毎晩大勢のお客さんで賑わうはずの「リリィ・ローズ」は、暗い海底のようにしぃんと静まり返っていた。扉に掛けられた「CLOSED」の看板が、風に揺られてカタカタと小刻みに泣いている。BGMもかかっていない。
淡いオレンジ色の光の下、ぼくと神奈はカウンターに並んで座っていた。目の前に並べられたサラダやパスタは、さっきから一向に減る気配がない。もうとっくに夕飯の時間は過ぎているというのに、おなかはちっとも減らなかった。
時計の音がやけにうるさい。カチ、カチ、という音が響くたび、何かを急かされているように感じる。早く理解しろ。早く受け入れろ。そう、言われているみたい。
「……神奈は、知ってたの」
ぼくはサラダのミニトマトをじっと見つめながら、小さく問いかけた。神奈は戸惑いながらも、観念したように「……うん」と呟いた。
「でも、絶対に死ぬって決まったわけじゃないんだよ。烏丸先生の言ってた通り、ちゃんと治療に専念すれば、助かる可能性だって十分にある。だからさ、そんな悲しい顔しないで」
神奈の声がぼやけて聞こえる。こんなに近くにいるのに、まるで海水に耳を浸しているみたいだ。
ぼくは今、悲しい顔をしているのだろうか? 本当に? 瞳も乾いているし、口元だって歪んでいない。こんなにも表情のない顔を、「悲しい顔」というのだろうか?
何も理解していないはずなのに、恐ろしいほど冷静な自分がいる。今までいろいろなことで泣いてきたくせに、こういう時に限って、涙はちっとも出てきやしない。きっと最後に泣いた時、体中にある水分を使い果たしてしまったのだ。悲しい、という感情すら、今のぼくには浮かんでこない。
だって、蒼葉はちゃんと生きている。話すことだって、触れることだってできる。そんな人が病気で死ぬだなんて、たちの悪い冗談としか思えなかった。
「蒼葉は何の病気なの?」
「……海に入れない、病気かな」
神奈は曖昧な言い方をした。
「泳ぐとね、心臓に負担がかかっちゃうんだ。蒼葉にとって泳ぐことは、呼吸をすることと同じなんだよ。だけど、ある日突然それが奪われた。……もう何年も、蒼葉が泳ぐ姿を見てないや……」
「どうして薬を飲まないの? 飲めば助かるんでしょ? それなのに、どうして……」
「……野ばらちゃんは、蒼葉のこと、好き?」
ぼくは顔を上げて、真っ直ぐに神奈を見た。
「……うん。好き」
「僕もだよ」
神奈は寂しそうに微笑んだ。
「でもきっと、蒼葉は蒼葉のことが好きじゃないんだ。自分なんて死んでもいいって思ってるんだよ。だから、蒼葉が蒼葉を大事にしない分、僕は蒼葉のことを大事に思ってきたつもりだった。でもそんなの、全然通じてなかったみたいだね」
ちょっぴり怒っているような言い方をして、神奈はグラスに手を伸ばした。透明なグラスの中で、赤いワインが波のようにゆらゆら揺れる。じっと見つめていたら、吸い込まれそうになる。それくらい深くて、暗い赤。
「……ぼくも自分のことが嫌いだった。おんなになっちゃったら、自分が自分じゃなくなるような気がして」
大人になるということ。おんなになるということ。春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ。季節が巡っていくように、それはごく自然なことで。怯える必要なんかないんだと、蒼葉は教えてくれた。
「でも、蒼葉はぼくを受け入れてくれた。何も変わってないって言ってくれた。……だからぼくも、蒼葉のために何かしたい」
神奈は驚いたように目を見開いた。だけどぼくの方が、ぼくの言葉に驚いていた。ああ、そうか。ぼくは蒼葉のことを知りたいんだ。知って、理解してあげたい。蒼葉がぼくにしてくれたように。
