午後からは、だんだんと雲が増えてきた。明日から天気が崩れるでしょう、というお天気お姉さんの声を聞きながら、ぼくと蒼葉は水族館をあとにした。
車に乗るまで、蒼葉は一度もぼくの手を離さなかった。イルカショーが終わったあとから、蒼葉の様子はちょっぴりおかしくて、ぼくが迷子にならないよう繋いだはずの手は、蒼葉のための行為に変わっていた。この手を離してしまったら、少しでも離れてしまったら、蒼葉はたちまち迷子になって、泣き出してしまうような気がしたからだ。こんな気持ちになるなんて、変なの。蒼葉はもう大人なのに。蒼葉が泣くなんて、そんなこと、あるわけないのに。
家に戻ったら、蒼葉は早々と布団の上に寝転がってしまった。つまらないのでお店に行ったら、神奈が料理の仕込みをしているところだった。何もすることがなかったので、ぼくは神奈の手伝いをすることにした。神奈の指示に従って、野菜を水で洗っていく。
「えっ、水族館行ってきたの?」
「うん。めぐさんが蒼葉に頼んでくれたんだ」
「いいなぁ、水族館なんて何年も行ってないや」
神奈は懐かしそうに笑いながら、ぼくが洗った野菜を包丁で切っていく。
「そういえば、もう体調は大丈夫?」
「今は平気。たまにおなかが痛くなるけど」
「辛かったら休んでいいからね」
「うん。……ありがとう。昨日のことも」
「昨日?」
神奈が不思議そうに首を傾げた。
「神奈の言った通り、蒼葉はちゃんと分かってくれたよ。ちゃんと、受けとめてくれたんだ。神奈が励ましてくれたおかげだね」
「ぼくは何もしてないよ。蒼葉もそんなに難しく考えてないよ、多分」
「そうかな。そうかも」
蒼葉の寝ぼけた顔を思い浮かべたら、ふふっと笑いがこぼれた。
「そうそう。あいつ、ぼけーっとしてるから。水族館、楽しかった?」
「うん。見たことないお魚がたくさんいたんだよ。この海でも見れるかなぁ」
どうかなぁ、と神奈が苦笑いを浮かべる。遠くまで泳がないと見れないかもね、と言われて、ぼくはがっくりと肩を落とした。浮かぶのが精一杯なぼくは、遠くになんて行けやしない。窮屈な水槽の中じゃなくて、広い海で泳ぐ魚が見たいのに。
――孤独なだけだ。
ふと、蒼葉の言葉を思い出した。そういえば、どうして蒼葉はあんな悲しいことを言ったのだろう。自由に泳ぐ魚を、「孤独」だなんて。そんなの、考えたこともなかった。蒼葉は海が好きだとめぐさんは言っていたけれど、それならどうして泳がないのだろう。どうして、あんなに悲しそうな瞳で海を眺めるのだろう。
「どうかした?」
黙り込んだぼくの顔を、神奈がちょっと不安そうに覗き込んだ。
「またおなかでも痛くなった?」
「ううん、何でもないよ」
ぼくは慌てて首を振って、にこっと笑った。洗った野菜をボウルに入れて、タオルで手を拭く。こんなこと、考えたってどうしようもないや。
「全部終わったよ」
「ありがとう。ジュース出してあげるから、座ってて」
はぁい、と席に戻ろうとしたぼくは、あることを思い出して振り返った。
「神奈、電話借りてもいい?」
「いいよ。おうちに電話するの?」
「……めぐさんが、生理になった報告くらいはした方がいいって」
ぼくはなんとなく気まずくて、目を逸らしながら答えた。あんなに勢いよく飛び出したのに、自分から連絡するのは気が引ける。ぼくの気持ちを察したのか、神奈はくすくす笑いながら「カウンターの奥にあるから、使ってよ」と言った。
ぼくは逃げるように電話の元へ行くと、受話器を取って、家の番号をプッシュした。数回のコール音のあと、『もしもし、御陵です』と聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あ……、お姉ちゃん?」
『えっ……の、野ばら――!?』
絶叫が鼓膜を突き破る。ぼくは慌てて受話器を耳から遠ざけた。
『やだ、本当に野ばらなの? あんた、今何してるのよ!』
「ごめん……」
『ああ、もう、お母さん今買い物行ってるし……』
お姉ちゃんは動揺したようにぶつぶつ呟いたあと、はぁーっと大きく息を吐いた。それからちょっと落ち着いた声で、
『手紙、読んだよ。天堂めぐって人のお世話になってるんだって?』
「え?」
