緩やかな時間を表すように、青い空には、雲がゆっくりと流れていた。小学生の頃、こうして空を見上げては、ぷかぷか浮かぶ雲を目で追っていた。あれはうさぎ。あれはソフトクリーム。そんな小さな発見をしては、心の隅で喜んでいた。

「明日」

 喉の奥から出た声は、怯えるように震えていた。

「……会えるかな」

 返事はない。空から視線を移したら、穏やかな顔の神奈がいた。

「答え、知ってるんでしょ」
「知ってるよ」
「……言わないで」
「言わないよ」

 野ばら、と名前を呼ばれた。唇が触れそうなくらいに、神奈の顔が近づいた。

「綺麗になったね」

 からかうように、囁く。

「もう男は知った?」
「……ぼくは誰のものにもならないよ」

 ぼくは静かに答えた。

「決めたから。五年前に」

 神奈はそう、とだけ言うと、ぼくの体をそっと抱き寄せた。制服越しに、生ぬるい体温が伝わってくる。背中に腕を回したら、体の薄さにびっくりした。そういえば、顔も少しやつれてる。頬と頬をすり合わせたら、寒いせいか、死んだように冷えていた。何も変わっていないように見えて、やっぱり時は流れていたのだ。五年。短い、けれど重たい年月が、胸の奥を熱くさせた。

「明日、君に幸福が訪れますように」
「……ありがとう」

 神奈は名残惜しそうにぼくの体を離すと、ベンチから腰を浮かせた。

「じゃあ、今日はこれで」
「待って」

 ぼくは慌てて神奈のコートを掴んだ。

「このまま連れてって」
「え?」
「お母さん、ぼくが遠出するのを許してくれないんだ。だから今、連れてって」
「僕はいいけど……」
「待ってて。荷物取ってくる」

 ぼくはカバンを肩に掛けると、一目散に家へと向かった。

 予想通り、まだお母さんは帰っていなかった。お姉ちゃんもどこかに出掛けたようだ。セーラー服を脱ぎ捨てて、花柄のシャツと白いスカートに着替えた。鏡を見て、跳ねた髪を手で撫でつける。前髪を指で梳いて、シャツのしわを軽く伸ばした。

 ぼくは首に掛けた鎖の先端を、両手できつく握り締めた。花の形をした銀色の指輪だ。五年前のあの日から、肌身離さず首に掛けている。学校へ行く時は目立たないように服の中に隠していたけれど、もうそんな必要はない。セーラー服は、もう脱いだ。

 荷物は昨日の夜すでにまとめてある。大きなショルダーバッグを肩に掛けて、ぼくは自分の部屋を出た。「しばらく出掛けます。ごめんなさい」そんな形ばかりのメモを残してリビングを離れた。

 家を出たら、すぐそこに見覚えのある車が停まっていた。五年前より少し汚れている。運転席から神奈が手を振った。ぼくはすぐさま駆け寄って、勢いよく助手席に乗り込んだ。

「お待たせ」
「ほんとにいいの? おうちの人、心配しない?」
「平気。携帯もあるし」

 後部座席に荷物を放り込んだ。どうなっても知らないよ、と息を吐いて、神奈はアクセルを踏み込んだ。

 五年前と同じように、車に乗って町を出た。四角い窓の中を、見慣れた風景が流れていく。時折、卒業証書を持った生徒たちが歩いているのを見かけた。さっきまでぼくもあそこにいたはずなのに、セーラー服を脱いだだけで、全く別世界の人たちに見えるから不思議だ。