神奈はグラスをテーブルに置くと、椅子から腰を浮かせて本棚へと向かった。分厚い本を取り出して、再びぼくのところへ戻ってくる。神奈がテーブルに本を広げると、そこにはたくさんの写真があった。
「アルバム?」
「そうだよ。これ、昔の蒼葉」
神奈は笑いながら、一枚の写真を指差した。今よりずっと若い蒼葉が、楽しそうに海に浸かっている。健康的な焼けた肌。短い髪。今の蒼葉には似合わない、豪快な笑顔。
「若い」
「でしょ?」
神奈がくすっと笑った。女の人のような長い指で、アルバムをパラパラと捲っていく。
「これが僕で、これがめぐさん。烏丸先生もいる。僕らはここに集まった仲間なんだ。この頃は蒼葉もたくさん泳いでたな……いっぱい笑って、いっぱいしゃべって……」
「……ねぇ、この人は?」
ぼくは一枚の写真を指差した。大きな麦わら帽子に、白いワンピース。夏の太陽に似合わない、雪のような白い肌。
「ああ、この子はユリちゃん。僕たちの昔の仲間。蒼葉の幼なじみでね、数年前まではここにいたんだ。実家の手伝いをするって言って、故郷に帰っちゃったんだけど……」
「ぼく、この人知ってる」
「え?」
「ぼく、その町から来たんだ。ユリさんの家に行ったら蒼葉に会ったの」
「蒼葉が……」
神奈は何か悟ったみたいに、「そうか……」と呟いた。
「そうだったんだね。……蒼葉はユリちゃんに会えたのかな?」
「分かんない。ぼくがユリさんの家に着いた時、そこには蒼葉しかいなかった」
あの日の夜を思い出しながら、ぼくはアルバムを捲っていった。どのページにも、蒼葉とユリさんが写っている。楽しそうに笑う蒼葉。仲良さそうにユリさんと泳ぐ蒼葉。豪快に笑った顔。怒った顔。拗ねた顔。気まぐれな海のようにころころと表情が変わる蒼葉。こんな蒼葉を、ぼくは知らない。
「……蒼葉とユリさんは、恋人同士だったの?」
「違うよ。ただの友だち……ってわけじゃないんだけど。お互い大切な存在だったと思うよ。恋人っていうよりは、家族って感じじゃないかなぁ。好きとか、そういうのを通り越してるみたいな」
「それって、神奈と蒼葉みたいだね」
そう言うと、神奈はちょっと照れたように「ええ?」と笑った。きっとユリさんもここで、神奈と同じように蒼葉と過ごしていたのだろう。ぼくの知らない時間を。ぼくの知らない蒼葉と。いっぱい笑って、いっぱい泳いで、蒼葉との思い出を作っていたのだろう。そう考えると、急に体の芯が冷たくなった。今まで気にしたことのなかった疎外感が、波紋のように広がり始めた。
「ユリさんは、蒼葉が病気だってこと知ってるの?」
「知らないよ。連絡も取ってないみたい」
「そんな……どうして?」
「心配掛けたくないんだよ、きっと」
でも、と反抗しようとしたけれど、結局言葉が見つからなくて俯いた。ぼくが何を言っても、きっとどうすることもできないし、どうにもならない。何もできない子供だけど、それを理解するほどには大人だった。
冷房が、いつもより強く体を冷やしてくる。思わず体を縮めたら、神奈が「寒い?」と聞いてきた。震えるのは寒いからじゃないのに、神奈は冷房の風量を弱めてくれた。
ぼくはどうすればいいのだろう。蒼葉はこれからどうなるのだろう。心は汚れた海のようにぐちゃぐちゃなのに、視界だけは妙にはっきりしている。ぼくは無表情で、目の前に置かれたカルピスを飲んだ。どれだけ飲んでも、味を感じる間もなく舌を通り過ぎて、喉に吸い込まれてしまう。
「……ぼく、部屋に戻る」
小さく呟いて立ち上がった。時計の針はもう十時を示していた。
「今日は疲れちゃったね。ゆっくり休みな」
