蒼葉が目覚めたことを知らせると、烏丸先生は険しい顔でお店を飛び出した。めぐさんと神奈も慌ててあとを追う。先生は階段を駆け上がると、襲撃するかのように部屋の扉を開けた。脱いだ靴が無造作に転がる。追いついたぼくの目に飛び込んできたのは、先生の拳が蒼葉の頬を殴りつける光景だった。蒼葉の細い体が吹っ飛んで、壁に強く叩きつけられる。ぼくと神奈は、同時にひゃっと悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと!」
めぐさんが烏丸先生の腕を掴む。先生はめぐさんの手を振り払って、喉を低く鳴らした。
「……どうして薬を飲まなかった」
蒼葉の口の端から赤い血が流れる。
「どうして俺の言うことを聞かない」
俯いたまま何も言わない。烏丸先生は痺れを切らしたように、蒼葉の胸ぐらをぐいっと掴んだ。
「そんなに死にてぇのか? 何か言ってみろ!」
「ちょっと、やめてよ先生!」
「とめるな、めぐ。こいつは何も分かってねぇんだ。俺たちの気持ちをゴミみたいに扱いやがる。こいつみたいな大バカは殴らないと気が済まねぇ」
「だからって今殴ることないだろ! 子供の前だよ!」
「そんなの知るか!」
稲妻のような怒鳴り声が耳をつんざく。ぼくは神奈に抱きついた。
「こいつの命はこいつ一人のものじゃねぇんだ。どうしてそれが分からない。どうして自分は孤独だと決めつける。俺はそれが……」
「……死んだって、いいだろ」
ぽつりと、蒼葉が呟いた。
それまで叫んでいた二人が口をつぐんだ。ぼくは恐る恐る蒼葉に目をやった。蒼葉は手の甲で血を拭うと、嘲るように笑った。
「薬なんていらないだろ。飲んだって結果は変わらない。それで救われるのは俺じゃなくて、お前自身だろ」
いつもの優しい声じゃない。全てを諦めたような、冷めた口調だった。
「お前は安心したいんだろ。薬を与えて、できる限りの治療をして、『手は尽くした』って言いたいんだろ。あの時ああしていればって後悔するのが怖いだけだ。そんな気休めに、俺を利用するなよ」
「……てめぇ……」
烏丸先生がぐっと拳を握り締めた。右腕が高く上がる。強く握られた拳が振り下ろされそうになった瞬間――咄嗟に、体が動いた。
「やめて!」
ぼくは大きく叫びながら、両腕を広げて烏丸先生の前に立ちはだかった。
烏丸先生は腕を上げたまま、大きな目玉を限界まで開いてぼくを見た。ただでさえ怖い顔は怒りで真っ赤に染まって、本物の赤鬼みたいになっている。
「もう、殴らないで」
恐怖と緊張で声が上ずってしまった。怖い。心臓が口から飛び出しそうだ。涙で瞳がいっぱいになる。足が生まれたての小鹿のように震えている。逃げ出したい気持ちをぐっとこらえて、ぼくは烏丸先生を睨みつけた。先生が睨み返す。ぼくも先生も、金縛りにあったように動かなかった。
とまった時間を動かしたのは、めぐさんの大きなため息だった。
「今日のところは退散しよう。蒼葉だってまだ万全じゃないんだ。その代わり、明日改めて話そう。それでいいだろ」
烏丸先生は不満そうだったけれど、諦めたように舌打ちをして右腕を下げた。
「薬、絶対に飲めよ」
毒針のように吐き捨てて、先生は蒼葉に背を向けた。ぼくと神奈を手で退けて、怒りをまといながら部屋を出ていく。めぐさんは蒼葉をちらりと見たあと、急ぎ足で烏丸先生のあとに続いた。
広げていた両手を下げて、ぼくはその場にへたり込んだ。呼吸がうまくできない。体中から泉のように汗が噴き出る。そのまま立ち上がることができずにいると、神奈がぼくに手を差し伸べた。
