昼になっても、蒼葉は下りてこなかった。ぼくは神奈と一緒にサンドイッチを作って、寝ている蒼葉の枕元に置いておいた。それから久しぶりに水着に着替えて、浮き輪を片手に海へ入った。浮き輪の上に乗っかって、波に揺られながら空を仰ぐ。昨日の嵐が嘘のように、雲一つない晴天だ。空の青が目に染みる。ゆらゆら、ゆらゆら。体がたゆたう。太陽が亀より遅いスピードで動くのを、何時間も目で追った。
一羽、また一羽。ぼくの気持ちなんて考える様子もなく、かもめがのんびりと空を横切る。ぼくもああやって空を飛べたら、悩みなんてなくなるんだろうな。自由で、楽しそうで、妬ましい。ぼくには翼がないから空は飛べない。綺麗なヒレもないから、海底までは泳げない。こうやって海に浮かんで空を見上げて、視界全てを青く染めて、自由を手に入れた気になっている。自分一人じゃ、どこにも行けないくせに。蒼葉がいなけりゃ、逃げることすらできないくせに。
ぼくは浮き輪から下りて海に潜った。腕を左右に動かして、クロールで泳ぐ。懸命に足を動かすけれど、すぐに疲れて立ち上がってしまった。息継ぎがうまくできなくて苦しい。また、大きく息を吸って泳ぎ始める。数メートル進んでは立ち上がって、また泳ぐ。何度やっても、蒼葉のようには泳げない。
泳ぐのと立ちどまるのを繰り返していると、いつの間に起きてきたのか、砂浜に蒼葉がいた。波打ち際にしゃがみこんで、ぼくを心配そうに見ている。おいで、と手招きされて近寄ると、水色のゴーグルを渡された。
「これ使え。目、少し腫れてる」
ぼくは慌ててゴーグルを掛けた。
「起きてたの?」
「さっき起きた」
「サンドイッチ食べた?」
「食べたよ。お前が作ったの?」
「神奈と一緒に作った」
そうか、と頷いて、蒼葉はぼくの頭を乱暴に撫でた。
「うまかった。見た目は悪かったけど。また作って」
「うん!」
ぼくはにっこり笑って、再びざぶざぶと海の中に入った。大きく息を吸い込んで、また海に潜る。ゴーグルのおかげで、目を開けたままでも痛くならない。透明な水の中、イルカになったふりをして、両腕を交互に動かした。
「右に重心が傾いてる。同じ力で足を動かすんだ。それじゃあ真っ直ぐ進まない」
蒼葉は砂浜に座り込んで、時折ぼくにアドバイスをくれた。
「今度は腕が曲がってる。焦らなくていいから、丁寧に動かせ」
「息継ぎの時に顔を上げすぎなんだ」
ぼくは蒼葉に言われた通り、真剣に手足を動かした。酸素を求めて顔を上げると、いつもそこに蒼葉がいた。どれだけ波が誘っても、蒼葉は決して海に入ろうとはしなかった。ただ恋焦がれるような眼差しで、ぼくの泳ぎを眺め続けているだけだ。
蒼葉は海に入らない。……違う、入れない。この手を取って教えてほしい。蒼葉の泳ぎを、伝えてほしい。もう一度泳いでほしいのに、泳いでとは言えない。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ぼくは泳ぎ続けた。
「ねぇ、今のは?」
水面から顔を上げて、蒼葉の元へと駆け寄る。ゴーグルを外すと、蒼葉の笑顔がよく見えた。
「だいぶよくなった。九十点」
「やったぁ!」
ぼくは大きく飛び上がって喜んだ。
「飲み込みが早いな。お前、素質あるよ」
