるね」私はそう言って、立ち上がり、早足でトイレまで行った。

23
 トイレに着き、洗面台の鏡で自分の顔を見た。すでに目は充血していた。私は両手で頬を2度叩いた。日奈子、しっかりしてくれよと思った。鏡に映る私は17歳であどけなさがまだ十分に残っていた。黒髪ボブの少女がそこに立っていた。メイクだって今より、下手くそだけど、下手くそなりに頑張っていた。そのメイクも何度も泣いた所為でボロボロになっている。私はバッグからポーチを取り出して、ファンデーションを塗り直した。最低限のメイクの崩れをすんなりと直した。

 10年ぶりに会ったシドはあどけなく感じた。やっぱり、高校生なんだと思った。シドは几帳面で、少し大人びた面があると思っていた。だけど、それは私の中で、思い出で補正されていただけで、今、接すると17歳、年相応に感じた。別に幻滅しているわけではない。一緒に歳を取ることが出来ていないんだから当たり前だ。私は今、17歳の肉体だけど、内側は27歳、歳をとっているんだ。だから、アラサーが求める落ち着いた恋愛とは違う。だけど、それでも十分だ。シドと会って、こうやって話しているだけで、十分だ。 

 メイクを直しているうちに気持ちも少しずつ落ち着いてきた。シドの未来は明日で終わってしまうのに、本人はそれを知らない。当たり前の話だけど、とても残酷に思えた。もう二度と一緒にクリスマスを過ごすことはないし、もう二度と一緒に手を繋ぐこともないんだ。占いのおばさんが言っていたとおり、これはただのツアーで、私はこの時代を見物に来た観光客に過ぎないんだ。だから、シドが死ぬ未来がわかっていても、その運命を変えることはできないんだ。
 
 だったら、残り僅かなシドとの時間を味わえばいい。ただ、それだけだ。私はメイク道具をポーチに片付けて、バッグに入れた。そして、トイレを出た。

24
 シドと一緒に手すりにもたれながら、アトリウムが一望できる2階の踊り場から大きなクリスマスツリーを眺めていた。クリスマスツリーは地下から3階くらいまでを貫いている。クリスマス色の電飾が木をぐるぐると覆っていて、それらの光の反射で赤やゴールドの大きなオーナメントがファンタジックに反射していた。ドーム状になっている天井ガラスの中央から、青白い電飾の帯が左右に広がって吊るされている。青い光の中を時折、白い光が流れていた。だから、アトリウムの中は青白く、ツリーのカラフルな電飾が混ざり合い、淡い空間になっていた。

「ねえ、写真取ろうよ」私はそう言って、携帯をバッグから取り出した。
「いいね」シドは笑顔でそう言った。私は携帯のカメラを起動した。右手でシドの腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、シドの身体に首をもたれて、シドと私とクリスマスツリーが入るように自撮りした。

 自撮りし終わったあと、手すりの後ろにあるベンチに座った。シドはベンチに座っている間も私の左手をつないでいた。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子って最高だな」
「最高ってどういう意味?」
「最高って。――好きだってことだよ」
「――私も。最高に好きだよ」
「――照れるな」フッと笑ったあとシドはそう言った。
「照れないでよ。好きだよ。本当に」
「なあ、日奈子」
「なに」と私が言ったとき、シドは私にキスをした。唇が重なったまま数秒間の時が流れた。シドの唇は柔らかくて、温かった。シドはそっと唇を離した。そして、何秒間かシドの目を見たまま、また時が流れた。シドの瞳は茶色くて、吸い込まれそうなくらい透明だった。そのあとシドは微笑んだ。

「ねえ」私はシドに話しかけた。
「なに」
「私達、このままで居れたらいいね」
「そうだね」
「永遠にこのままで居れたらいいのに」
「永遠に居たいな。日奈子」
「うん」私はそう言ったあと、左手でシドの右手を握った。するとシドは右手でしっかりと私の左手を握り直した。

「ねえ。もし、私が死んだらどうする?」
「日奈子が死ぬの?」
「うん。私が明日死ぬとするじゃん。シドはそのことがわかってて、悩んでるの。どうしよう、明日、日奈子が死んじゃうって。そしたら、今、この瞬間、どういう行動する?」
「うーん、死ぬことはわかってるんだ。――そしたら、簡単だよ。俺だったら、日奈子が死ぬのを阻止する」
「どうやって阻止するの?」
「教えるんだよ。日奈子に。明日、日奈子が死んじゃうことを知っちゃったんだ。だから、絶対、明日は一緒に居ようって。一緒に居たら、たとえ病気で倒れても、事故に巻き込まれても救えるじゃん」
「――私が死ぬことを知ったら教えてくれるんだ」
「うん。死んでもらっちゃ困るからね」シドはそう言った。シドを見るとシドは笑っていた。
「私もだよ。――シドにはまだ、死んでほしくない」
「俺も死ぬ気はないよ」
「本当に?」
「うん。マジなやつ。ほら」シドはそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私はゆっくりと右手の小指をシドの小指に結んだ。
「俺さ、たまになんでもっと早く日奈子に告白しなかったんだろうって思う時があるんだ」
「え、あのとき、私のこと好きになったから告白してくれたんじゃないの?」私はそう言った。

