蒼葉、蒼葉。心の中で叫びながら、三度目の道を進んでいく。真っ赤な夕焼けがよく見える、二人だけの秘密の場所へ。
緩やかな坂道を上り終えると、パッと視界が開けた。
一人の男が、立っていた。潮風に揺れる髪。よれたTシャツ。広い背中。傘のように細い二本の足。
「あお、ば……」
息を整えながら名前を呼んだ。蒼葉はゆっくりと振り返った。太陽の光が眩しすぎて、顔がよく見えない。赤い光に照らされた蒼葉は、怖いくらい儚くて、このまま光の中に溶けてなくなってしまいそうだった。
「ずっと、ここにいたの?」
蒼葉は何も答えない。
「何、してるの?」
知らず知らずのうちに、全身が震えていた。自分から尋ねたくせに、答えを聞くのが怖かった。
蒼葉はゆっくりと正面を向いて、太陽を指差した。
「……あそこに行こうとしてた」
それは遥か彼方にある、空と海の境界だった。魂の燃える場所。赤くて暗い、命の果て。つがいのかもめが、夕日に向かって翼をはためかせている。
ぼくは蒼葉に近づこうとした。腕を掴んで、一刻も早くそこから引き戻したかった。だけど体はぴくりとも動かない。少しでも近づいたら、蒼葉が目の前から消えてしまうような――海の中に、飛び込んでしまうような気がした。
「……行かないで」
かろうじて喉から絞り出した声は、情けないくらい小さかった。
「置いて、いかないで」
「……どうせなくなる命なら、少しでも海の近くにいたい」
蒼葉は振り向かずに呟いた。ぼくと同じ、情けなくて、弱々しくて、小さな声だった。
「死ぬ時はベッドの上じゃなく、海の中で死にたい。……そう思って、チャンスをうかがってるんだ。濁流に呑まれる時を。魂が、燃やされるのを」
ぼくはなんとか足を動かして、恐る恐る蒼葉の隣に立った。足元を覗き込むと、どこまでも続く海が広がっていた。波が渦を巻いて、ところどころ白くなっている。一歩でも足を踏み出したら、岩礁に体を打ちつけながら、海の底へと沈んでしまうだろう。
そしたらきっと、二度と会えない。
「だけど、暗い海底に沈む自分を想像したら、一人で死ぬのが怖くなった。……だからあの時逃げた。海から、逃げた」
「……だから、ユリさんのところに行ったの?」
ぼくはそっと蒼葉を見上げた。
「助けてもらおうと思ったの?」
「違う」
蒼葉は険しい表情で即答して、ためらうように口をつぐんだ。ぼくはじっと蒼葉の言葉を待った。
「……殺そうと、思った」
波の音に紛れて、震える声で、蒼葉が言った。
「ナイフを持って、あいつの体に、刺そうとした」
「……刺したの?」
「刺してない。俺が行った時には、もうあいつは倒れてた。誰かに殴られたみたいだった」
蒼葉は感情のない声で続けた。まるで、知らない誰かのことを話しているみたいだった。
「でも俺は、救急車を呼ばなかった。このままあいつが死ねばいい。そう、思っていた。……俺はユリを道連れにしようとしたんだ」
蒼葉はぼくと目を合わせると、自嘲的に笑った。
「軽蔑したか?」
ぼくは何も言えなかった。ただ、力なく首を左右に振るのが限界だった。
「本当は帰ったら、海に飛び込むつもりだった。いつも海を見て、チャンスをうかがっていた。……でも、できなかった」
「……どうして?」
蒼葉は沈黙を作るように、また海に視線を戻した。その目は、以前より少し穏やかだった。恨みも、憎しみもそこにはなかった。
蒼葉はもう一度ぼくを見た。泣き出しそうな、おかしそうな、変な顔だった。