「野ばらちゃん」
ぼくは反抗するように動かなかった。動けなかった。今、蒼葉をひとりぼっちにしたくなかった。神奈と一緒に行け、と蒼葉が言った。振り向いたら、避けるように目を逸らされた。
ぼくは仕方なく神奈の手を取った。ぐいっと思いきり引っ張られたせいで、神奈の胸にダイブしてしまった。なんだか頭がくらくらした。重たい足をずるずると引きずりながら玄関へ向かい、脱ぎ散らかしたサンダルを履いた。
「何か必要なものあったら呼んでね。……僕だって、心配してたんだから」
神奈の口調は、少し寂しそうだった。蒼葉は返事をしなかった。パタン、と虚しい音を立てて扉がしまった。
外の空気はじめじめと湿っていた。一体今は何時なのだろう。太陽は夕日に姿を変える間もなく沈んでしまった。
階段の下から、車のエンジンがかかる音がした。見下ろすと、ちょうど烏丸先生が車に乗り込むところだった。
「あっ……待って!」
ぼくは神奈の手を振り払って階段を駈け下りた。烏丸先生はぼくに気づくと、さっきと同じようにぎろりとぼくを睨んだ。
「……さっきの、どういうこと」
すくむ足を支えながら、ぼくは尋ねた。さっきの会話の意味が、ぼくには全く理解できなかった。ただ分かったのは、知ってしまったら、もう平穏な日々には戻れないということだけだった。
聞きたくなんてなかった。知りたくなんてなかった。だけど知らずにいたら、きっと蒼葉はもっと傷ついてしまう。何故だか分からないけれど、そんな気がしたのだ。
「薬って、何の薬? どうして蒼葉は倒れたの?」
「野ばら……」
めぐさんが何か言いたげにぼくの名前を呼んだ。烏丸先生はぼくを観察するように、頭のてっぺんからつま先まで何度も視線を往復させた。
「お前、どうしてあいつの傍にいる」
低くて厳しい声だった。怒っているようにも、あきれているようにも聞こえた。
「……一緒に逃げるって約束したから」
「逃げる?」
ぼくは大きく頷いた。声が震える。足も震える。それでも、蒼葉と逃げ続けるために、今、烏丸先生から逃げてはいけないと思った。
「ぼくは、自分が生きてる場所から逃げたかった。蒼葉も逃げてるって言ってた。だからぼくたちは、一緒に逃げてる仲間なんだ。傍にいられるだけでいいと思ってたけど、今は違う。蒼葉のこと、ちゃんと知りたい。知って、理解してあげたいの」
蒼葉がぼくにそうしてくれたように。ぼくも、蒼葉を助けてあげたい。支えてあげたい。
「だから教えて。蒼葉のこと」
烏丸先生は、ぼくの覚悟を探るみたいに、長い間ぼくを見つめ続けた。一秒がとても長い。秒針が一つ進むたびに、首がぎゅうっと締めつけられていく。
長い長い永遠の果て、先生は重々しく口を開いた。
「……あいつの体は、欠陥品なんだ」
「ちょっ……烏丸先生!」
めぐさんが慌てたように叫んだ。
「もうずっと前から、あいつの体は壊れてるんだ。激しい運動はできない。泳ぐなんてもってのほかだ。どれだけ俺が薬を与えても、治療をしようとしても、あいつは拒み続けてる。このままもしあいつが適切な治療を受けなかったら」
「やめて、先生……」
「――あいつの体は、もって五年だ」
波の音が強くなった。
海の底から声がする。ごおお、と、波とも風とも分からない低い叫びが、波打ち際から響いてくる。
海の魔物が、泣いている。
烏丸先生は運転席に乗り込むと、怒りをぶつけるように勢いよくドアを閉めた。