25
 シドに告白されたのは高校一年生のときの夏だった。私はいつものように一人で学校から帰ろうと、下駄箱から自分の靴を取り出していたときに、シドに声をかけられた。そして、成り行きでそのまま地下鉄の駅まで歩くことになった。シドとは中学校も一緒だった。だから、面識が無いわけではなかった。
 だけど、別に特別、仲がいいというわけでもなかった。同じクラスだったということ、そのとき、席が隣になったことがあり、給食のときや授業中にペアになったり、一緒に日直をやったりはした。話しているとき、シドの話は楽しかったし、ノリも意外に合った。だけど、それ以降、接点もあまりなかったし、友達のグループも違えば、共通の友達もいなかった。だから、このとき声をかけられたのは意外だった。

 そして、地下鉄の駅までは行かずに近くの公園のベンチに座って、話すことになった。自販機で缶コーラを二つ買って、ベンチに座った。コーラを開けると炭酸が爽やかに抜ける音がした。シドと乾杯をして、コーラを一口飲んだ。炭酸が強くて、耳の奥が少し痛かった。空は宇宙まで突き抜けるくらい快晴で、午後のまったりとした時間がこの公園を支配していた。目の前に見えるだだっ広い芝生には人気があまりなく、私とシドだけぽつんと二人っきりで残されたような世界観に思えて、妙に緊張した。時折、涼しい風が吹き、風が吹くたびに芝は風上になびいていた。

「なあ」シドはそう言って沈黙を破った。
「なに?」
「俺らさ、同じ高校に入学したのって、なんか妙な縁な気がするんだ」
「そう? 桜子だって同じだよ?」
「そうだけどさ、日奈子と桜子みたいに示し合わせて、一緒の高校に入ったわけではないじゃん」
「まあ、そうだね」
「俺、日奈子のことずっと気になってたんだ。だけど、全然、今まで接点なくてさ、どうしようって思ってたのさ」
「――え。なんで私なの?」
「なんかわからないけど、ずっと気になってたんだよ。どうしてだろうな」
「ねえ、どうして?」
「――俺さ、気づいたんだ。日奈子のことが好きだってことに」
「え――」
「だから、俺と付き合ってください」シドはそう言ったあと、右手を私に差し出して握手を求める姿勢をしていた。
 私は突然のことに戸惑った。これまで全くシドのことを恋愛対象として意識していなかった。というよりもまだ、私は高校一年生にもなって、恋愛をしようというスイッチが全く入っていなかった。だから、誰かと付き合いたいとか、デートしてみたいとか、そういう考え方の回路がいまいち欠けてた。だから、自分が恋愛しているのを想像できなかったし、誰かから思いを寄せられているとも思っていなかった。しかも、接点もあまりなかったシドにそう言われたから、余計に戸惑った。
 
 私は右手でシドの右手を握った。こういうとき、どう言えばいいのかわからないけど、とりあえずいいよって言えばいいのかと頭の中で考えた。そして、一度大きく息を吸った。
「いいよ」私は小さな声でそう言った。声はなぜか少しかすれた。
「よっしゃ。ありがとう」シドはそう言った。これまで硬かったシドの表情が一気に笑顔になり、見るからに喜びを爆発させていた。こんなに私と付き合うって事実でテンションあげてくれるんだと、私は実感が持てないままそう思った。

