「野ばらはユリに似てるね」 

 昼過ぎ。お店に来ためぐさんが、ぼくを眺めて微笑んだ。

「真っ直ぐなところとか、蒼葉の気持ちを理解してるところとか。昔から勝手なやつだったけど、ユリに言われると弱いんだよ、蒼葉は」

「そうそう。お母さんと息子って感じ」
「神奈も相当怒られてたよね」
「そうなの?」 

 ぼくが尋ねると、神奈は気まずそうに目を逸らした。

「む、昔の話だよ。昔は相当やんちゃしてたし……」
「ユリさんが怒るところ、想像つかない」
「そう?」 

 ぼくはうん、と頷いた。

「いっつもすごく優しくて、みんなの人気者なんだ。ぼくの話を聞いてくれるし、たまにおまけしてくれるし……」
「そういうタイプに限って、怒らせると怖いんだよ」 

 神奈が両腕を体に巻きつけて、大げさに身震いしたので、ぼくとめぐさんは同時に笑った。 

 そのあとも、二人からユリさんのことをたくさん聞いた。ユリさんも、蒼葉と一緒にこの海で育ったこと。いたずらっ子だった神奈をよく叱っていたこと。めぐさんと一緒に花の世話をしていたこと。烏丸先生をお父さんのように慕っていたこと。今でもこまめに連絡をくれること。二人の会話の中には、ぼくの知らないユリさんがいた。

 今、ユリさんは病室のベッドで眠っている。そのことを考えたら、心に夜が来たようだった。ユリさんが目を覚まして、蒼葉を叱ってくれたらいいのに。そしたら、蒼葉は前向きになるのに。

「これも何かの縁なんだろうねぇ」 

 話が一段落ついた時、めぐさんがしみじみと呟いた。

「野ばらが来てから、周りがパッと明るくなったよ。あたしたちだけじゃない、蒼葉もどことなく楽しそうだし。それに、蒼葉は烏丸先生のところへ行ったんだろ?」
「うん……多分」
「だったら、それだけでも進歩だよ。あいつも少しは前向きになったってことだから……野ばらのおかげだね」 

 ぼくは恥ずかしくなって、何も言わずにお店の外に目をやった。透明な扉越しに、赤く染まった海が見える。 

 太陽が赤い。魂が燃えている色だって、蒼葉は言っていた。蒼葉は、烏丸先生のところに行った。まだ治す決意は固めていないのかもしれないけど、ちゃんと前に進んでいる。 

 ――本当に、そうなのかな? 

 おどろおどろしい夕焼けを眺めたら、ざわ……と心が不穏になった。本当に、蒼葉は烏丸先生のところに行ったのかな? そんな簡単に、前向きになれるものなのかな? 海から離れることを、あんなに怖がっていたのに。昨晩、蒼葉はちょっと変だった。吹っ切れたような、不自然な優しさがあった。 

 まだ検査は終わらないのだろうか。入院の手続きとかもしてるのかな。そう考えたらなんだか落ち着かなくなって、椅子から飛び下りようとした時。 

 運命の時を告げるように、お店の電話が鳴った。

「烏丸先生だ」 

 そう言って、神奈は「もしもし」と電話に出た。

「蒼葉? ううん、今日は見てないけど……え?」 

 烏丸先生と話す神奈の顔が、みるみるうちに青ざめていった。放心状態で頷いたあと、神奈は受話器を置いてぼくらを見た。

「蒼葉、烏丸先生のところに行ってないって」
「え?」 

 めぐさんの顔が険しくなった。

「行ってないって……どういうこと?」
「分かんない。僕も野ばらちゃんも、朝からあいつを見てないんだ」
「じゃあ、一体どこに……」
「……ぼく、探してくる!」 

 考えるより先に、体が動いた。

 勢いよく外に出ると、大きな太陽と目が合った。海全体を見渡してみるけれど、蒼葉の姿は見えない。ぼくは一目散にある場所へと走り出した。息が弾む。汗が吹き出る。少しずつしか前に進まない、小さな体がもどかしい。ぼくは大きく両手を振って走った。

 ああ、どうして気づかなかったのだろう。蒼葉が弱い大人だってこと、ちゃんと知っていたのに。すぐに強くなんかなれないって、分かっていたのに。

 柔らかい砂に足をとられて、勢いよく砂浜に倒れ込んだ。泣き出しそうになるのをぐっとこらえて、ぼくはすぐに立ち上がった。膝がすり剥けてヒリヒリと痛む。地面に打ちつけた胸が苦しい。ワンピースに着いた砂を軽く払って、もう一度、走り出す。立ちどまっている時間はない。足を動かせ。両腕を振れ。脳みその裏側でぼくが命令する。大切なものを失いたくないのなら、心臓が破れるくらい速く走れと。