先生の車が砂浜から去っても、ぼくはその場から動けずにいた。海は荒れているのに、心は不気味なくらい凪いでいた。何を言われたのか分からない。何も考えられない。烏丸先生の言葉だけが、心の中にぷかりと浮かんでは消えていく。
五年後、蒼葉は、死ぬ。
それだけの、言葉が。
「ちょ、ちょっと!」
めぐさんが烏丸先生の腕を掴む。先生はめぐさんの手を振り払って、喉を低く鳴らした。
「……どうして薬を飲まなかった」
蒼葉の口の端から赤い血が流れる。
「どうして俺の言うことを聞かない」
俯いたまま何も言わない。烏丸先生は痺れを切らしたように、蒼葉の胸ぐらをぐいっと掴んだ。
「そんなに死にてぇのか? 何か言ってみろ!」
「ちょっと、やめてよ先生!」
「とめるな、めぐ。こいつは何も分かってねぇんだ。俺たちの気持ちをゴミみたいに扱いやがる。こいつみたいな大バカは殴らないと気が済まねぇ」
「だからって今殴ることないだろ! 子供の前だよ!」
「そんなの知るか!」
稲妻のような怒鳴り声が耳をつんざく。ぼくは神奈に抱きついた。
「こいつの命はこいつ一人のものじゃねぇんだ。どうしてそれが分からない。どうして自分は孤独だと決めつける。俺はそれが……」
「……死んだって、いいだろ」
ぽつりと、蒼葉が呟いた。
それまで叫んでいた二人が口をつぐんだ。ぼくは恐る恐る蒼葉に目をやった。蒼葉は手の甲で血を拭うと、嘲るように笑った。
「薬なんていらないだろ。飲んだって結果は変わらない。それで救われるのは俺じゃなくて、お前自身だろ」
いつもの優しい声じゃない。全てを諦めたような、冷めた口調だった。
「お前は安心したいんだろ。薬を与えて、できる限りの治療をして、『手は尽くした』って言いたいんだろ。あの時ああしていればって後悔するのが怖いだけだ。そんな気休めに、俺を利用するなよ」
「……てめぇ……」
烏丸先生がぐっと拳を握り締めた。右腕が高く上がる。強く握られた拳が振り下ろされそうになった瞬間――咄嗟に、体が動いた。
「やめて!」
ぼくは大きく叫びながら、両腕を広げて烏丸先生の前に立ちはだかった。
烏丸先生は腕を上げたまま、大きな目玉を限界まで開いてぼくを見た。ただでさえ怖い顔は怒りで真っ赤に染まって、本物の赤鬼みたいになっている。
「もう、殴らないで」
恐怖と緊張で声が上ずってしまった。怖い。心臓が口から飛び出しそうだ。涙で瞳がいっぱいになる。足が生まれたての小鹿のように震えている。逃げ出したい気持ちをぐっとこらえて、ぼくは烏丸先生を睨みつけた。先生が睨み返す。ぼくも先生も、金縛りにあったように動かなかった。
とまった時間を動かしたのは、めぐさんの大きなため息だった。
「今日のところは退散しよう。蒼葉だってまだ万全じゃないんだ。その代わり、明日改めて話そう。それでいいだろ」
烏丸先生は不満そうだったけれど、諦めたように舌打ちをして右腕を下げた。
「薬、絶対に飲めよ」
毒針のように吐き捨てて、先生は蒼葉に背を向けた。ぼくと神奈を手で退けて、怒りをまといながら部屋を出ていく。めぐさんは蒼葉をちらりと見たあと、急ぎ足で烏丸先生のあとに続いた。
広げていた両手を下げて、ぼくはその場にへたり込んだ。呼吸がうまくできない。体中から泉のように汗が噴き出る。そのまま立ち上がることができずにいると、神奈がぼくに手を差し伸べた。
「野ばらちゃん」
ぼくは反抗するように動かなかった。動けなかった。今、蒼葉をひとりぼっちにしたくなかった。神奈と一緒に行け、と蒼葉が言った。振り向いたら、避けるように目を逸らされた。
