「これ、目にあてて」

 そう言って神奈が差し出したのは蒸しタオルだった。ソファに腰を預けてタオルを目元にあてる。じんわりと温かさが広がって気持ちよかった。

「気持ちいいでしょ。朝ご飯食べる?」
「……今はいい」

 そう答えた瞬間、ぎゅるぎゅる……とお腹の虫が鳴った。神奈がくすくす笑う。ぼくは恥ずかしくて体を丸めた。

「昨日あんまり食べてなかったからね。サンドイッチとホットケーキと、あとフレンチトースト。どれがいい?」
「ホットケーキ」
「はぁい」

 十分もしないうちに、神奈は二人分のホットケーキを焼いてくれた。食べやすいようにあらかじめ切り分けてくれている。いつもはカウンター席で食べるけれど、今日はテーブル席で向かい合って食べた。

「悲しい時でもおなかって減るんだね」
「生きてるからだよ」 

 神奈はあっさりとそう答えた。

「あのあと、どうだった?」 

 きっと蒼葉のことだろう。「普通だったよ」と答えると、そう、と短く頷いた。フォークとナイフが、おもちゃみたいな音を立てる。口の中にはちみつの甘さがじんわり広がる。時間が進むのがとても遅い。

「……蒼葉が泳いでるところ、初めて見たの」 

 昨日のことを、思い出した。突き刺すような雨嵐の中、流れるように泳ぐ蒼葉を。

「蒼葉って、イルカみたいだね。速くて、綺麗で……ぼくもあんな風に泳げたらなぁ」
「練習すればうまくなるよ。蒼葉もいっぱい練習してたもん」
「蒼葉も?」
「うん。小さい頃からずっと。地上を歩く時間より泳いでる方が長いくらい。まぁ今は、寝てる時間が一番長いけどね」
「……蒼葉は、泳ぎたいんじゃないのかな」 

 ぼくはもう何度も見てきた。海を見つめる蒼葉の目を。恐れるように。恨むように。憎むように。焦がれるように。青い海を映す暗い瞳は、空に憧れる飛べない鳥のようだ。

「気がつけばいつも海を見てる。蒼葉は海が好きなんだ」
「……そうだね。きっと、野ばらちゃんの言う通りだよ」 

 でも、と神奈は声を低くした。

「泳いだら、また倒れるかもしれない」 

 諌めるような、強い口調だった。

「僕はもう、蒼葉が倒れるところなんて見たくないよ」 

 からっぽなったお皿を持って、神奈はソファから腰を浮かせた。そのまま、またカウンターの奥に行ってしまった。