岬に行くと、広い海が一望できた。

 空の上に浮かんでいるようなお屋敷は、近くで見ると思っていた以上に大きかった。扉を開けられて中に入ると、ふわりと花のにおいがした。お邪魔します、と控えめに言って靴を脱いだ。案内されたリビングは、ぼくの家よりずっと広かった。

「おっきい」
「普通だよ」 

 白い壁には大きな海の絵が掛けられていた。棚の上には高級そうな骨董品がたくさん並べられている。薄型のテレビは、まるで映画のスクリーンみたいな大きさだ。

「めぐさんって、お嬢様なんだね」
「お嬢様って年じゃないね。さ、こっちにおいで」

 リビングを抜けて案内された庭には、小さなビニールハウスがあった。めぐさんが、こっちだよ、と手招きをする。甘いにおいに誘われて中に入ったら、目の前に広がる光景に目を見張った。

「すごい、綺麗!」

 そこは花の海だった。赤、黄、ピンク、白。空間いっぱいにいろんな色の花が満ちている。ぼくは大きく両手を広げて、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。金平糖みたいにカラフルで、甘くて、上品な香りだ。

「水をやってくれないかい」
「うん」 

 めぐさんは水の入った如雨露を差し出した。ぼくはそれを受け取って、花にそっと水をやっていった。めぐさんはハサミを右手に持って、葉っぱをチョキチョキと切り始めた。

「潮風にあたると痛むから、こうやってビニールシートで守ってるのさ。気温も調節できるしね。花ってのは繊細だからね、すぐ傷つく」
「めぐさんは何をしてるの?」
「葉を切ってるんだよ」
「どうして?」
「不必要な葉っていうのは、放置してると花の成長を妨げるんだ。だから、切ってやらないといけない」
「へぇ……」 

 ちょきん、ちょきん。ハサミが音を立てるたび、はらはらと地面に落ちていく。枯れる前に死んでしまう青い葉は、もっと生きたいと言っているようで、かわいそうになる。

「この花、かわいいね」 

 目の前にあるピンク色の花を、ちょん、と指でつついてみた。

「バラだよ。ピンクヘイズ。こっちはアドミラル・ロドニー。アルシデュック・ジョセフ。あっち側にあるのは百合だよ」
「どうして百合とバラばっかりなの?」
「死んだ父親が好きでね。あの店も元々父親のものなんだ。だから『リリィ・ローズ』って名前なのさ。あ、リリィは百合ね」
「ふぅん……」 

 全てのバラに水をやり終えたぼくは、百合の花壇へと移動した。与えすぎないように注意しながら、百合の花を眺める。ユリさんと同じ名前の花。白い花びらは、ユリさんのワンピースみたいだ。

「百合の花言葉は純粋。……野ばらに似合うね」
「そうかなぁ」
「子供はいつだって純粋なものさ」
「じゃあ、バラは?」
「本数とか色によっても変わるんだけどね。愛情、最愛、私はあなたにふさわしい、少女時代。あとは……密かな恋」
「密かな、恋」

 口の中で転がしたら、金平糖みたいに甘い味がした。

 クラスの女の子達が夢中になって話す恋愛話は、どれもぼくには関係のないことばかりだ。友だちのそういう話を聞くたびに、男の子と女の子の距離が開いていくような気がして嫌だった。一緒に遊んじゃいけないと言われているようで。女の子らしくなれと言われているようで。

 ぼくはきっと誰よりも、大人になることを恐れている。

「野ばらは、好きな人とかいるのかい?」
「ううん、いないよ」
「蒼葉は?」
「えっ?」 

 肩が飛び跳ねた。めぐさんはこっちを見て意味ありげに微笑んでいる。ぼくは慌てて目を逸らした。

「ま、まだ分かんない」
「そうかい」

 めぐさんは微笑みを浮かべたまま、またハサミを動かし始めた。どうして蒼葉が出てくるのだろう。心臓がどきどきしている。蒼葉はずっと年上だし、出会ったばかりなのに。

 蒼葉は、変な人だ。自分のことを話さないし、ぼくのことも何も聞かない。泳ぎだって教えてくれないし、ご飯を作ってくれるわけでもない。

 でも、傍にいるとすごく落ち着く。まるで海に浮かんでいるみたいに安心する。きっと、初めて会った時から分かっていた。蒼葉だったら、ぼくを「ぼく」のまま受け入れてくれるって。理由なんてない。ただ強くそう感じたんだ。だから、ぼくは蒼葉の手を取ったんだ。

