真夜中。

 深い眠りに落ちていたはずのぼくは、月の光に引き戻されるかのように目を覚ました。

 暗闇が少し薄れている。ぼんやりと頭を動かすと、隣に蒼葉の姿はなかった。カーテンが風を含んではためいている。ぬるい潮風と波の音が、開け放された窓から部屋に入り込んでいた。

 いつかのように、蒼葉は窓枠に座って海を見ていた。

「……眠れないの?」

 ひっそりと声を掛けたら、蒼葉がゆっくりと振り向いた。逆光のせいで、表情はよく見えない。青白い肌だけが、不気味な空気をまとって暗闇に浮かび上がっている。

「海を見てた」

 短く答えて、蒼葉は再び海に視線を戻した。

「月の光が海に呑まれてく。……光は、魔物の餌になるんだ」

 ぼくも海を見ようと頭を浮かせた。心もとない月光が海に落ちて、真っ暗な海に道を作っている。ゆらゆら揺れるその道は、まるで壊れかけの橋みたいに拙い。分厚い雲が月を覆うと、光は黒い闇に呑み込まれてしまった。

「……俺もああやって、いつか呑まれるんだ」

 小さくて弱い、声だった。

 月の光のように淡くて儚い。ぼくに届く前に空中分解してしまうような、震えた声。

 ああ、そうか。

 その声を聞いた瞬間、ぼくは自分の過ちに気づいた。蒼葉が冷静だなんて、どうして思ったりしたのだろう。どうして、死を恐れていないなんて思ったのだろう。海を見つめる蒼葉の瞳は、いつも不安に満ちていたのに。初めて一緒に夕焼けを見た日。海に沈む太陽を見て、怯えていたのは蒼葉なのに。どうして、どうして。

「……蒼葉」

 腫れ物を扱うように、そっと、名前を呼んだ。振り返った蒼葉の顔は、迷子の子供のように頼りなかった。

「……おいで」

 両腕を差し伸べたら、蒼葉は泣き出しそうに顔を歪めた。一層強い風が吹いて、カーテンが大きく膨れ上がった。波の音が、何かを警告するかのように響いていた。

 その夜は蒼葉の体を抱き締めて眠った。何も変わっていないはずなのに、この間より、蒼葉の体は小さく感じた。写真の中の蒼葉はたくましくて、男らしくて、大きかったのに。今はこんなに痩せ細って、強く抱き締めたらポキッと折れてしまいそうだ。減った体重の分だけ、命がすり減っているように思えて悲しい。ぼくよりずっと年上なのに、大人の男の人なのに、守ってあげたくなった。

 どうしたら。どうすれば。ぼくは蒼葉を救えるのだろう。どうすれば蒼葉を守れるのだろう。

 ぼくはじっと、腕の中で眠る蒼葉を眺めた。女の人みたいな長いまつげが、水分を含んで微かに震える。枕にシミを作る前に、涙をぺろりと舐めとった。海水と同じ、しょっぱい味だ。きっと蒼葉の体には、血じゃなくて海水が流れているんだ。この人は、一体どれだけの時間を海で過ごしてきたのだろう。体中に染みついた潮の香り。海の記憶。

「……死にたくない……」

 小さな願いが、何度も何度も耳に響いた。それを聞いたら悲しくて、どうしようもなく悲しくて、閉じ込めていた感情が津波のように押し寄せてきた。

 初めて出会った夜を思い出した。ぼくは変化から逃げていた。怖くて怖くてどうしようもなかった。蒼葉も逃げていると言った。差し出された手を掴んだ。ぼくらは逃亡者になった。

 ――死にたくない。

 死にたくない。
 死にたくない。

 耳を塞ぎたくなるのをこらえて、抱き締める腕に力を込めた。蒼葉の細長い腕が、縋るようにぼくを抱き締め返した。ぐっと奥歯を噛み締めて、嗚咽を口の中に閉じ込めようとしたけれど、それでも涙はとまらなくて、白い枕を濡らしていった。

 ねぇ、蒼葉。ぼく分かったよ。蒼葉が何から逃げているのか。


 蒼葉は、海から逃げているんだ。