「ほんと?」
ああ、と頷いて、蒼葉はぼくの頭を撫でた。その大きな手のひらがくすぐったくて、ぼくは目を閉じながら身を捩った。先生やお母さんに褒められるより、ずっと嬉しい。体中があったかくなって、踊り出しそうになる。
「海で泳ぐのって、浮かぶのより気持ちいいね。プールで泳ぐのと全然違う」
「波があるから泳ぎにくいだろ」
「でも、蒼葉が教えてくれたからちゃんと泳げるよ」
「……そうか」
蒼葉はちょっと照れくさそうに目を細めた。だけどその笑みは、引いていく波のようにすぅっと消えていってしまった。
「……海、怖くないのか」
「え?」
「昨日溺れたばっかりだろ」
「怖くないよ」
ぼくは考えることもなく即答した。昨日の海は、確かにすごく怖かった。波が轟々と渦巻いて、海底に潜む魔物に呑み込まれそうになった。冷たくて、暗くて、死んでしまうと思ったら、体の震えがとまらなかった。だけど、またこうして太陽の光できらめいている海を見たら、そんな恐怖はどこかへ飛んでいってしまった。その理由は、すぐ目の前にある。
蒼葉がいるから、ぼくは泳げる。
「だって蒼葉がいるもん。……蒼葉が、見ててくれるもん」
「昨日のはたまたまだ」
「嘘。いっつも見てるくせに」
蒼葉は反論したそうに口を開けたけど、結局何も言わなかった。
「……薬、ちゃんと飲んだの?」
逃げるようにぼくから目を逸らす。
「飲まないとよくならないんでしょ? だったら、ちゃんと飲まなきゃだめだよ」
「……お前まで、そんなこと言うのか」
「だって!」
ぼくは蒼葉の胸に飛び込んだ。
「蒼葉がまた倒れたら嫌だもん。溺れることより、そっちの方が怖いもん」
「……泳がなきゃ倒れない。言われなくたって、海には入らない。それでいいだろ」
「よくないよ」
強く抱き締めた体はとても細くて、骨の硬さがよく分かる。写真の蒼葉と全然違う。悲しくて、悔しくて、苦しい。
「だって、蒼葉は泳ぎたいんでしょ。だったら薬飲んで治さなきゃ、ずっとこのままだよ」
「飲んだって治るとは限らないだろ」
「そんなことない。神奈だって言ってたよ。ちゃんと薬を飲んで、病院に行けば……」
「お前を安心させるためにそう言ったんだ」
「でも」
「可能性なんてないんだよ」
咲きかけの花を摘むように、蒼葉はぴしゃりと言い放った。
「入院して二度と戻ってこられなかったら? 二度と海を見られなかったら? 狭い病室でたった一人死ぬしかないとしたら? 手術の成功率だって高くないんだ。……怖くて仕方ないんだよ、俺は」
感情的な言葉とは反対に、声は諦めたように投げやりで、静かだった。
「死ぬことも怖いけど、生きる努力だってしたくないんだ。お前みたいに、強くないんだ」
ぽんぽん、となだめるように頭を叩かれた。見上げた先にあったのは、魂が抜けたようにやつれた蒼葉の顔だった。生きることに疲れた男が、そこにはいた。
蒼葉はもう、昔のように笑わない。もう、昔のように泳がない。ぼくがどれだけ気持ちを伝えても、きっと蒼葉の胸には響かないんだ。
ぼくが伝える思いは、かつて神奈が抱いた思いだ。めぐさんが訴えた言葉だ。烏丸先生の怒鳴った声だ。ちゃんと薬を飲んで。病院に行って。諦めないで。頑張って――なんて、安っぽい!