ぼくは仕方なく神奈の手を取った。ぐいっと思いきり引っ張られたせいで、神奈の胸にダイブしてしまった。なんだか頭がくらくらした。重たい足をずるずると引きずりながら玄関へ向かい、脱ぎ散らかしたサンダルを履いた。
「何か必要なものあったら呼んでね。……僕だって、心配してたんだから」
神奈の口調は、少し寂しそうだった。蒼葉は返事をしなかった。パタン、と虚しい音を立てて扉がしまった。
外の空気はじめじめと湿っていた。一体今は何時なのだろう。太陽は夕日に姿を変える間もなく沈んでしまった。
階段の下から、車のエンジンがかかる音がした。見下ろすと、ちょうど烏丸先生が車に乗り込むところだった。
「あっ……待って!」
ぼくは神奈の手を振り払って階段を駈け下りた。烏丸先生はぼくに気づくと、さっきと同じようにぎろりとぼくを睨んだ。
「……さっきの、どういうこと」
すくむ足を支えながら、ぼくは尋ねた。さっきの会話の意味が、ぼくには全く理解できなかった。ただ分かったのは、知ってしまったら、もう平穏な日々には戻れないということだけだった。
聞きたくなんてなかった。知りたくなんてなかった。だけど知らずにいたら、きっと蒼葉はもっと傷ついてしまう。何故だか分からないけれど、そんな気がしたのだ。
「薬って、何の薬? どうして蒼葉は倒れたの?」
「野ばら……」
めぐさんが何か言いたげにぼくの名前を呼んだ。烏丸先生はぼくを観察するように、頭のてっぺんからつま先まで何度も視線を往復させた。
「お前、どうしてあいつの傍にいる」
低くて厳しい声だった。怒っているようにも、あきれているようにも聞こえた。
「……一緒に逃げるって約束したから」
「逃げる?」
ぼくは大きく頷いた。声が震える。足も震える。それでも、蒼葉と逃げ続けるために、今、烏丸先生から逃げてはいけないと思った。
「ぼくは、自分が生きてる場所から逃げたかった。蒼葉も逃げてるって言ってた。だからぼくたちは、一緒に逃げてる仲間なんだ。傍にいられるだけでいいと思ってたけど、今は違う。蒼葉のこと、ちゃんと知りたい。知って、理解してあげたいの」
蒼葉がぼくにそうしてくれたように。ぼくも、蒼葉を助けてあげたい。支えてあげたい。
「だから教えて。蒼葉のこと」
烏丸先生は、ぼくの覚悟を探るみたいに、長い間ぼくを見つめ続けた。一秒がとても長い。秒針が一つ進むたびに、首がぎゅうっと締めつけられていく。
長い長い永遠の果て、先生は重々しく口を開いた。
「……あいつの体は、欠陥品なんだ」
「ちょっ……烏丸先生!」
めぐさんが慌てたように叫んだ。
「もうずっと前から、あいつの体は壊れてるんだ。激しい運動はできない。泳ぐなんてもってのほかだ。どれだけ俺が薬を与えても、治療をしようとしても、あいつは拒み続けてる。このままもしあいつが適切な治療を受けなかったら」
「やめて、先生……」
「――あいつの体は、もって五年だ」
波の音が強くなった。
海の底から声がする。ごおお、と、波とも風とも分からない低い叫びが、波打ち際から響いてくる。
海の魔物が、泣いている。
烏丸先生は運転席に乗り込むと、怒りをぶつけるように勢いよくドアを閉めた。
先生の車が砂浜から去っても、ぼくはその場から動けずにいた。海は荒れているのに、心は不気味なくらい凪いでいた。何を言われたのか分からない。何も考えられない。烏丸先生の言葉だけが、心の中にぷかりと浮かんでは消えていく。
五年後、蒼葉は、死ぬ。
それだけの、言葉が。