「うん。おやすみ」
おやすみ、野ばらちゃん。
神奈の声を背中に受けて、ぼくはのろのろとお店から出た。
淡いオレンジ色の光の下、ぼくと神奈はカウンターに並んで座っていた。目の前に並べられたサラダやパスタは、さっきから一向に減る気配がない。もうとっくに夕飯の時間は過ぎているというのに、おなかはちっとも減らなかった。
時計の音がやけにうるさい。カチ、カチ、という音が響くたび、何かを急かされているように感じる。早く理解しろ。早く受け入れろ。そう、言われているみたい。
「……神奈は、知ってたの」
ぼくはサラダのミニトマトをじっと見つめながら、小さく問いかけた。神奈は戸惑いながらも、観念したように「……うん」と呟いた。
「でも、絶対に死ぬって決まったわけじゃないんだよ。烏丸先生の言ってた通り、ちゃんと治療に専念すれば、助かる可能性だって十分にある。だからさ、そんな悲しい顔しないで」
神奈の声がぼやけて聞こえる。こんなに近くにいるのに、まるで海水に耳を浸しているみたいだ。
ぼくは今、悲しい顔をしているのだろうか? 本当に? 瞳も乾いているし、口元だって歪んでいない。こんなにも表情のない顔を、「悲しい顔」というのだろうか?
何も理解していないはずなのに、恐ろしいほど冷静な自分がいる。今までいろいろなことで泣いてきたくせに、こういう時に限って、涙はちっとも出てきやしない。きっと最後に泣いた時、体中にある水分を使い果たしてしまったのだ。悲しい、という感情すら、今のぼくには浮かんでこない。
だって、蒼葉はちゃんと生きている。話すことだって、触れることだってできる。そんな人が病気で死ぬだなんて、たちの悪い冗談としか思えなかった。
「蒼葉は何の病気なの?」
「……海に入れない、病気かな」
神奈は曖昧な言い方をした。
「泳ぐとね、心臓に負担がかかっちゃうんだ。蒼葉にとって泳ぐことは、呼吸をすることと同じなんだよ。だけど、ある日突然それが奪われた。……もう何年も、蒼葉が泳ぐ姿を見てないや……」
「どうして薬を飲まないの? 飲めば助かるんでしょ? それなのに、どうして……」
「……野ばらちゃんは、蒼葉のこと、好き?」
ぼくは顔を上げて、真っ直ぐに神奈を見た。
「……うん。好き」
「僕もだよ」
神奈は寂しそうに微笑んだ。
「でもきっと、蒼葉は蒼葉のことが好きじゃないんだ。自分なんて死んでもいいって思ってるんだよ。だから、蒼葉が蒼葉を大事にしない分、僕は蒼葉のことを大事に思ってきたつもりだった。でもそんなの、全然通じてなかったみたいだね」
ちょっぴり怒っているような言い方をして、神奈はグラスに手を伸ばした。透明なグラスの中で、赤いワインが波のようにゆらゆら揺れる。じっと見つめていたら、吸い込まれそうになる。それくらい深くて、暗い赤。
「……ぼくも自分のことが嫌いだった。おんなになっちゃったら、自分が自分じゃなくなるような気がして」
大人になるということ。おんなになるということ。春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ。季節が巡っていくように、それはごく自然なことで。怯える必要なんかないんだと、蒼葉は教えてくれた。
「でも、蒼葉はぼくを受け入れてくれた。何も変わってないって言ってくれた。……だからぼくも、蒼葉のために何かしたい」
神奈は驚いたように目を見開いた。だけどぼくの方が、ぼくの言葉に驚いていた。ああ、そうか。ぼくは蒼葉のことを知りたいんだ。知って、理解してあげたい。蒼葉がぼくにしてくれたように。
