そのあとすぐに空が赤く染まって、あっという間に夜になった。めぐさんのライブがあるせいか、いつもよりお客さんが多かった。
夜ご飯を食べたら、蒼葉は奥にあるソファの隅っこに丸まった。昼間あれだけ眠ったというのに、めぐさんのピアノを聞きながら、気持ちよさそうにすやすやと目を閉じていた。
神奈は忙しなく料理を出したり、カウンターのお客さんとおしゃべりをしている。蒼葉と顔を合わせても、神奈は普段通りの会話をするだけで、昨夜については何も言わなかった。きっともう、随分前に、言いたいことは全て言い尽くしてしまったのだろう。だからもう、神奈は蒼葉に何も言わないんだ。「生きろ」という一言も、言わないことにしたんだ。
カランカラン……と鈴の音が響いて、お店の扉が開いた。入口を見たぼくは、ぴゃっと短く声を上げた。烏丸先生はぼくをぎろりと睨むと、ぼくから二つ離れた席に腰掛けた。
「ビール」
神奈は「はいはい」と肩をすくめて、生ビールを手渡した。ぼくはどきどきしながら蒼葉を見た。先生が来たことに気づいていないのか、蒼葉が目を開ける気配はない。もう一度先生を見る。烏丸先生はぐいっと生ビールを喉に流し込むと、目玉だけをぎょろりとぼくに向けた。
「ひっ」
「……そんな目で俺を見るな。取って食いやしない。蒼葉は?」
神奈は黙ってソファの隅っこを指差した。
「人の気も知らねぇで、いい気なもんだ……」
烏丸先生は恨みのこもった瞳で蒼葉を睨んで、「気に食わねぇ」と舌打ちした。
「まあまあ。とりあえず、大事にならなくてよかったじゃん。今は素直にそのことを喜ぼうよ」
「お前は蒼葉に甘いんだ。お前がそんなんだから、あいつは薬も飲まないんだぞ」
「僕が言ったって聞かないよ」
神奈は困ったように息を吐いた。
「みんなが言うから意固地になってる部分もあると思うんだ。だったらあんまり言わない方が……」
「だからって諦めるのか。お前もあいつと同じだな」
烏丸先生の声が、ピアノの音色をかき消した。
「あいつの体は今この瞬間も壊れ続けてるんだ。今はピンピンしてるかもしれねぇが、いつまた倒れたっておかしくない状況なんだ。手遅れになった時、お前は責任取れんのか? 歩けなくなったあいつを見ても、お前は同じことが言えるのか」
「それは……」
「俺は医者だ。命を救うのが医者の仕事だ。嫌われてもいい。恨まれたってかまわねぇ。それでも蒼葉を助けなきゃ、あいつに顔向けが……」
「く、薬!」
大きな声で叫んだら、二人が同時にぼくを見た。
「薬、そんなに苦いの?」
「はぁ?」
「ぼくも薬、苦手だよ。風邪ひいた時でも飲みたくなくて、いつもジュースに混ぜて飲んでた。それでも飲むのが嫌で、お母さんにいつも怒られてたよ。だから、えっと……その……」
しどろもどろになってしゃべるうちに、自分でも何を言っているのか分からなくなった。神奈はぽかんと口を開けてぼくを見ていたけれど、やがておかしそうに笑い出した。
「そうだよね。誰だって、薬なんて飲みたくないよね」
烏丸先生もばつが悪そうにビールを喉に流し込む。ちょうどピアノ演奏が終わって、店内に大きな拍手が溢れた。
「先生も野ばらにかかっちゃ形無しだね」
演奏を終えためぐさんが、ぼくと烏丸先生の間に腰掛けた。
「どうだった? あたしのピアノ」
「すっごくよかったよ。何て曲?」
「『スペイン』。野ばらには少し退屈だったかもね」
「そんなことない。素敵だった」
めぐさんはにっこり笑って、長い髪をかき上げた。
時計の針が進むたび、一人、また一人と、お客さんが帰っていった。夜が深まると、睡魔がぐっと襲ってくる。ぼくは蒼葉に寄りかかって目を閉じていた。
大人の話はよく分からない。ぼくの知らない長い時間や、たくさんの思い出がいっぱい詰まっていて、ぼくには決して理解できない。だからぼくは、こうして邪魔にならないところに座って、じっと息を潜める。
