夏休みなだけあって、水族館の駐車場には車がたくさん停まっていた。入口から遥か遠くに車を停めて、太陽光から逃げるように日陰へと走った。チケットを買って中に入ると、寒いくらい冷たい空気が肌に染み込んだ。薄暗い館内は、案の定大勢の人で賑わっていた。大半がぼくと同じくらいの子供たちで、水槽の中を泳ぐ魚を眺めては楽しげに笑っている。
「この年になって水族館に来るとは思わなかった」
大きなウミガメを眺めながら、蒼葉が気だるそうに肩を落とした。
「あんまり来ないの?」
「誰と来ればいいんだよ」
「うーん……神奈とか」
「男二人で来る場所じゃないだろ……」
じっくり見ることもせず足を進めていく蒼葉のあとを、ぼくは慌てて追いかけた。
水槽の中にはいろいろな生き物がいた。整列して水の中に飛び込むペンギンや、名前も知らない小さな魚。目に映る全てが新鮮で、光を反射した海のように、きらきらと輝いて見える。
「お前は、よく来るの?」
「小さい頃に、一回だけ」
「今も小さいだろ」
「もっと小さい時」
蒼葉がおかしそうに笑うので、ぼくはちょっとだけむくれた。
「お母さんとお姉ちゃんと一緒に行ったの。水槽の中にいる魚がすごく綺麗で見とれてたら、いつの間にか一人になってた」
「迷子になったのか」
「うん、そう。水族館ってちょっと暗いでしょ。だからすごく怖くなって、あんなにかわいいと思ってた生き物が急に襲いかかってくるような気がして、泣きながらお母さんたちを探したの。すぐにお姉ちゃんが見つけてくれたけど、それっきり水族館には行かなくなっちゃった」
どこまでも続く薄暗い空間で、見たこともない生き物に囲まれたぼくは、泣き叫んで走ることしかできなかった。どこにも行けず、どこにも辿り着けず、同じ場所をぐるぐると回っていた。
だけど、今は違う。蒼葉がいれば、ぼくはどこにだって行ける。
「俺は探してやらないからな」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、蒼葉はぼくに手を差し伸べた。
「だから、離れるなよ」
「……分かった」
ぼくは小さく頷いて、蒼葉の手をぎゅっと握った。魚たちに囲まれて、暗い通路を並んで歩く。
周りの人たちから、ぼくたちはどんな風に見えているのだろう。親子? 年の離れた兄妹? こうして手を繋いでいると、蒼葉の温かさが伝わってくる。与えられたぬくもりに甘えるように、ぼくは繋いだ手に力を込めた。
蒼葉は、優しい。素っ気なくてぶっきらぼうでめんどくさがりだけど、傍にいると安心する。どうしてこんな気持ちになるのだろう。お姉ちゃんといる時だって、テルや寧々にだって、こんな気持ちは抱かないのに。
目の前を泳ぐ魚を目で追う。この子たちは、生まれてからずっと水槽の中にいるのだろうか。そう尋ねたら、蒼葉は「そうかもな」と呟いた。
「魚にとっては、ここが世界の全てなんだよ」
「世界の、全て」
生まれてから死ぬまで、ずっと魚は泳ぎ続ける。狭くて暗い水槽の中を。そう考えたら、ちょっと寂しい。きっと蒼葉がいなければ、ぼくも水槽の中の魚と同じだった。ぼくにとっての水槽は、あの、何の面白みもない町だ。海の広さも知らないまま、一生を終えていたのだろう。
外にあるステージに行くと、ちょうどイルカショーが始まったところだった。お姉さんの声に合わせて、イルカが高くジャンプする。そのたびに客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こった。
「イルカってすごいなぁ」
自由に泳ぎ回るイルカを眺めて、ぼくはほうっと息を吐いた。
「ねぇ、あの海にもイルカはいる?」
「いるだろうけど、浜辺からは見えないよ」
「なぁんだ」
ぼくはがっくりと肩を落とした。海で泳ぐイルカは、水槽の中にいる時よりずっと自由なのだろう。
「……ぼくも、あんな風に泳いでみたいな」
「浮かんでるのが好きなんだろ?」
「うん。でも、泳ぐのも気持ちよさそうだなって。あんな風に広い海を泳ぐのって、どんな気持ちなんだろう」
重力に縛られず、気の向くままにどこまでも泳いでいけたら。ぼくなら何を思うのだろう。どれほどの自由を抱けるのだろう。
「……孤独なだけだ」
低い声で、蒼葉が呟いた。見上げると、蒼葉は自分のつま先をじっと見下ろしていた。
「光の届かない海底で、たった一人死んでいく。海の生き物ってのは、自由なだけじゃない。みんなひとりぼっちなんだ」
繋いだ手に、ぎゅっと力がこもった。
「痛くても、苦しくても、悲しくても、助けすら求められない。そんな場所で死ぬのなら、泳げない方がいい……」
「……蒼葉?」
またイルカが大きくジャンプをして、おおーっとお客さんが歓声を上げた。楽しいはずの空間で、蒼葉一人だけが、思い詰めたように表情を曇らせていた。
ああ、この目をぼくは知っている。悲しむような、恨むような、焦がれるような、その瞳。