神奈はグラスをテーブルに置くと、椅子から腰を浮かせて本棚へと向かった。分厚い本を取り出して、再びぼくのところへ戻ってくる。神奈がテーブルに本を広げると、そこにはたくさんの写真があった。
「アルバム?」
「そうだよ。これ、昔の蒼葉」
神奈は笑いながら、一枚の写真を指差した。今よりずっと若い蒼葉が、楽しそうに海に浸かっている。健康的な焼けた肌。短い髪。今の蒼葉には似合わない、豪快な笑顔。
「若い」
「でしょ?」
神奈がくすっと笑った。女の人のような長い指で、アルバムをパラパラと捲っていく。
「これが僕で、これがめぐさん。烏丸先生もいる。僕らはここに集まった仲間なんだ。この頃は蒼葉もたくさん泳いでたな……いっぱい笑って、いっぱいしゃべって……」
「……ねぇ、この人は?」
ぼくは一枚の写真を指差した。大きな麦わら帽子に、白いワンピース。夏の太陽に似合わない、雪のような白い肌。
「ああ、この子はユリちゃん。僕たちの昔の仲間。蒼葉の幼なじみでね、数年前まではここにいたんだ。実家の手伝いをするって言って、故郷に帰っちゃったんだけど……」
「ぼく、この人知ってる」
「え?」
「ぼく、その町から来たんだ。ユリさんの家に行ったら蒼葉に会ったの」
「蒼葉が……」
神奈は何か悟ったみたいに、「そうか……」と呟いた。
「そうだったんだね。……蒼葉はユリちゃんに会えたのかな?」
「分かんない。ぼくがユリさんの家に着いた時、そこには蒼葉しかいなかった」
あの日の夜を思い出しながら、ぼくはアルバムを捲っていった。どのページにも、蒼葉とユリさんが写っている。楽しそうに笑う蒼葉。仲良さそうにユリさんと泳ぐ蒼葉。豪快に笑った顔。怒った顔。拗ねた顔。気まぐれな海のようにころころと表情が変わる蒼葉。こんな蒼葉を、ぼくは知らない。
「……蒼葉とユリさんは、恋人同士だったの?」
「違うよ。ただの友だち……ってわけじゃないんだけど。お互い大切な存在だったと思うよ。恋人っていうよりは、家族って感じじゃないかなぁ。好きとか、そういうのを通り越してるみたいな」
「それって、神奈と蒼葉みたいだね」
そう言うと、神奈はちょっと照れたように「ええ?」と笑った。きっとユリさんもここで、神奈と同じように蒼葉と過ごしていたのだろう。ぼくの知らない時間を。ぼくの知らない蒼葉と。いっぱい笑って、いっぱい泳いで、蒼葉との思い出を作っていたのだろう。そう考えると、急に体の芯が冷たくなった。今まで気にしたことのなかった疎外感が、波紋のように広がり始めた。
「ユリさんは、蒼葉が病気だってこと知ってるの?」
「知らないよ。連絡も取ってないみたい」
「そんな……どうして?」
「心配掛けたくないんだよ、きっと」
でも、と反抗しようとしたけれど、結局言葉が見つからなくて俯いた。ぼくが何を言っても、きっとどうすることもできないし、どうにもならない。何もできない子供だけど、それを理解するほどには大人だった。
冷房が、いつもより強く体を冷やしてくる。思わず体を縮めたら、神奈が「寒い?」と聞いてきた。震えるのは寒いからじゃないのに、神奈は冷房の風量を弱めてくれた。
ぼくはどうすればいいのだろう。蒼葉はこれからどうなるのだろう。心は汚れた海のようにぐちゃぐちゃなのに、視界だけは妙にはっきりしている。ぼくは無表情で、目の前に置かれたカルピスを飲んだ。どれだけ飲んでも、味を感じる間もなく舌を通り過ぎて、喉に吸い込まれてしまう。
「……ぼく、部屋に戻る」
小さく呟いて立ち上がった。時計の針はもう十時を示していた。
「今日は疲れちゃったね。ゆっくり休みな」
「うん。おやすみ」
おやすみ、野ばらちゃん。
神奈の声を背中に受けて、ぼくはのろのろとお店から出た。