ぼくはちょっと首を傾げて、すぐに納得した。きっと心配を掛けないように、めぐさんがうまく書き足してくれたんだ。
『何でそんなことになってんの? 何で家出なんかしたの?」
「……ごめん……」
忘れていた痛みが胸の奥を叩く。後ろめたさが波のように襲ってきて、受話器を握る手に力がこもった。電話の向こうで、お姉ちゃんがまた大きく息を吐いた。
「あとでたっぷり話聞くから。それより、早く帰ってきてよ。今、大変なんだから』
「大変?」
あんた、ニュース見てないの? そう言ってから、お姉ちゃんは深刻そうに声を低くした。
『野ばらが家出した夜にね、ユリさんの駄菓子屋に強盗が入ったの』
「強盗……?」
さっと血の気が引いた。強盗って、あの強盗? 聞き慣れない単語に、脳みそがぐらぐらした。
『お店のお金が全部なくなってたんだって。そんな時にあんたがいなくなるから、強盗に誘拐されたんじゃないかって心配してたんだよ』
「そ、それで、ユリさんは?」
鼓動がどんどん速くなっていくのが分かった。どうしてだろう。嫌な予感がする。それが……と、お姉ちゃんは言いづらそうに声を潜めた。
『犯人に襲われて、重傷なんだ。頭を殴られたみたいで、目も覚めなくて……もうずっと入院してるの』
お店の扉につけられた鈴が、カランカラン、と音を立てた。ぼくははっとして振り返った。
あくびを噛み殺しながら、寝起きの蒼葉が入ってきた。ぼくは蒼白な顔で蒼葉を見つめた。
『帰ってきたらお見舞い行くからね。……聞いてるの? おーい』
もう、聞こえてなんかいなかった。
心臓の音がうるさい。右手で胸を押さえても、この手すら突き破ってしまいそうだ。
ぼくが家を飛び出した、あの日。あの夜、ユリさんの家にいたのは蒼葉だ。どうして蒼葉はあそこにいたの? 何をしに来たの? どうして、暗闇の中に立っていたの?
考えることを放棄していた疑問が、泉のように沸き上がる。カウンターに腰掛けた蒼葉が、ぼくの視線に気づいて顔を上げた。長い前髪の奥にある暗い瞳が、不思議そうに傾く。その瞬間、ぼくに向けられる優しさが、得体の知れない恐ろしいものに思えた。
どうしよう。こんなこと、考えたくないのに。考えちゃ、だめなのに。
蒼葉は、強盗犯なのかもしれない。
車に乗るまで、蒼葉は一度もぼくの手を離さなかった。イルカショーが終わったあとから、蒼葉の様子はちょっぴりおかしくて、ぼくが迷子にならないよう繋いだはずの手は、蒼葉のための行為に変わっていた。この手を離してしまったら、少しでも離れてしまったら、蒼葉はたちまち迷子になって、泣き出してしまうような気がしたからだ。こんな気持ちになるなんて、変なの。蒼葉はもう大人なのに。蒼葉が泣くなんて、そんなこと、あるわけないのに。
家に戻ったら、蒼葉は早々と布団の上に寝転がってしまった。つまらないのでお店に行ったら、神奈が料理の仕込みをしているところだった。何もすることがなかったので、ぼくは神奈の手伝いをすることにした。神奈の指示に従って、野菜を水で洗っていく。
「えっ、水族館行ってきたの?」
「うん。めぐさんが蒼葉に頼んでくれたんだ」
「いいなぁ、水族館なんて何年も行ってないや」
神奈は懐かしそうに笑いながら、ぼくが洗った野菜を包丁で切っていく。
「そういえば、もう体調は大丈夫?」
「今は平気。たまにおなかが痛くなるけど」
「辛かったら休んでいいからね」
「うん。……ありがとう。昨日のことも」
「昨日?」
神奈が不思議そうに首を傾げた。
「神奈の言った通り、蒼葉はちゃんと分かってくれたよ。ちゃんと、受けとめてくれたんだ。神奈が励ましてくれたおかげだね」
「ぼくは何もしてないよ。蒼葉もそんなに難しく考えてないよ、多分」
「そうかな。そうかも」
蒼葉の寝ぼけた顔を思い浮かべたら、ふふっと笑いがこぼれた。
「そうそう。あいつ、ぼけーっとしてるから。水族館、楽しかった?」
「うん。見たことないお魚がたくさんいたんだよ。この海でも見れるかなぁ」
どうかなぁ、と神奈が苦笑いを浮かべる。遠くまで泳がないと見れないかもね、と言われて、ぼくはがっくりと肩を落とした。浮かぶのが精一杯なぼくは、遠くになんて行けやしない。窮屈な水槽の中じゃなくて、広い海で泳ぐ魚が見たいのに。
――孤独なだけだ。
