結局その日はなかなか寝つけなくて、かもめが鳴くより早く目が覚めてしまった。

 夜と朝の変わり目、群青とオレンジが混ざる時間。重たい目蓋を持ち上げると、目の前で蒼葉がひっそりと寝息を立てていた。ぼくの幼い腕と蒼葉の長くて細い腕が、お互いを縛るように絡み合っている。長いまつげは朝露に濡れた草のようだ。

 起こさないように気をつけながら、ぼくはそっと蒼葉の腕の中からすり抜けた。洗面所で顔を洗って、歯を磨く。鏡に映った顔を見て、びっくりした。目蓋がものもらいのように腫れぼったい。昨晩泣いてしまった自分を恨んだ。泣いてもどうにもならないってことは分かっているのに、涙は閉め忘れた蛇口のようにとまらなくて、目覚めたあともこうやって痕跡を残していく。涙って意地悪だ。

 特にすることがないので、寝間着のまま浜辺に行った。ぬるい風が頬を撫でる。昨日あれだけ荒々しかった波は、全く別物のように穏やかだった。寄せては返す波とたわむれるように、つま先だけ波に触れる。太陽で温められていない海は、少し冷たい。ぼくは砂浜にしゃがみこんで、手元に転がった貝殻を手に取った。

 昨日、蒼葉がくれた貝殻は海の底へ沈んでしまった。耳にあててみるけれど、海の音は聞こえない。空気が空洞に反響する音だけが、虚しく響いているだけだった。それがなんだか寂しくて、貝殻を思いきり遠くへ放り投げた。ぼちゃりと汚らしい音を立てて、貝殻が海面を弾く。

 目を覚ましたかもめが、挨拶をするように鳴き始めた。早朝の海はいつもよりずっと静かで、道路を走る車の音も、人の話し声も聞こえてこない。世界にたった一人取り残された気分だ。

 ぼくは両膝を抱え込んで、水平線を眺めた。空と海の境目は不安になるくらい曖昧で、自分の居場所すら見失いそうになる。これからどうすればいいんだろう。ぼくは一体どうしたいんだろう。昨日の出来事が頭の中でぐるぐる回る。大人の男の人でも泣くのだということを初めて知った。大人って、もっと強いものだと思ってた。蒼葉は強いと、思い込んでいた。

 出会った時から、蒼葉はぼくを助けてくれた。泣いているぼくに手を差し伸べてくれた。一緒に逃げてくれた。海を見せてくれた。「おんな」じゃないと言ってくれた。たくさんの安心を蒼葉はくれた。蒼葉がいたから、ぼくは変わらずにいられた。出会って数日のうちに、蒼葉はぼくの絶対的な存在になっていた。どんなことがあっても、蒼葉がいるから大丈夫。もしいつか本当におんなになる日が来ても、蒼葉がいるから平気。そう思っていた。

 そんな蒼葉が、泣いた。声を押し殺して、震えていた。痛々しくて、切なくて、愛しかった。今度はぼくが、守ってあげたいと思った。この弱い大人を、救わなければ。安心させてあげなければ、と。

 遠くの方からバイクの音が近づいてきて、振り返った。神奈は被っていたヘルメットを外して、バイクから降りた。

「おはよ。早いね」
「神奈こそ」
「水、冷たいでしょ。風邪ひくよ」

 平気、と短く答えて、ぼくは波に手を伸ばした。ぼくの手を一瞬だけ濡らしては、怯えたように戻っていく。また恐る恐るぼくに触れて、海に帰って。その繰り返し。

「蒼葉は?」
「まだ寝てる」
「そう」

 隣にやってきた神奈も、ぼくと同じようにしゃがみこんだ。ぼくらはしばらく無言で海を眺めた。まだ夜が明けたばかりだというのに、なんだか一日の終わりのように疲れていた。悲しいとか、苦しいとか、そういう感情すらなかった。ただ、これからどうしよう、どうしようと、解けない算数の問題に出会った時のような焦りが、じわじわと首を絞めていくような気がした。

「大丈夫?」

 ふいに、神奈がぼくの顔を覗き込んできた。

「何が?」
「目、腫れてる。ちゃんと寝た?」
「……あんまり」

 曖昧に答えて、ぼくは目蓋にそっと触れた。実際に触ってみると、いつもよりずっと膨らんでいるのが分かる。こんな顔、蒼葉には絶対見せられない。神奈は困ったように笑うと、

「おいで」

 そう言って、ぼくに手を差し伸べた。