太陽が西に傾いて、なんとなく寂しさが漂い始めた。昼間の蒸し暑さも少し和らいで、蝉の声も落ち着き始めている。ただでさえ静かな町なのに、夕方の気配につられるように、道路には人っ子一人いやしなかった。気まぐれな猫がにゃあにゃあと鳴いて、信号を無視して歩いていく。

 ぼくの家から数メートルほど離れた場所で、蒼葉は車を停めた。助手席から降りると、蒼葉が後部座席から荷物を出してくれた。

「ほら」
「ありがとう」

 リュックを背負ったら、思い出の重さが、ずしんと肩にのしかかってきた。

 ぼくは確かめるようにぐるりと周りを見渡した。海もない。白い砂浜もない。「リリィ・ローズ」もない。波の音も聞こえてこない。ぽつぽつと間隔を開けて並ぶ一軒家。敷き詰められたコンクリート。寂しげなカラスの鳴き声。昨日までと全く違う、見慣れた景色が広がっている。 

「そんな顔するな。また会える」

 蒼葉は明るく笑って、ぼくの髪を指で梳いた。細い指の隙間から、砂のようにさらさらと、ぼくの髪がこぼれ落ちていく。

「……蒼葉」
「何だ」
「ぎゅうってして」

 縋るように両腕を伸ばした。蒼葉はその場にしゃがみこむと、ふわりとぼくを包み込んだ。

 ぼくは反抗するように蒼葉の首に腕をまわした。優しい抱擁なんていらなかった。命を奪うくらい強く抱き締めてほしい。首を絞めるほど強く力を込めたら、壊れそうなくらい強く抱き返された。腰に絡んだ両腕が、バラの蔓みたいにちくちくと体中を刺激する。その痛みが嬉しくて、このまま一つになれたらいいと思った。

「絶対、また会いにいくから」
「ああ」
「泳ぎももっと練習する」
「ああ」
「だからその時は、ぼくを、おんなにしてね」
「分かってる。……約束だ」

 蒼葉の腕の力が緩んだ。ぼくらは互いの顔を見つめ合って、額をこつん、とくっつけた。だらしない顔でふふっと笑って、糸を引くように体を離す。それでも懲りずに、ぼくたちは右手の小指を絡めた。

「指切り、げんまん。嘘ついたら針千本飲ーます……」

 指、切った。

 呪いの言葉を唱え終えて、ようやく、指を離した。小指が火傷をしたみたいに熱かった。もう少し、体を重ねていたかった。指を絡めていたかった。

「今ちょっと、おんなの顔してる」

 蒼葉はおかしそうににやりと笑って、ぼくの頬に手を添えた。

「海で、待ってるから」

 ぼくは黙って頷いた。今ここで口を開いたら、涙がこぼれてしまいそうだった。もう二度と、離れられなくなるような気がした。数秒先に別れが見えた。

 ぼくは蒼葉に背を向けた。さよならを言いたくなくて、早足で歩き出したら、後ろから声が飛んできた。

「野ばら」

 ぼくはすぐに足をとめた。

「なぁに」

 振り返ると、蒼葉は何も言わずにぼくを見ている。ぼくは小走りで蒼葉の元に駆け寄った。

 蒼葉はぼくの右手を取ると、ぎゅっと何かを握らせた。手を開くと、そこには花の形の指輪があった。

「『リリィ・ローズ』の仲間の証。お前に貸す」
「くれるんじゃなくて?」
「貸すだけ。中学卒業したら、返しにこい。俺が死んでたら、そのままやるよ」
「やだよそんなの。……形見になっちゃう」
「そうならないように、気をつける」

 蒼葉は冗談っぽくそう言うと、愛おしそうにぼくを見つめた。薄い唇が、何か言いたげに小さく震えた。なぁに、と聞くと、蒼葉は「いや……」と小さく首を振った。

「バラの花言葉、知ってるか?」
「……うん。知ってるよ」

 忘れるはずがない。絶対、忘れない。

「――『密かな恋』」

 蒼葉はぼくを引き寄せると、額についばむようなキスをした。

 たとえ何年時が流れても。このぬくもりを忘れない。今日も明日も明後日も、ぼくはきっと、海のにおいに抱かれ続けるだろう。
 重ねていた体が離れた。風の力を借りて、ぼくは背を向けて走り出した。振り返ることはもうしない。背中に焼きつく太陽のような視線を感じて、ぼくは家へと走っていった。

 今はきっと、これでいい。この小さな想いを心に植えて、花が咲くのをじっと待つんだ。

 そして五年後、花が咲いたら、もう一度ちゃんとキスをしよう。
 だからそれまで。


 さよならぼくの初恋の人。