その一言一言が、蒼葉をどれだけ苦しめてきたのだろう。何気ない励ましの一つ一つが、細い蔦となって蒼葉の首を絞め上げてきたんだ。苦しくて、辛くて、でも誰にも理解してもらえなくて、生きることを強いられてる。こんな細い体に、ひとりぼっちの孤独を抱えて、生きてきたんだ。そう考えたら、知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。
「……どうして、お前が泣く」
「分かんない」
「同情してるのか」
ぼくはぶんぶん首を振った。違う。同情なんてしていない。
「違うもん……」
そう答える声は小さくて、弱くて、無力だった。ぼくは強くなんかないよ。蒼葉は弱くなんかないよ。そう伝えたいのに言えなくて。口から出るのは嗚咽だけで。たとえ言葉にできたとしても、声に出した瞬間に意味を失ってしまいそうで怖かった。
「泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろ」
「蒼葉のせいだ」
「お前が勝手に泣いたんだ」
蒼葉はあきれたように息を吐いて、長い指で涙を拭った。
「俺なんかのために泣くな。耐えられない、そういうの。……耐えられないんだ……」
ひとりごとのような呟きは、波の音に呑まれて消えていった。太陽を映した海は、自虐的に、悲しげに、いつまでも輝いていた。
一羽、また一羽。ぼくの気持ちなんて考える様子もなく、かもめがのんびりと空を横切る。ぼくもああやって空を飛べたら、悩みなんてなくなるんだろうな。自由で、楽しそうで、妬ましい。ぼくには翼がないから空は飛べない。綺麗なヒレもないから、海底までは泳げない。こうやって海に浮かんで空を見上げて、視界全てを青く染めて、自由を手に入れた気になっている。自分一人じゃ、どこにも行けないくせに。蒼葉がいなけりゃ、逃げることすらできないくせに。
ぼくは浮き輪から下りて海に潜った。腕を左右に動かして、クロールで泳ぐ。懸命に足を動かすけれど、すぐに疲れて立ち上がってしまった。息継ぎがうまくできなくて苦しい。また、大きく息を吸って泳ぎ始める。数メートル進んでは立ち上がって、また泳ぐ。何度やっても、蒼葉のようには泳げない。
泳ぐのと立ちどまるのを繰り返していると、いつの間に起きてきたのか、砂浜に蒼葉がいた。波打ち際にしゃがみこんで、ぼくを心配そうに見ている。おいで、と手招きされて近寄ると、水色のゴーグルを渡された。
「これ使え。目、少し腫れてる」
ぼくは慌ててゴーグルを掛けた。
「起きてたの?」
「さっき起きた」
「サンドイッチ食べた?」
「食べたよ。お前が作ったの?」
「神奈と一緒に作った」
そうか、と頷いて、蒼葉はぼくの頭を乱暴に撫でた。
「うまかった。見た目は悪かったけど。また作って」
「うん!」
ぼくはにっこり笑って、再びざぶざぶと海の中に入った。大きく息を吸い込んで、また海に潜る。ゴーグルのおかげで、目を開けたままでも痛くならない。透明な水の中、イルカになったふりをして、両腕を交互に動かした。
「右に重心が傾いてる。同じ力で足を動かすんだ。それじゃあ真っ直ぐ進まない」
蒼葉は砂浜に座り込んで、時折ぼくにアドバイスをくれた。
「今度は腕が曲がってる。焦らなくていいから、丁寧に動かせ」
「息継ぎの時に顔を上げすぎなんだ」
ぼくは蒼葉に言われた通り、真剣に手足を動かした。酸素を求めて顔を上げると、いつもそこに蒼葉がいた。どれだけ波が誘っても、蒼葉は決して海に入ろうとはしなかった。ただ恋焦がれるような眼差しで、ぼくの泳ぎを眺め続けているだけだ。
蒼葉は海に入らない。……違う、入れない。この手を取って教えてほしい。蒼葉の泳ぎを、伝えてほしい。もう一度泳いでほしいのに、泳いでとは言えない。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、ぼくは泳ぎ続けた。
「ねぇ、今のは?」
水面から顔を上げて、蒼葉の元へと駆け寄る。ゴーグルを外すと、蒼葉の笑顔がよく見えた。
「だいぶよくなった。九十点」
「やったぁ!」
ぼくは大きく飛び上がって喜んだ。
「飲み込みが早いな。お前、素質あるよ」
「ほんと?」
ああ、と頷いて、蒼葉はぼくの頭を撫でた。その大きな手のひらがくすぐったくて、ぼくは目を閉じながら身を捩った。先生やお母さんに褒められるより、ずっと嬉しい。体中があったかくなって、踊り出しそうになる。