26
「本当はさ、中学のときに日奈子に告ればよかったんだよ。そしたらさ、日奈子との思い出がもっとたくさんできたんだろうなって思うんだ」
「そっか。そういうことね」
「そうそう。だから、死ぬわけにはいかないんだよ。俺は。日奈子とこうやって何気なく過ごせる時間をたくさん作りたいんだよ」シドはそう言った。私はそれを聞いて、また泣きそうになった。だけど、ここでまた泣いても仕方がないのもわかっていた。私は一瞬、息を止めて、ぐっと胸に力を入れて、泣くのを我慢した。
「――私が意識し始めるのが遅かったんだよ。シドが私のこと気になっているのだって気づけなかったんだから。中学のときから私のこと、気にかけてくれたんでしょ」
「うん。日奈子のことしか見れなくなったよ。だけど、あのときの俺は消極的だった。また日奈子と隣の席にならないかなって思ってたんだもん。俺はチキンだったな。あのとき」
「その歳の男の子なら誰でもそうだと思うよ。みんななにかに気づいて大人になっていくんだよ。きっと」
「そっか」
「うん。そういうものだよ。私だって、そうだし、シドだってそうだよ。年相応にみんな進化していくんだよ。自然に」
「そういうものなのかな。俺、もっと早熟がよかったな」
「そうなの? 年相応のほうが絶対いいよ。順当に」
「順当か。――俺は単純だからさ、もっと日奈子とこうして付き合いたかったってだけだよ。だって、かわいいもん。日奈子、見てたらさ。可愛くて、ほっとけないよ」シドはそう言ったあと、右手を力を入れたのがわかった。私の左手が少しだけギュッと破裂しそうになった。
「痛いよ、もう。力入れすぎ」私はそう言ったあと、左手からシドの手を弱く振り払い、シドの右手の甲をとんと叩いた。
「ごめんって、つい力入っちゃった。話してるうちに」シドはそう言ったあと、右手で私の左手をもう一度、握り直した。

27
「家まで送るよ」シドがそう言った時、一緒に乗り込んだ地下鉄はちょうど発車した。
「吹雪いてるからいいよ。それより、明日、一緒に学校に行こう」私はそう言った。
「わかった」
「明日さ、駅で合流しようよ」
「え、いつもどおりスーパーの前でいいよ」
「いや、たまにはさ、駅で合流してみようよ」
「だからいつもどおりでいいって」
「――そしたら、時間。少し早くしない?いつもより10分早くしたいな」
「いいけど、どうして?」
「なんとなく嫌な予感がする」
「なにそれ。こっわ」
「真面目な話。――シドに死んでもらっちゃ困るの」
「え、俺、死ぬの? 明日?」
「うん。――今朝、そんな夢みたの。シドが死ぬ夢」
「そっか。だから、今日変だったんだな。会った時から泣かれたりさ。日奈子、俺は死なないよ。まだ、17なのに死んでたまるかって」
「――そうだね。本当に死なないで。死んでほしくないの」
「大丈夫だって。俺、そんなに簡単に死なないって」
「ねえ、約束して」私は真剣にシドを見つめた。
「――わかった。そうするよ」シドは私を見つめてそう言った。私はシドの瞳に吸い込まれそうになった。膝においていた私の左手の小指にシドは右手の小指を絡めた。小指と小指を結んだまま、地下鉄の窓から流れる白い蛍光灯と窓に写っているシドと私の姿を眺めていた。
「ねえ」
「なに?」
「明日のお昼、一緒に食べたいものがあるの。だから、コンビニでパン買わないでね」
「わかった」
「約束して」私はそう言ったあと、もう一度小指を数回揺らした。そして、そっと指を離した。

 駅の改札を抜けてシドと別れた。シドは反対方向の出入り口へ向かった。私はシドの後ろ姿をしばらく見てから、歩き始めた。上手く待ち合わせの時間を変えることが出来た。明日はシドの命日だ。30秒でも違えば、結果は違うはずだ。もしかしたら、私はもうすでにシドを救えたのかもしれないと思った。

28
 私はシドと別れたあと、近所の24時間営業のスーパーに向かった。地下鉄の駅から出ると、外は吹雪いていた。時折吹く突風が冷たく顔に突き刺さった。そして顔が濡れた。駅前の4車線の道路は車はまばらで、タクシーばかりが通っていた。凍り始めた道路の上に雪がつもり、つもった雪の白さで街灯のオレンジ色がまばゆく反射していた。

 スーパーで200グラムくらいの鶏もも肉と、コチュジャン、6個入の卵、2分の1のレタス、そして、蓋付きの使い捨て容器をささっと買った。レジで財布の中を見たとき、2000円しか入ってなくて、一瞬ヒヤッとした。それらを買うと財布は小銭だけになった。

 スーパーを出る時、吹雪はよりひどくなっていた。自動ドアの先に見える歩道は無数の人が踏み均した細い道があったはずなのに雪が吹き溜まって道が無くなっていた。フードを被り、思いきって外へ出ると、雪が叩きつけるように全身に降り掛かった。

29
 親はもう、すでに寝ていたようで、家の中は静まっていた。私は一通り着替え終わったあと、玄関に置きっぱなしにしていた、食材が入ったビニール袋をキッチンまで持っていった。キッチンの電気を付けた。キッチンから漏れる光でダイニングキッチンの先にあるリビングが薄暗く浮かび上がっていた。