「海を見たら、お前がいた。楽しそうに、泳いでた。……お前を見てたら、また、泳ぎたくなった。不思議だな……」
潮風が一層強く吹いた。波の音が、大きくなった。まるで、ぼくたちを誘っているみたいに。
「……蒼葉」
ぼくは蒼葉の腕を掴んだ。
「一緒に泳ごう」
蒼葉は驚いたように目を見開いた。
「泳がなくてもいい。入るだけでもいいの。海は怖くなんかないよ。海は優しいんだ。蒼葉のことも、ちゃんと受け入れてくれるよ」
「……俺は」
ぼくは答えを聞く前に、強く蒼葉の腕を引っ張った。上ってきたばかりの坂道を駆け下りて、砂浜へと降り立つ。そのまま海に入ろうとしたら、蒼葉は怯えるように足をとめた。
「蒼葉」
蒼葉は険しい顔をしたまま動こうとしない。赤く染まった海に沈む太陽は、怖いくらい大きく膨らんでいる。
ぼくは蒼葉の腕を離して、ざぶざぶと海をかき分けていった。
「……おい、危ないぞ」
蒼葉の忠告を無視して、ぼくは更に深いところへと進んでいく。胸の高さまで海に浸かった時、強い波がぼくの足をすくった。
ぐらりと体が傾いたと同時に、ぼくはあっという間に海に沈んだ。あの嵐のの日ように、目の前が真っ暗になった。
だけどすぐに、強い力がぼくを海中から引き戻した。水が鼻に入って苦しい。ゲホゲホと一通りむせ込んでから目を開けると、そこには蒼葉の顔があった。
ぼくは上から下まで蒼葉を見渡した。蒼葉の体は半分くらい海に浸かっている。砂浜にはもう、蒼葉の姿はない。ぼくはほっとして、蒼葉に向かって微笑んだ。
「ほら、入れた」
蒼葉は自分の状況がうまく飲み込めないようだった。ぼくを見て、砂浜を見て、もう一度ぼくを見た。それから泣き出しそうな顔で笑うと、
「……本当だ」
情けない声で呟いた。
緩やかな坂道を上り終えると、パッと視界が開けた。
一人の男が、立っていた。潮風に揺れる髪。よれたTシャツ。広い背中。傘のように細い二本の足。
「あお、ば……」
息を整えながら名前を呼んだ。蒼葉はゆっくりと振り返った。太陽の光が眩しすぎて、顔がよく見えない。赤い光に照らされた蒼葉は、怖いくらい儚くて、このまま光の中に溶けてなくなってしまいそうだった。
「ずっと、ここにいたの?」
蒼葉は何も答えない。
「何、してるの?」
知らず知らずのうちに、全身が震えていた。自分から尋ねたくせに、答えを聞くのが怖かった。
蒼葉はゆっくりと正面を向いて、太陽を指差した。
「……あそこに行こうとしてた」
それは遥か彼方にある、空と海の境界だった。魂の燃える場所。赤くて暗い、命の果て。つがいのかもめが、夕日に向かって翼をはためかせている。
ぼくは蒼葉に近づこうとした。腕を掴んで、一刻も早くそこから引き戻したかった。だけど体はぴくりとも動かない。少しでも近づいたら、蒼葉が目の前から消えてしまうような――海の中に、飛び込んでしまうような気がした。
「……行かないで」
かろうじて喉から絞り出した声は、情けないくらい小さかった。
「置いて、いかないで」
「……どうせなくなる命なら、少しでも海の近くにいたい」
蒼葉は振り向かずに呟いた。ぼくと同じ、情けなくて、弱々しくて、小さな声だった。
「死ぬ時はベッドの上じゃなく、海の中で死にたい。……そう思って、チャンスをうかがってるんだ。濁流に呑まれる時を。魂が、燃やされるのを」