「俺は無力だ」
静かなBGMの隙間に、烏丸先生がぽつりと言葉を漏らした。
「たった一人の意思すら変えられねぇ。どんな言葉を並べても、あいつの心には響かねぇんだ……」
「先生は頑張ってる。頑張ってるよ……」
労わるようにめぐさんが言う。お酒がまわってきたのか、烏丸先生のガラガラ声は、涙の色を含んでいた。
「俺はちいせぇ頃からあいつを見てきたんだ。助かってほしいと思うのは、普通のことだろう? それなのにどうしてあいつは諦めるんだ。どうして自分を大切に思っているやつらのことを考えない。あいつにとって俺らは、他人でしかないっていうのかよ……」
「無力なのはあたしも同じだよ……」
神奈の声は聞こえてこない。めぐさんの声は今まで聞いたこともないほど悲しみに濡れていた。
「ユリちゃんがいればな」
ぽつりと神奈が呟いた。ぼくは思わず目を開けた。
「あの子だったら、きっとうまくやれるんだろうねぇ……」
「いないやつのことを嘆いても仕方ねぇよ。それに、言ってないんだろ? やつのこと」
「うん。連絡は取ってるんだけど、蒼葉に口止めされてるから……」
どうしようもないね、と神奈が寂しげに言う。ぼくは肩越しにこっそりと三人を見た。他にお客さんがいないため、ぼくらがいる側は真っ暗だ。まるで三人のいる空間だけが別世界のようだった。
「明日、俺のところに来い」
突然、烏丸先生の声が大きくなった。
「大病院に行って、もう一度精密検査を受ける。そんで俺より腕のいい医者を紹介してやる。入院の手続きも済ませる。ただし、来るか来ないかはお前が決めろ。助かる可能性を捨てるっていうなら、もう俺は何も言わん」
ぼくはそっと蒼葉の顔を覗き込んだ。
「聞こえているんだろ、蒼葉よ……」
縋るような低い声が、余韻を残して消えていく。蒼葉はうっすらと目を開けたけれど、その声に応えることはついになかった。
夜ご飯を食べたら、蒼葉は奥にあるソファの隅っこに丸まった。昼間あれだけ眠ったというのに、めぐさんのピアノを聞きながら、気持ちよさそうにすやすやと目を閉じていた。
神奈は忙しなく料理を出したり、カウンターのお客さんとおしゃべりをしている。蒼葉と顔を合わせても、神奈は普段通りの会話をするだけで、昨夜については何も言わなかった。きっともう、随分前に、言いたいことは全て言い尽くしてしまったのだろう。だからもう、神奈は蒼葉に何も言わないんだ。「生きろ」という一言も、言わないことにしたんだ。
カランカラン……と鈴の音が響いて、お店の扉が開いた。入口を見たぼくは、ぴゃっと短く声を上げた。烏丸先生はぼくをぎろりと睨むと、ぼくから二つ離れた席に腰掛けた。
「ビール」
神奈は「はいはい」と肩をすくめて、生ビールを手渡した。ぼくはどきどきしながら蒼葉を見た。先生が来たことに気づいていないのか、蒼葉が目を開ける気配はない。もう一度先生を見る。烏丸先生はぐいっと生ビールを喉に流し込むと、目玉だけをぎょろりとぼくに向けた。
「ひっ」
「……そんな目で俺を見るな。取って食いやしない。蒼葉は?」
神奈は黙ってソファの隅っこを指差した。
「人の気も知らねぇで、いい気なもんだ……」
烏丸先生は恨みのこもった瞳で蒼葉を睨んで、「気に食わねぇ」と舌打ちした。
「まあまあ。とりあえず、大事にならなくてよかったじゃん。今は素直にそのことを喜ぼうよ」
「お前は蒼葉に甘いんだ。お前がそんなんだから、あいつは薬も飲まないんだぞ」
「僕が言ったって聞かないよ」
神奈は困ったように息を吐いた。
「みんなが言うから意固地になってる部分もあると思うんだ。だったらあんまり言わない方が……」
「だからって諦めるのか。お前もあいつと同じだな」
