蒼葉の言った通り、雨は一向にやむ気配がなかった。頬に伝う涙のような細い糸が、窓から見える景色にフィルターをかける。「雨は明日の朝まで降り続けるでしょう」お天気お姉さんの未来予想は、残念ながら的中のようだ。こういう日はお客さんが来ないから、と、神奈はお店の掃除を始めた。特にすることもないぼくは、神奈の手伝いをすることにした。棚の上にある本や花瓶を下ろして、雑巾で埃を払っていく。

「警報とか出ないといいけど」

 食器棚を整理しながら、神奈が心配そうに言った。カウンターの隅でドラマの再放送を眺めていた蒼葉が、「平気だろ」と呑気に応える。

「台風でもないし。少し波が荒れるだけだ」
「海の生き物たちは平気なの?」

 雨を運ぶ風が、窓をぎしぎしと軋ませている。その窓から見える海も、いつもとは違う顔をしていた。灰色で、荒々しくて、今にもこちらに襲いかかってきそうだ。

「魚は海で暮らしてるから、こんなの慣れっこだよ」

 神奈はくすくす笑うと、「ほら、蒼葉も手伝って」とカウンターを叩いた。

「嫌だ」
「もー、野ばらちゃんだって頑張ってるのに。動かないと牛になるんだよ」
「それより今日は店、閉めてもいいんじゃないのか。予約も入ってないんだろ」
「うーん、そうしようかなぁ……って、今話題逸らしたでしょ」

 賑やかな会話を聞きながら本棚を片づけていると、大きな黒いファイルが目に留まった。中を開いてみると、ピアノの楽譜が何枚も入っていた。「なめらかに」「アクセント!」という注意書きが、かわいらしい顔文字と一緒に書き込まれている。

「ねぇ、これなぁに?」

 神奈はカウンターから身を乗り出して、「ああ」と笑った。

「それは蒼葉の楽譜だよ。昔、よく練習してたよね」

 蒼葉はそっぽを向いて答えようとしない。わざとらしくストローをくわえて、声を出す手段を自分から断っている。

「だからピアノ弾けたんだね。また何か弾いて」
「嫌だ」
「前は弾いてくれたのに」
「へたって言っただろ」

 ぼくが駆け寄ると、蒼葉はちょっと拗ねたように言った。どうやらこの前のことを根に持っているらしい。

「へたとは言ってないよ。上手じゃないって言っただけ」
「同じだろ」
「違うもん……」
「蒼葉ぁ、ちょっと鍋下ろすの手伝って」

 カウンターの奥から呼ぶ神奈の声に、蒼葉が素早く立ち上がった。ちょっとぉ、と引き留めるぼくの手をすり抜けて、そそくさとカウンターの奥に消えていく。

 ぼくは仕方なく椅子に腰掛けて、パラパラとファイルを捲った。どの楽譜にも、まるっこくてかわいらしい字で書き込みがある。一体誰に教わっていたのだろう。そのままページを捲っていくと、何かがはらりと床に落ちた。

 慌てて拾い上げてみると、それは古ぼけた写真だった。「リリィ・ローズ」の前で、五人が一列に並んでいる。目を凝らして見てみると、髪の長い女の人はめぐさんだった。今とあまり変わっていないけれど、随分若い。その隣には、学生服を着た男の子が恥ずかしそうな顔をしている。神奈だ。一番端にいる大きな男の人は、この間の「烏丸先生」だろうか?

 そして、すぐには気づけなかったけれど、真ん中には蒼葉がいた。今のような疲れた顔じゃない。神奈の肩に手を掛けて、満面の笑みを浮かべている。今より髪も短いし、体だって大きい。こんな蒼葉、ぼくは知らない。

 蒼葉の隣には女の人がいた。白いワンピースを着た、ショートカットの綺麗な人だ。明るく笑みを浮かべて、仲良さげに蒼葉に寄り添っている。知らない人。でも、知ってる人。心臓が、トランポリンのように飛び跳ねた。

 この人は、ユリさんだ。今よりちょっと幼いし髪型も違うけれど、確かに駄菓子屋のユリさんだ。ユリさんの耳にあるピアスを思い出して、あっと声が出た。確か、あのピアスは蒼葉たちと同じ、花の形をしていた。

 間違いない。ユリさんも、「リリィ・ローズ」の仲間なんだ。

「もっと背伸ばせよ」
「もうこれ以上伸びないよ。身長ちょうだい」
「やだよ」

 カウンターの奥から蒼葉と神奈が戻ってきた。ぼくは慌てて写真をファイルに挟み込んだ。心臓がばくばくしている。そのうち胸を突き破ってしまいそうだ。

「野ばらちゃん、どうかした?」
「ううん、何でもない」

 ぼくは席を立って、何事もなかったかのようにファイルを元の位置に戻した。放置していた雑巾を手に取って、再び掃除を再開する。楽しげな二人の会話も、左から右へと抜けていく。機械のように雑巾がけを終えたぼくは、「ちょっとだけ上に戻るね」とお店の扉を開けた。

「傘、使うか」
「大丈夫」

 蒼葉を見ずに答えて、ぼくは勢いよくお店を飛び出した。雨で体が濡れるのも気にせず、階段を駆け上がる。扉を開けると、暑さと水分が混じり合った嫌な空気が出迎えた。ぼくは息を整えながら、ゆっくりと部屋の中に入った。雨の音がやけにうるさく聞こえる。足を動かすと、傷んだ床がぎしぎしと唸った。

 大きな窓から見える海は、心と同じ色をしていた。雨粒が窓を汚して、景色の邪魔をしている。風が強く吹くたび、部屋全体が痛みを感じるように揺れた。

 古いテレビと、小さなテーブル。部屋の隅っこでくしゃくしゃになっている、二人分の布団。台所に置かれた、二人分のコップ。食器棚を開くと、一人で使うには多すぎる数のお皿があった。

 蒼葉は一人暮らしだ。それなのに、どうしてコップが二つあるの? どうして布団が二枚あるの?

 もしかして、ここにはユリさんがいたんじゃないの?

 一度考え始めたら、次々と疑問が浮かんでくる。もう何度も考えたこと。考えようとして、でも答えを知るのが怖くて、考えないようにしていたこと。

 ――蒼葉が、ユリさんを襲ったの?

 ぞくりと、背筋が凍った。汗が全身をじんわりと濡らす。違うよ、そんなはずないよ。そう叫びたいのに、喉から出るのは意味を成さない空気ばかりだ。頭の中は、おもちゃが広がった部屋みたいにぐちゃぐちゃだ。

 この気持ちを、ぼくは知ってる。テルや寧々、お姉ちゃんが遠くに感じた、あの夜と同じ。不安ばかりが波紋のように広がって、どうしたらいいのか分からなくなった。

 逃げ出したい、と、思った。

 このぐちゃぐちゃになった感情から、解放されたいと思った。

 瞳から涙がこぼれるより早く、ぼくは部屋を飛び出した。