ぼくはなんとか足を動かして、恐る恐る蒼葉の隣に立った。足元を覗き込むと、どこまでも続く海が広がっていた。波が渦を巻いて、ところどころ白くなっている。一歩でも足を踏み出したら、岩礁に体を打ちつけながら、海の底へと沈んでしまうだろう。
そしたらきっと、二度と会えない。
「だけど、暗い海底に沈む自分を想像したら、一人で死ぬのが怖くなった。……だからあの時逃げた。海から、逃げた」
「……だから、ユリさんのところに行ったの?」
ぼくはそっと蒼葉を見上げた。
「助けてもらおうと思ったの?」
「違う」
蒼葉は険しい表情で即答して、ためらうように口をつぐんだ。ぼくはじっと蒼葉の言葉を待った。
「……殺そうと、思った」
波の音に紛れて、震える声で、蒼葉が言った。
「ナイフを持って、あいつの体に、刺そうとした」
「……刺したの?」
「刺してない。俺が行った時には、もうあいつは倒れてた。誰かに殴られたみたいだった」
蒼葉は感情のない声で続けた。まるで、知らない誰かのことを話しているみたいだった。
「でも俺は、救急車を呼ばなかった。このままあいつが死ねばいい。そう、思っていた。……俺はユリを道連れにしようとしたんだ」
蒼葉はぼくと目を合わせると、自嘲的に笑った。
「軽蔑したか?」
ぼくは何も言えなかった。ただ、力なく首を左右に振るのが限界だった。
「本当は帰ったら、海に飛び込むつもりだった。いつも海を見て、チャンスをうかがっていた。……でも、できなかった」
「……どうして?」
蒼葉は沈黙を作るように、また海に視線を戻した。その目は、以前より少し穏やかだった。恨みも、憎しみもそこにはなかった。
蒼葉はもう一度ぼくを見た。泣き出しそうな、おかしそうな、変な顔だった。
「海を見たら、お前がいた。楽しそうに、泳いでた。……お前を見てたら、また、泳ぎたくなった。不思議だな……」
潮風が一層強く吹いた。波の音が、大きくなった。まるで、ぼくたちを誘っているみたいに。
「……蒼葉」
ぼくは蒼葉の腕を掴んだ。
「一緒に泳ごう」
蒼葉は驚いたように目を見開いた。
「泳がなくてもいい。入るだけでもいいの。海は怖くなんかないよ。海は優しいんだ。蒼葉のことも、ちゃんと受け入れてくれるよ」
「……俺は」
ぼくは答えを聞く前に、強く蒼葉の腕を引っ張った。上ってきたばかりの坂道を駆け下りて、砂浜へと降り立つ。そのまま海に入ろうとしたら、蒼葉は怯えるように足をとめた。
「蒼葉」
蒼葉は険しい顔をしたまま動こうとしない。赤く染まった海に沈む太陽は、怖いくらい大きく膨らんでいる。
ぼくは蒼葉の腕を離して、ざぶざぶと海をかき分けていった。
「……おい、危ないぞ」
蒼葉の忠告を無視して、ぼくは更に深いところへと進んでいく。胸の高さまで海に浸かった時、強い波がぼくの足をすくった。
ぐらりと体が傾いたと同時に、ぼくはあっという間に海に沈んだ。あの嵐のの日ように、目の前が真っ暗になった。
だけどすぐに、強い力がぼくを海中から引き戻した。水が鼻に入って苦しい。ゲホゲホと一通りむせ込んでから目を開けると、そこには蒼葉の顔があった。
ぼくは上から下まで蒼葉を見渡した。蒼葉の体は半分くらい海に浸かっている。砂浜にはもう、蒼葉の姿はない。ぼくはほっとして、蒼葉に向かって微笑んだ。
「ほら、入れた」
蒼葉は自分の状況がうまく飲み込めないようだった。ぼくを見て、砂浜を見て、もう一度ぼくを見た。それから泣き出しそうな顔で笑うと、
「……本当だ」
情けない声で呟いた。