「海で泳ぐのって、浮かぶのより気持ちいいね。プールで泳ぐのと全然違う」
「波があるから泳ぎにくいだろ」
「でも、蒼葉が教えてくれたからちゃんと泳げるよ」
「……そうか」
蒼葉はちょっと照れくさそうに目を細めた。だけどその笑みは、引いていく波のようにすぅっと消えていってしまった。
「……海、怖くないのか」
「え?」
「昨日溺れたばっかりだろ」
「怖くないよ」
ぼくは考えることもなく即答した。昨日の海は、確かにすごく怖かった。波が轟々と渦巻いて、海底に潜む魔物に呑み込まれそうになった。冷たくて、暗くて、死んでしまうと思ったら、体の震えがとまらなかった。だけど、またこうして太陽の光できらめいている海を見たら、そんな恐怖はどこかへ飛んでいってしまった。その理由は、すぐ目の前にある。
蒼葉がいるから、ぼくは泳げる。
「だって蒼葉がいるもん。……蒼葉が、見ててくれるもん」
「昨日のはたまたまだ」
「嘘。いっつも見てるくせに」
蒼葉は反論したそうに口を開けたけど、結局何も言わなかった。
「……薬、ちゃんと飲んだの?」
逃げるようにぼくから目を逸らす。
「飲まないとよくならないんでしょ? だったら、ちゃんと飲まなきゃだめだよ」
「……お前まで、そんなこと言うのか」
「だって!」
ぼくは蒼葉の胸に飛び込んだ。
「蒼葉がまた倒れたら嫌だもん。溺れることより、そっちの方が怖いもん」
「……泳がなきゃ倒れない。言われなくたって、海には入らない。それでいいだろ」
「よくないよ」
強く抱き締めた体はとても細くて、骨の硬さがよく分かる。写真の蒼葉と全然違う。悲しくて、悔しくて、苦しい。
「だって、蒼葉は泳ぎたいんでしょ。だったら薬飲んで治さなきゃ、ずっとこのままだよ」
「飲んだって治るとは限らないだろ」
「そんなことない。神奈だって言ってたよ。ちゃんと薬を飲んで、病院に行けば……」
「お前を安心させるためにそう言ったんだ」
「でも」
「可能性なんてないんだよ」
咲きかけの花を摘むように、蒼葉はぴしゃりと言い放った。
「入院して二度と戻ってこられなかったら? 二度と海を見られなかったら? 狭い病室でたった一人死ぬしかないとしたら? 手術の成功率だって高くないんだ。……怖くて仕方ないんだよ、俺は」
感情的な言葉とは反対に、声は諦めたように投げやりで、静かだった。
「死ぬことも怖いけど、生きる努力だってしたくないんだ。お前みたいに、強くないんだ」
ぽんぽん、となだめるように頭を叩かれた。見上げた先にあったのは、魂が抜けたようにやつれた蒼葉の顔だった。生きることに疲れた男が、そこにはいた。
蒼葉はもう、昔のように笑わない。もう、昔のように泳がない。ぼくがどれだけ気持ちを伝えても、きっと蒼葉の胸には響かないんだ。
ぼくが伝える思いは、かつて神奈が抱いた思いだ。めぐさんが訴えた言葉だ。烏丸先生の怒鳴った声だ。ちゃんと薬を飲んで。病院に行って。諦めないで。頑張って――なんて、安っぽい!
その一言一言が、蒼葉をどれだけ苦しめてきたのだろう。何気ない励ましの一つ一つが、細い蔦となって蒼葉の首を絞め上げてきたんだ。苦しくて、辛くて、でも誰にも理解してもらえなくて、生きることを強いられてる。こんな細い体に、ひとりぼっちの孤独を抱えて、生きてきたんだ。そう考えたら、知らず知らずのうちに涙が頬を伝っていた。
「……どうして、お前が泣く」
「分かんない」
「同情してるのか」
ぼくはぶんぶん首を振った。違う。同情なんてしていない。
「違うもん……」
そう答える声は小さくて、弱くて、無力だった。ぼくは強くなんかないよ。蒼葉は弱くなんかないよ。そう伝えたいのに言えなくて。口から出るのは嗚咽だけで。たとえ言葉にできたとしても、声に出した瞬間に意味を失ってしまいそうで怖かった。
「泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろ」
「蒼葉のせいだ」
「お前が勝手に泣いたんだ」
蒼葉はあきれたように息を吐いて、長い指で涙を拭った。
「俺なんかのために泣くな。耐えられない、そういうの。……耐えられないんだ……」
ひとりごとのような呟きは、波の音に呑まれて消えていった。太陽を映した海は、自虐的に、悲しげに、いつまでも輝いていた。