 花の手入れを終えたら、寝室へと案内された。子供用のベッドと学習机があるだけの小さな部屋だ。網戸から入り込む風がカーテンをふわりと揺らしている。めぐさんはクローゼットを開いて、子供用の服をたくさんベッドの上に並べていった。

「気に入ったのがあったら持っていっていいからね」
「ありがとう」 

 ぼくはわくわくしながら服を一枚ずつ体に合わせていった。どれもこれも、お姫様みたいにかわいいものばかりだ。フリルのついたシャツを手に取って、姿見を覗き込んでみた。

「やっぱりレースが似合うね」

 ぼくはちょっと照れくさくなって俯いた。

「かわいいもの、好きかい?」
「うん」
「ちょっと意外。『ぼく』って言うから、ボーイッシュなのが好きかと思った」
「やっぱり変?」
「変じゃないよ。それが個性ってものさ」
「でも、学校の先生はだめだっていう。女の子なのに『ぼく』は変って」
「学校ってのは個性を嫌うのさ。同じカバン同じ授業、そういうものを好むから、仕方のないことなんだよ」 

 めぐさんは椅子に腰掛けて足を組んだ。めぐさんの言葉って力強い。先生よりも説得力があるから、ぼくはほっと安心できた。

「ここは、自由だね」 

 大きな窓からは、「リリィ・ローズ」がよく見えた。蒼葉の車も神奈のバイクもない。人気のない海はどこか寂しい。

「みんな楽しくて、優しいの。めぐさんも神奈も。……蒼葉も」
「蒼葉はちゃんと面倒見てくれる?」
「うん」 

 振り向いて頷いたら、めぐさんは感心したように息を漏らした。

「正直、意外なんだ。あいつが野ばらと一緒にいるなんて」
「どういう意味?」
「蒼葉はね、一週間くらいずっと家をあけてたんだ。まあ、ああいうやつだからすぐ帰ってくるだろうとは思ってたけどね。ようやく戻ってきたと思ったら、あんたを連れてきたんだもん。結構あたしもびっくりしたんだよ」 

 初めてめぐさんと出会った夜を思い出した。全然びっくりしているようには見えなかったけれど。

「あいつ、無愛想っていうか、素っ気ないから。そんな男があんたと一緒にいるなんて、不思議」
「確かにあんまりしゃべらないし、遊んでもくれないけど……蒼葉は優しいよ。髪の毛も乾かしてくれるし、水着も買ってくれたし、それに……」
「それに?」
「……ぼくを、連れ出してくれたから」 

 ぼくは手に持っているシャツをぎゅっと握り締めた。あの夜。泣いているぼくに手を差し伸べてくれたのは蒼葉だった。蒼葉しか、そこにいなかった。

「ぼくが全部嫌になって、逃げ出したいと思ったら、そこに蒼葉がいた。蒼葉も逃げてるって言った。だから、一緒に逃げることにしたんだ」 

 めぐさんは不思議そうにぼくをじっと見つめた。そして何かを悟ったように「そう」と短く答えた。

「何か、通じるものがあったんだろうね。レアだよ。自分のことすらちゃんとしないあのバカが、誰かに手を差し伸べるなんて」 

 おかしそうに、天井を見上げてくすくすと笑う。それからふと真面目な顔になって、

「この出会いが、互いを変えるといいね……」

 ひとりごとのように呟いた。 

 ぼくはもう一度、蒼葉のいない景色を見下ろした。誰もいない海。寂しげな波の音。こんなに綺麗な眺めなのに、大好きなはずの風景なのに、何故かちっとも満足できない。

「ぼくは、蒼葉の傍にいたい」 

 網戸から風が入ってくる。ぼくの髪がふわりと舞う。

「蒼葉はぼくを、おんなじゃないって言った。おんなじゃなくて、一人の人間として見てくれるから」

 そうだ。だからきっとこんなにも、蒼葉といるのが心地いいんだ。

「だから、蒼葉の傍にいたい」

 もう一度、強く言葉にした。そうしたら、熱に浮かされたようなこの願いが確かなものになって、神様が叶えてくれるような気がした。

 どこまでも続く海の上を、かもめが鳴きながら飛んでいる。白い翼を羽ばたかせながら水平線の彼方へと飛んでいき、やがてぼくの視界から見えなくなった。