冷たい雨は激しさを増していた。雨のカーテンをくぐり抜けながら、ぼくは全力で海へと走った。雨の日に海に入ってはいけない。分かっていたけど、海に入らずにはいられなかった。入って、全てを忘れたかった。今はできるだけ遠く、蒼葉の元から離れたかった。

 波は怒っているかのように荒々しかった。波をざぶざぶとかき分けていったら、いつの間にか胸の辺りまで海に浸かっていた。太陽が出ていないせいで、いつもよりずっと冷たい。心を襲っていた冷たさが、とうとう体の外まで表れてしまったみたいだ。雨が体を打つたびに、全身がぶるぶると震える。

 ぼくはポケットに手を入れて、蒼葉がくれた貝殻を取り出した。どれだけ強く耳にあてても、もう海の音は聞こえてこない。荒ぶった波にかき消されてしまう。

 どうしよう。もしかしたら本当に、蒼葉は悪い人なのかもしれない。そんなことを考えてしまう自分が嫌になる。ぼくはどうすればいいのだろう。どうしたらいいのだろう。せっかく、ぼくを認めてくれる人ができたのに。蒼葉のことを信じたい。だけど、信じられない。雨に混じった涙が頬を濡らす。泣いたってどうにもならないのに。左手の甲でごしごしと涙を拭く。こんなぐちゃぐちゃな気持ちのままじゃ、蒼葉と会えない。もし蒼葉が犯人だったら、警察に捕まってしまうだろう。

 そしたら――ぼくはまた、居場所を失ってしまうのだろうか?

 その時、より一層強く風が吹いて、ぐらりと体が傾いた。貝殻が手から離れる。あっ、と声を上げたと同時に、波がぬうっと伸びてきて、ぼくの体を呑み込んだ。

 目の前の景色が真っ暗になった。鼻と口にいっぱい水が入ってきた。慌てて手足をバタバタさせたら、なんとか海面に顔が出た。息を吸おうとしたら、また海水が口に入ってきた。すぐそこにあったはずの浜辺が、ずっと遠くにあることに気づいてぞっとした。お店がどんどん小さくなる。

 泳がなきゃ。早く海から出なくちゃ。そう思うのに、体が言うことを聞いてくれない。海底に潜む魔物に足を引っ張られているみたいだ。どれだけ前に進もうとしても、引っ張られて、引き戻されて、更に浜辺から遠くなる。苦しい。苦しい。苦しい……。

 ――でも、多分、死ぬ。

 初めて海を見た時、蒼葉が言った言葉を思い出した。ぼく、このまま死ぬのかな。大切な人たちに会えないまま。蒼葉に、さよならも言えないまま。

 雨の向こうから、誰かが走ってくるのが見えた。浜辺にシャツを脱ぎ捨てて、勢いよく海に飛び込んだ。名前を呼ぼうとしたら、またしょっぱい水が口に入った。大きな波が、ぼくを頭からすっぽりと呑み込んで、魔物が、ぼくを海底に引きずり込んだ。足に重りをつけられたみたいに、ずるずると体が沈んでいく。もうだめだ。そう思った瞬間、大きな手がぼくの腕を掴んだ。そのままものすごい力で海面に引っ張り上げられて、ぼくはようやく呼吸をした。

 むせ返りながら目を開けると、目の前に蒼葉の顔があった。蒼葉はぼくを抱えると、真っ直ぐに浜辺へと泳ぎ出した。

「蒼葉! 野ばらちゃん!」

 浜辺から、神奈が大きく叫ぶ声が聞こえる。その声に応えるように、蒼葉は波をかき分けて進んでいった。足が着く深さになると、蒼葉はぼくを背中に乗せて歩き始めた。ぼくは蒼葉に体を預けてぐったりした。

「野ばらちゃん!」

 ようやく浜辺に上がると、神奈がぼくらの元に駆け寄ってきた。神奈がぼくを抱き上げると、蒼葉は崩れ落ちるように膝を着いた。

「大丈夫? 息できる?」

 ぼくは朦朧としながらも、なんとか首を上下に動かした。海水を飲んだせいで気持ちが悪い。神奈は目を潤ませながら、ぼくを強く抱き締めた。

「よかった、二人とも無事で。本当によかった……」

 よかった、よかった、と、神奈はかすれる声で繰り返した。神奈の体温を感じたら、ようやく自分が助かったことを実感し始めた。 何か言いたかったけど、荒い呼吸に邪魔されて何も言えなかった。

 蒼葉は時折むせ返りながら、苦しそうに肩を上下させていた。顔を上げて、ぼくが無事であることを確認すると、ほっとしたように表情が和らいだ。そしてそのまま、張り詰めた糸が緩んだように、砂浜にぐしゃりと倒れ込んだ。

「蒼葉!」

 神奈が悲鳴のように叫びながら、蒼葉の元に駆け寄った。どれだけ名前を呼んでも、蒼葉が応える様子はない。どれだけ体を揺すっても、蒼葉は目を開けなかった。

 雨が、からかうように激しさを増した。海の魔物は轟々と唸って、ぼくらの叫びをかき消していった。