翌日。朝ご飯を食べ終えた蒼葉は、烏丸先生の元へと車を走らせていった。

「じゃあ、行ってくる」

 車に乗り込む直前、蒼葉は安心させるように微笑んだ。膝を少し曲げて、ぼくと目の高さを合わせる。

「必ず戻ってきてね」

 ぼくはぎゅっと蒼葉の腕を掴んだ。

「もう、どこかに行こうとなんてしないでね」
「分かってる。……心配するな」

 穏やかな声で答えて、ぼくの頭をぽんぽんと叩いた。ぼくはうん、と頷いて、蒼葉の腕から手を離した。

 砂埃を舞い上がらせて、車がどんどん離れていく。蒼葉がいなくなったら、また、波の音が大きくなった。

「……大丈夫、だよね」
「大丈夫だよ」

 後ろに立っていた神奈が、力強く答えた。

「あいつだって、もう子供じゃないんだから。逃げるのは、もうおしまい」
「……そうだね」

 ぼくは笑って、なびく髪を手で押さえた。蒼葉はもう、海を恐れない。もう命を捨てようとはしない。長い逃避行は、終わったんだ。

「野ばらちゃんのおかげだね」

 ぼくは振り返った。神奈は嬉しそうな、でもちょっぴり悔しそうな顔で笑った。

「僕にできないことを、君はすぐにやってのける。うらやましいよ」

 蒼葉が帰ってくるのを待ちながら、ぼくは神奈と海に入った。蒼葉に言われたことを思い出しながら、イルカの真似をして泳ぐ。やっぱりまだまだ、蒼葉のようには泳げない。相変わらず息継ぎは苦手だし、足だってすぐに着いてしまう。「なんだか今日は熱心だね」そう言って驚く神奈に、「蒼葉と泳ぐ時のために、練習してるの」と答えた。そう、それが、ぼくが見つけた小さな夢。いつか来る、幸せな未来。

 太陽が海に近づいた時間。蒼葉はひょっこりと戻ってきた。ぼくらは言葉を交わすこともなく、自然と秘密の場所へと向かった。もう何度も見た赤い空を、ぼくと蒼葉は膝を抱えて眺めた。

 夕暮れ時になると、海は寂しさを増す。神奈も、めぐさんもいない、二人だけの時間。穏やかで、静かで、少し寂しい。

「五日後、入院することになった」
「そう」

 ぼくは短く答えて、ぴったりと蒼葉にくっついた。細い腕に腕を絡めて、慰めるように頬をすり寄せる。大丈夫だよ、というように、蒼葉はふっと目を細めた。

「……ユリに、会いにいこうと思う」

 ぼくは蒼葉の顔を覗き込んだ。

「全部、話す。体のことも、今までのことも」
「……そっか」
「お前は、どうする」

 真っ赤な太陽がみるみるうちに沈んでいく。生温かい潮風が、頬をするりと撫でていった。

「ぼくは、帰る」

 言葉にしたら、ちょっとだけ、心が揺らいだ。

「ほんとはまだ不安だけど……蒼葉が、ぼくを受け入れてくれたから。もう、大丈夫だと思う」
「……大人になったな」
「まだだよ。まだぼくは、おんなじゃないもん」

 ぼくは試すように口の端を上げた。

「蒼葉がおんなにしてくれるんでしょ?」
「……五年後。生きてたらな」
「生きてるよ。絶対」

 蒼葉は寂しそうに微笑んだ。

「五年後って、お前いくつ?」
「えーっと……十五歳。中学三年生」
「じゃあ、会うのは春だな」
「春?」
「卒業したあとってこと。義務教育の終わりが、大人の始まり」

 ふぅん、と呟いて、ぼくはもう一度夕焼けを眺めた。一日の終わり。長い長い、逃避行の終わり。別れの時が近づいている。胸が、きゅうっと苦しくなった。

「ここで夕焼けを見るのも、今日が最後かぁ……」

 海を染める綺麗な赤色も、その上を飛ぶかもめも、ぼくの町では見られない。しょんぼりしていると、突然体が宙に浮いた。蒼葉はぼくを軽々と抱き上げると、腕の中にすっぽりとおさめた。

「……五年後、また来ればいい」

 耳のすぐ近くで、蒼葉が低く囁いた。その声がくすぐったくて、ぼくはくすくす笑った。この時間をいつまでも覚えておけるように、蒼葉の痩せた頬に、何度も頬をすり寄せた。

「そうだね」
「そうだ」

 蒼葉は長い腕をぼくのおなかに回すと、ぎゅーっと強く抱き締めた。背中から、蒼葉の心音が伝わってくる。ちゃんと、生きている。蒼葉の体は、生きようとしている。そんなあたりまえのことが、涙が出るほど嬉しい。

 夕日が完全に沈み終えたあと、ぼくたちはお店に戻った。いつもと同じように神奈のご飯を食べて、めぐさんの歌を聞いて、いつもと同じようにおしゃべりをした。