びっくりして顔を上げると、蒼葉は何も言わず、口の端を弱く上げた。戸惑いながら耳を澄ませると、サァァ……と、波に似た音が聞こえてきた。

「音が聞こえる!」
「海の音だ」

 蒼葉は得意げににっと笑って、ぼくに貝殻を渡した。ぼくは貝殻を強く耳に押しつけた。さっきよりより鮮明に、波の音が鼓膜に響いてくる。目の前にあるものよりも小さいけれど、確かに海と同じ音だ。

「どうして? どうして聞こえるの?」
「貝殻は、海のものだから。海の記憶でも持ってるんだろ」
「へぇーっ」

 ぼくは貝殻を耳から離して、まじまじと中を覗き込んだ。この穴の奥には海があるのだろうか? そう考えると胸が弾む。ぼくの様子を見ていた蒼葉が、おかしそうにふっと目を細めた。つい今し方まで塞ぎ込んでいた自分を思い出して、ぼくは慌てて笑みを引っ込めた。貝殻を持った手を下げて、再び地面に視線を落とす。本物の波が、ぼくらの足を捉えようとしてくる。

「……蒼葉は、どうして泳がないの」

 生ぬるい潮風に揺らされた髪が、ぼくの視界の邪魔をする。蒼葉の姿を、見えなくさせる。

「前、神奈が言ってた。蒼葉は泳ぐのがうまいって。蒼葉は海が好きなんだって、めぐさんも言ってたよ。それなのに、どうして泳ごうとしないの?」

 雨音が強くなった。傘の端から垂れる雫が、蒼葉の肩を濡らしていく。雨を遮断した黒い傘の下で、こうして身を縮めていると、世界に二人きりになったように思えた。ぼくと蒼葉の息づかいが、波の音よりも大きく聞こえる。その口から、息以外のものが吐き出されることを期待して、ぼくは耳を澄ませる。貝殻を耳にあてる時のように、息を潜めて。

「……俺は、泳がない」

 かすれる声で、蒼葉が言った。ぼくはそっと顔を上げて、しまった、と思った。

 蒼葉は前髪で顔を隠すように俯いていた。雨に打たれたわけでもないのに、その頬はうっすらと濡れているように見えた。

 ああ。
 ぼくが、傷つけたのだ。

「今日は海が荒れる。もう外に出ない方がいい」

 蒼葉は膝に手をついて立ち上がった。ぼくも貝殻をポケットにしまって腰を上げた。

「……蒼葉」

 歩き出そうとする蒼葉のシャツを、恐る恐る引っ張った。

「手、繋いで」

 縋るように手を伸ばしたら、蒼葉は何も言わずにぼくの手を取った。ぼくより大きいはずのその手は、悲しいくらい細くて、少しでも力を込めたら折れてしまいそうなほど弱々しかった。

 黒い傘が空を覆う。降りしきる雨を切り裂きながら、ぼくらは砂浜を踏みしめる。こんなに近くにいるのに、蒼葉がすごく遠くに感じる。波と雨の音が混じって、ぼくらの言葉を、聴覚を、奪う。

 傍にいたい。この手を離したくなんてない。そう思うのに、心に生まれた不安は消えない。

 ねぇ、蒼葉。

 ぼくは、蒼葉を信じていいの?