ふと、蒼葉の言葉を思い出した。そういえば、どうして蒼葉はあんな悲しいことを言ったのだろう。自由に泳ぐ魚を、「孤独」だなんて。そんなの、考えたこともなかった。蒼葉は海が好きだとめぐさんは言っていたけれど、それならどうして泳がないのだろう。どうして、あんなに悲しそうな瞳で海を眺めるのだろう。
「どうかした?」
黙り込んだぼくの顔を、神奈がちょっと不安そうに覗き込んだ。
「またおなかでも痛くなった?」
「ううん、何でもないよ」
ぼくは慌てて首を振って、にこっと笑った。洗った野菜をボウルに入れて、タオルで手を拭く。こんなこと、考えたってどうしようもないや。
「全部終わったよ」
「ありがとう。ジュース出してあげるから、座ってて」
はぁい、と席に戻ろうとしたぼくは、あることを思い出して振り返った。
「神奈、電話借りてもいい?」
「いいよ。おうちに電話するの?」
「……めぐさんが、生理になった報告くらいはした方がいいって」
ぼくはなんとなく気まずくて、目を逸らしながら答えた。あんなに勢いよく飛び出したのに、自分から連絡するのは気が引ける。ぼくの気持ちを察したのか、神奈はくすくす笑いながら「カウンターの奥にあるから、使ってよ」と言った。
ぼくは逃げるように電話の元へ行くと、受話器を取って、家の番号をプッシュした。数回のコール音のあと、『もしもし、御陵です』と聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あ……、お姉ちゃん?」
『えっ……の、野ばら――!?』
絶叫が鼓膜を突き破る。ぼくは慌てて受話器を耳から遠ざけた。
『やだ、本当に野ばらなの? あんた、今何してるのよ!』
「ごめん……」
『ああ、もう、お母さん今買い物行ってるし……』
お姉ちゃんは動揺したようにぶつぶつ呟いたあと、はぁーっと大きく息を吐いた。それからちょっと落ち着いた声で、
『手紙、読んだよ。天堂めぐって人のお世話になってるんだって?』
「え?」
ぼくはちょっと首を傾げて、すぐに納得した。きっと心配を掛けないように、めぐさんがうまく書き足してくれたんだ。
『何でそんなことになってんの? 何で家出なんかしたの?」
「……ごめん……」
忘れていた痛みが胸の奥を叩く。後ろめたさが波のように襲ってきて、受話器を握る手に力がこもった。電話の向こうで、お姉ちゃんがまた大きく息を吐いた。
「あとでたっぷり話聞くから。それより、早く帰ってきてよ。今、大変なんだから』
「大変?」
あんた、ニュース見てないの? そう言ってから、お姉ちゃんは深刻そうに声を低くした。
『野ばらが家出した夜にね、ユリさんの駄菓子屋に強盗が入ったの』
「強盗……?」
さっと血の気が引いた。強盗って、あの強盗? 聞き慣れない単語に、脳みそがぐらぐらした。
『お店のお金が全部なくなってたんだって。そんな時にあんたがいなくなるから、強盗に誘拐されたんじゃないかって心配してたんだよ』
「そ、それで、ユリさんは?」
鼓動がどんどん速くなっていくのが分かった。どうしてだろう。嫌な予感がする。それが……と、お姉ちゃんは言いづらそうに声を潜めた。
『犯人に襲われて、重傷なんだ。頭を殴られたみたいで、目も覚めなくて……もうずっと入院してるの』
お店の扉につけられた鈴が、カランカラン、と音を立てた。ぼくははっとして振り返った。
あくびを噛み殺しながら、寝起きの蒼葉が入ってきた。ぼくは蒼白な顔で蒼葉を見つめた。
『帰ってきたらお見舞い行くからね。……聞いてるの? おーい』
もう、聞こえてなんかいなかった。
心臓の音がうるさい。右手で胸を押さえても、この手すら突き破ってしまいそうだ。
ぼくが家を飛び出した、あの日。あの夜、ユリさんの家にいたのは蒼葉だ。どうして蒼葉はあそこにいたの? 何をしに来たの? どうして、暗闇の中に立っていたの?
考えることを放棄していた疑問が、泉のように沸き上がる。カウンターに腰掛けた蒼葉が、ぼくの視線に気づいて顔を上げた。長い前髪の奥にある暗い瞳が、不思議そうに傾く。その瞬間、ぼくに向けられる優しさが、得体の知れない恐ろしいものに思えた。
どうしよう。こんなこと、考えたくないのに。考えちゃ、だめなのに。
蒼葉は、強盗犯なのかもしれない。