 私は炊飯器から釜を取り出し、一合の米を入れ、米を研ぎ、早炊きで炊飯器をセットした。その後、鍋にサラダ油を入れ、IHコンロの上に鍋を置いた。IHのスイッチを入れ、160℃に設定する。ボールに酒と塩、こしょうを入れた。そして、冷蔵庫にあったチューブのおろしにんにくを入れ、スプーンでかき混ぜた。そして、鶏もも肉をキッチンはさみで一口サイズに切り、ボールの中に入れ、漬け込むことにした。

 換気扇をつけるのを忘れていたことに気づき、換気扇を付けた。

 もも肉に下味を付けている間、レタスを洗い、適切なサイズに手でちぎった。そのあと、ボールとフライパンを取り出した。ボールのなかに片栗粉を入れておいた。そして、フライパンには、コチュジャンとケチャップ、しょうゆとみりん、オイスターソースを入れ、それらをスプーンでかき混ぜた。香りを嗅ぎ、いつも作っている味になりそうなことを確かめた。

 もも肉を揚げ終わったあと、卵焼きも作った。卵焼きが出来たころ、米も炊けた。フライパンを温めタレにとろみが付き始めたところで揚げたもも肉をすべてフライパンの中に入れた。タレと肉汁が絡まり甘く香ばしい匂いがキッチンに広がった。

30
 洗い物をして、プラスチックの使い捨て容器2つにご飯とおかずを入れ終えた。キッチンを一通り片付け終え、寝る支度をした。自分の部屋に行き、携帯の写真に入っていた、月曜日の時間割を確認してかばんに教科書を入れた。携帯で目覚ましをセットし、充電器を携帯に付けた。電気を消し、ベッドに寝転んだ。大きく息を吐くと一緒に涙がたくさん溢れた。シドのこじんまりとした葬式がフラッシュバックした。シドの家族は、みんな泣いていた。だから私は泣かないことにした。そして、そのまま泣かずに日常を過ごすことを決意したのを思い出した。
 もし、シドが明日死ななければ、私は生まれ変わるかもしれない。僅かな可能性に期待してもいいような気がした。だって、本当に過去に戻れたんだから、過去を変えることだって出来ると思う。シドが生きている世界に帰れば、私達はきっと幸せな27歳を過ごしているはずだ。帰った世界の私は左手の薬指に結婚指輪をしているかもしれない。本当に過去を変えることが出来るんだったら、変えたい。

 久々に強い眠気を感じ、そのまま私は眠った。

31
 寝坊した。
 
 私は焦った。時間を見て絶望した。このままじゃ、シドが死んでしまうと思った。慌てて身支度をした。弁当を持ったことを何度も確認して、女子高生の格好をして家を出た。

 外はスッキリと晴れていた。水色の空が気持ちよかった。そんなのはどうでもよかった。私は走り始めた。雪の下は氷になっていて、その上につもった雪で何度も滑りそうになった。このままじゃ、また同じ結末になってしまうと思うと、誰かに鷲掴みされているかのように胸が痛くなった。
 今日に限って、道はツルツルだった。だから走ることはとても難しかった。私は、競歩みたいな速さでなんとか、待ち合わせの場所の向かい側まで来た。
 横断歩道がちょうど赤になった。道の向かいにいつも待ち合わせているスーパーが見えた。シドはまだスーパーの前にはいなかった。シドの家の方面を見ると、奥からシドが歩いてきているのが見えた。シドは携帯をいじりながら歩いていた。シドはまだ私のことに気づいていないようだった。

 信号が青になり、待っていた車も動き始めた。信号が変わってすぐに私も横断歩道を渡り始めた。横断歩道は思った以上にツルツルになっていた。凍ったアスファルトが朝日で照らされ光っていた。横断歩道を待っていた何人かの人たちもゆっくり慎重に渡り始めた。みんなペンギンの散歩のように慎重に、静かに横断歩道を渡っていた。やっとの思いで横断歩道を渡り切り、私は走って、シドの方へ向かった。シドは私に気づいて手を振っていた。私は手を振り返さなかった。
 「シド」と大声で呼んだ。右足を踏み込んだ時、右足の摩擦がなくなった。そして、右足と左足は宙に浮き、私は尻もちをついた。シドをあの場所から動かさないと、と私は思った。だけど、身体は鈍く痛んだ。早く立たないとと思いが空回る。心臓が破裂しそうなくらい音を立て、冷静に危機を感じた。
 遠くから日奈子って声が聞こえた。シドが走ってきているのが見えた。私は両手を雪道についたまま、尻に鈍い痛みを感じ、上手く立ち上がれなかった。

 シドは息を少し切らしながら、私に右手を差し出していた。私がシドの右手をつかもうとしたとき、前の方で大きな音がした。そして、車が一台、シドの後ろに突っ込んできた。