海を眺める時と、同じ瞳だ。
「蒼葉は、海が嫌いなの?」
「……別に」
素っ気なく吐き捨てて、蒼葉はぼくから目を逸らした。
たくさんの拍手に包まれながら、イルカショーは終わりを迎えた。
「この年になって水族館に来るとは思わなかった」
大きなウミガメを眺めながら、蒼葉が気だるそうに肩を落とした。
「あんまり来ないの?」
「誰と来ればいいんだよ」
「うーん……神奈とか」
「男二人で来る場所じゃないだろ……」
じっくり見ることもせず足を進めていく蒼葉のあとを、ぼくは慌てて追いかけた。
水槽の中にはいろいろな生き物がいた。整列して水の中に飛び込むペンギンや、名前も知らない小さな魚。目に映る全てが新鮮で、光を反射した海のように、きらきらと輝いて見える。
「お前は、よく来るの?」
「小さい頃に、一回だけ」
「今も小さいだろ」
「もっと小さい時」
蒼葉がおかしそうに笑うので、ぼくはちょっとだけむくれた。
「お母さんとお姉ちゃんと一緒に行ったの。水槽の中にいる魚がすごく綺麗で見とれてたら、いつの間にか一人になってた」
「迷子になったのか」
「うん、そう。水族館ってちょっと暗いでしょ。だからすごく怖くなって、あんなにかわいいと思ってた生き物が急に襲いかかってくるような気がして、泣きながらお母さんたちを探したの。すぐにお姉ちゃんが見つけてくれたけど、それっきり水族館には行かなくなっちゃった」
どこまでも続く薄暗い空間で、見たこともない生き物に囲まれたぼくは、泣き叫んで走ることしかできなかった。どこにも行けず、どこにも辿り着けず、同じ場所をぐるぐると回っていた。
だけど、今は違う。蒼葉がいれば、ぼくはどこにだって行ける。
「俺は探してやらないからな」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、蒼葉はぼくに手を差し伸べた。
「だから、離れるなよ」
「……分かった」
ぼくは小さく頷いて、蒼葉の手をぎゅっと握った。魚たちに囲まれて、暗い通路を並んで歩く。
周りの人たちから、ぼくたちはどんな風に見えているのだろう。親子? 年の離れた兄妹? こうして手を繋いでいると、蒼葉の温かさが伝わってくる。与えられたぬくもりに甘えるように、ぼくは繋いだ手に力を込めた。
蒼葉は、優しい。素っ気なくてぶっきらぼうでめんどくさがりだけど、傍にいると安心する。どうしてこんな気持ちになるのだろう。お姉ちゃんといる時だって、テルや寧々にだって、こんな気持ちは抱かないのに。
目の前を泳ぐ魚を目で追う。この子たちは、生まれてからずっと水槽の中にいるのだろうか。そう尋ねたら、蒼葉は「そうかもな」と呟いた。
「魚にとっては、ここが世界の全てなんだよ」
「世界の、全て」
生まれてから死ぬまで、ずっと魚は泳ぎ続ける。狭くて暗い水槽の中を。そう考えたら、ちょっと寂しい。きっと蒼葉がいなければ、ぼくも水槽の中の魚と同じだった。ぼくにとっての水槽は、あの、何の面白みもない町だ。海の広さも知らないまま、一生を終えていたのだろう。
外にあるステージに行くと、ちょうどイルカショーが始まったところだった。お姉さんの声に合わせて、イルカが高くジャンプする。そのたびに客席からは大きな歓声と拍手が沸き起こった。
「イルカってすごいなぁ」
自由に泳ぎ回るイルカを眺めて、ぼくはほうっと息を吐いた。
「ねぇ、あの海にもイルカはいる?」
「いるだろうけど、浜辺からは見えないよ」
「なぁんだ」
ぼくはがっくりと肩を落とした。海で泳ぐイルカは、水槽の中にいる時よりずっと自由なのだろう。
「……ぼくも、あんな風に泳いでみたいな」
「浮かんでるのが好きなんだろ?」
「うん。でも、泳ぐのも気持ちよさそうだなって。あんな風に広い海を泳ぐのって、どんな気持ちなんだろう」
重力に縛られず、気の向くままにどこまでも泳いでいけたら。ぼくなら何を思うのだろう。どれほどの自由を抱けるのだろう。
「……孤独なだけだ」
低い声で、蒼葉が呟いた。見上げると、蒼葉は自分のつま先をじっと見下ろしていた。
「光の届かない海底で、たった一人死んでいく。海の生き物ってのは、自由なだけじゃない。みんなひとりぼっちなんだ」
繋いだ手に、ぎゅっと力がこもった。
「痛くても、苦しくても、悲しくても、助けすら求められない。そんな場所で死ぬのなら、泳げない方がいい……」
「……蒼葉?」
またイルカが大きくジャンプをして、おおーっとお客さんが歓声を上げた。楽しいはずの空間で、蒼葉一人だけが、思い詰めたように表情を曇らせていた。
ああ、この目をぼくは知っている。悲しむような、恨むような、焦がれるような、その瞳。
海を眺める時と、同じ瞳だ。
「蒼葉は、海が嫌いなの?」
「……別に」
素っ気なく吐き捨てて、蒼葉はぼくから目を逸らした。
たくさんの拍手に包まれながら、イルカショーは終わりを迎えた。