「珊瑚礁、見たことあるか」

 海面に浮かびながら、ぽつりと蒼葉が問いかけた。

「赤、青、緑……深い海の底なのに、信じられないくらい鮮やかなんだ。スズメダイ、チョウチョウウオ、ハリセンボンやオニヒトデ。たくさんの生き物が、そこで生きてる。何も恐れず、悠々と泳いでる」

 赤い空を見上げる蒼葉の目は、安心しきったように穏やかだった。海にたゆたう、ぼくと蒼葉の髪が絡み合う。ゆりかごのように揺れる海水が、ぼくらを抱く。

「海に咲く花畑みたいな、その景色が好きだった。……珊瑚礁だけじゃない。俺は、海の全てが好きだった。朝日に照らされて光る海も、夕焼けを映した真っ赤な海も。波の声。水のぬくもり。砂の感触。いつだって地上より近い場所にあった。離れることなんて、ないと、思ってた」

 顔を蒼葉の方に向けたら、体が沈みそうになった。海水が口に入ってしょっぱい。蒼葉がぼくを見て、あきれたように笑った。

「大丈夫か」
「大丈夫、平気」

 ぼくは両腕を広げてなんとか体勢を立て直した。波が絶えず体を揺らしてくるというのに、蒼葉は海面にぴったりくっついて、バランスを崩す様子はない。

「……蒼葉は、海に愛されてるね」
「何だ、それ」
「だって、全然体が沈まないの。お布団の上で寝るよりも、海に寝転がる方が気持ちよさそう。蒼葉が海を好きなように、海も蒼葉が好きなんだ」
「……そうだったら、こんな風にはなってないさ」

 蒼葉の笑い方が、また、諦めたようなものに変わった。ゆっくりと右手を海から離して、自分の胸にあてる。

「ここが、痛むんだ」

 苦しそうに、蒼葉が言った。

「もう『これ』は使い物にならない。俺が泳ぐのを邪魔してきやがる。俺を、棺桶に引きずり込もうとする。『これ』は、もう俺のものじゃなくなっちまった」

 夕日が海へと迫ってきた。顔にあたる赤い光が熱い。魂を、ぼくたちを、燃え尽くそうとしている。蒼葉、と名前を呼ぼうとしたけど、寸でのところでやめた。ぼくは、何も言えなかった。

「最初は薬を飲んでいたんだ。烏丸に言われた通り治療を受けて、安静にして……。でも、俺の体はよくならない。泳げないまま、時間だけが過ぎていった」
「……それで、どうしたの?」
「烏丸に文句を言ったんだ。『もうお前の言うことは信用できない、泳げないなら死んだ方がマシだ』って。……だけどいつものように泳いだら、『これ』が爆発しそうなくらい痛んだ。泳いだのは、それが最後だ」
「……」
「結局俺は、死ぬことにビビったんだ。ダサいだろ……」

 ううん、と首を振った。違う。蒼葉は弱虫なんかじゃないよ。そう否定したいのに、声が出ない自分がもどかしい。求めるように手を伸ばした。蒼葉はぼくの手を取らなかった。波に揺られながら、ぽつり、ぽつりと話し続けた。

「死ぬのが怖いくせに、泳げなくなるのも嫌だった。だから子供みたいに駄々をこねて、治療を拒んで……。今日だって、死のうと思ってあそこに行ったのに、結局何もできなかった。中途半端だな、俺は」
「……それで、いいよ」

 ぼくは海底に足を着いて立ち上がった。蒼葉がゆっくりとぼくを見た。

「死のうとなんて、しないで」

 蒼葉を海から遠ざける「それ」に手を伸ばした。とくん、とくん。微かな、でも確かな心音が手のひらに伝わる。左手で自分の胸に手をあてたら、同じ音が伝わってきた。

 このまま二つの鼓動が重なって、一つになればいいと思った。そうしたら、ぼくの命を蒼葉にあげることができる。蒼葉を、安心させることができると思った。

「蒼葉が死んだら、ぼくも死ぬから」
「……何だよ、それ」

 ぼくは意地悪く笑ってみせた。

「さっき決めたの。だから、ぼくを殺さないで」
「そんなの、脅迫だ」
「そう。キョウハク、してるの」

 蒼葉はびっくりしたように口を開けた。言葉を探すように唇が震えて、それからすぐにきつく閉じた。嬉しそうな、悲しそうな、笑いそうな、泣きそうな、よく分からない表情を浮かべて、蒼葉はぼくの手に手を重ねた。

「……ガキのくせに、よく言う」
「大人のくせに、弱虫だね」
「知ってる」

 蒼葉はふっと温かい息を漏らした。ぼくたちはお互いの指を強く絡めた。二人の命が繋がるように。心音を、共有できるように。

「あおば」

 力を込めて、名前を呼んだ。蒼葉は立ち上がって、水に濡れた瞳でぼくを見下ろした。

「また一緒に泳ごうよ」
「……ああ」
「ぼく、もっとうまく泳げるように練習するから」
「ああ」
「その時は、ぼくに珊瑚礁を見せて」
「……分かった」

 ぼくはにっと口の端を上げた。蒼葉もにっと笑い返した。あいている方の手が、ぼくの頬に優しく触れた。温かくて、大きな手。そのぬくもりが嬉しくて、犬のように頬をすり寄せた。

 一日の終わりを告げるように、かもめが寂しく鳴いている。夕焼けを映した赤い海が、ぼくらをどんどん呑み込んでいく。夕日が沈み終えるまで、ぼくらはぴたりと寄り添って離れなかった。