烏丸先生の声が、ピアノの音色をかき消した。
「あいつの体は今この瞬間も壊れ続けてるんだ。今はピンピンしてるかもしれねぇが、いつまた倒れたっておかしくない状況なんだ。手遅れになった時、お前は責任取れんのか? 歩けなくなったあいつを見ても、お前は同じことが言えるのか」
「それは……」
「俺は医者だ。命を救うのが医者の仕事だ。嫌われてもいい。恨まれたってかまわねぇ。それでも蒼葉を助けなきゃ、あいつに顔向けが……」
「く、薬!」
大きな声で叫んだら、二人が同時にぼくを見た。
「薬、そんなに苦いの?」
「はぁ?」
「ぼくも薬、苦手だよ。風邪ひいた時でも飲みたくなくて、いつもジュースに混ぜて飲んでた。それでも飲むのが嫌で、お母さんにいつも怒られてたよ。だから、えっと……その……」
しどろもどろになってしゃべるうちに、自分でも何を言っているのか分からなくなった。神奈はぽかんと口を開けてぼくを見ていたけれど、やがておかしそうに笑い出した。
「そうだよね。誰だって、薬なんて飲みたくないよね」
烏丸先生もばつが悪そうにビールを喉に流し込む。ちょうどピアノ演奏が終わって、店内に大きな拍手が溢れた。
「先生も野ばらにかかっちゃ形無しだね」
演奏を終えためぐさんが、ぼくと烏丸先生の間に腰掛けた。
「どうだった? あたしのピアノ」
「すっごくよかったよ。何て曲?」
「『スペイン』。野ばらには少し退屈だったかもね」
「そんなことない。素敵だった」
めぐさんはにっこり笑って、長い髪をかき上げた。
時計の針が進むたび、一人、また一人と、お客さんが帰っていった。夜が深まると、睡魔がぐっと襲ってくる。ぼくは蒼葉に寄りかかって目を閉じていた。
大人の話はよく分からない。ぼくの知らない長い時間や、たくさんの思い出がいっぱい詰まっていて、ぼくには決して理解できない。だからぼくは、こうして邪魔にならないところに座って、じっと息を潜める。
「俺は無力だ」
静かなBGMの隙間に、烏丸先生がぽつりと言葉を漏らした。
「たった一人の意思すら変えられねぇ。どんな言葉を並べても、あいつの心には響かねぇんだ……」
「先生は頑張ってる。頑張ってるよ……」
労わるようにめぐさんが言う。お酒がまわってきたのか、烏丸先生のガラガラ声は、涙の色を含んでいた。
「俺はちいせぇ頃からあいつを見てきたんだ。助かってほしいと思うのは、普通のことだろう? それなのにどうしてあいつは諦めるんだ。どうして自分を大切に思っているやつらのことを考えない。あいつにとって俺らは、他人でしかないっていうのかよ……」
「無力なのはあたしも同じだよ……」
神奈の声は聞こえてこない。めぐさんの声は今まで聞いたこともないほど悲しみに濡れていた。
「ユリちゃんがいればな」
ぽつりと神奈が呟いた。ぼくは思わず目を開けた。
「あの子だったら、きっとうまくやれるんだろうねぇ……」
「いないやつのことを嘆いても仕方ねぇよ。それに、言ってないんだろ? やつのこと」
「うん。連絡は取ってるんだけど、蒼葉に口止めされてるから……」
どうしようもないね、と神奈が寂しげに言う。ぼくは肩越しにこっそりと三人を見た。他にお客さんがいないため、ぼくらがいる側は真っ暗だ。まるで三人のいる空間だけが別世界のようだった。
「明日、俺のところに来い」
突然、烏丸先生の声が大きくなった。
「大病院に行って、もう一度精密検査を受ける。そんで俺より腕のいい医者を紹介してやる。入院の手続きも済ませる。ただし、来るか来ないかはお前が決めろ。助かる可能性を捨てるっていうなら、もう俺は何も言わん」
ぼくはそっと蒼葉の顔を覗き込んだ。
「聞こえているんだろ、蒼葉よ……」
縋るような低い声が、余韻を残して消えていく。蒼葉はうっすらと目を開けたけれど、その声に応えることはついになかった。