淡いオレンジ色のライトがめぐさんを照らす。店内がしぃん、と静まり返ると、めぐさんの指が鍵盤を滑り始めた。ぽろん、ぽろん。不規則なリズムに合わせて、めぐさんが歌う。風に揺れる草花のように。海面を踊る波のように。長い髪がゆらゆら揺れるたび、歌と一緒に花の香りがふわりと漂ってくる。何て言っているのかは聞き取れない。だけど何故か懐かしいような、切ないような気持ちになる。胸の奥底に温かいココアをこぼしたみたいだ。体の内側に、ぬくもりがじぃんと染み渡る。名前も知らないこの歌を、もっと聞いていたいと思う。
「この曲、なぁに?」
こっそり耳打ちすると、神奈は短く「ジャズ」と答えた。
「『酒とバラの日々』って曲だよ」
「へぇ……」
さっきまでおしゃべりばかりしていたお客さんたちも、今はもうめぐさんに夢中だ。蒼葉はカウンターにうつ伏せになって、視線だけをめぐさんに向けていた。
曲が終わると、お客さんの歓声と拍手がどっと溢れた。ぼくも負けずに大きく手を叩いた。一人一人の拍手に応えるように、めぐさんは何度もお辞儀をした。スポットライトに照らされて笑うめぐさんは、大スターのようにきらめいている。その様子に見とれていると、突然「野ばら!」と名前を呼ばれた。
「リクエストちょうだい」
「えっ」
「何でもいいんだよ。歌謡曲でも、童謡でも」
ぼくは天井を見上げてうーんと唸った。しばらく考えた末、
「見上げてごらん夜の星を」
「坂本九か。お嬢ちゃん、いいねぇ」
近くにいたおじさんが、舌足らずな口調で言った。
「音楽の教科書に載ってたの」
「ええー、そうなんだ!」
神奈が大げさにのけぞる。めぐさんは「じゃあ、いくよ」と言って、再びピアノを弾き始めた。夜の子守唄のように、優しい声で歌い始める。授業で聞いたのと少し違う。ふらりふらりとおぼつかない、波のようなリズムだ。こっちのアレンジの方が好きかもしれない。
うつ伏せていた蒼葉が、急にむくりと起き上がった。前髪に隠れた瞳が、めぐさんの姿を一途に捉えた。唇がぼそぼそと動いている。耳を澄ませると、どうやら歌っているらしかった。流れ星のように儚くて、砂のように小さなその歌声は、耳を傾けなければピアノの音にかき消されてしまう。周りのおじさんも神奈も、蒼葉の歌声には気づいてはいない。ぼくだけが聞いている。ぼくだけに聞こえる蒼葉の声。とても低くて、弱々しくて、たどたどしくて、不器用な歌。それがとっても心地よくて、ぼくはうっとり目を閉じた。
「この曲、なぁに?」
こっそり耳打ちすると、神奈は短く「ジャズ」と答えた。
「『酒とバラの日々』って曲だよ」
「へぇ……」
さっきまでおしゃべりばかりしていたお客さんたちも、今はもうめぐさんに夢中だ。蒼葉はカウンターにうつ伏せになって、視線だけをめぐさんに向けていた。
曲が終わると、お客さんの歓声と拍手がどっと溢れた。ぼくも負けずに大きく手を叩いた。一人一人の拍手に応えるように、めぐさんは何度もお辞儀をした。スポットライトに照らされて笑うめぐさんは、大スターのようにきらめいている。その様子に見とれていると、突然「野ばら!」と名前を呼ばれた。
「リクエストちょうだい」
「えっ」
「何でもいいんだよ。歌謡曲でも、童謡でも」
ぼくは天井を見上げてうーんと唸った。しばらく考えた末、
「見上げてごらん夜の星を」
「坂本九か。お嬢ちゃん、いいねぇ」
近くにいたおじさんが、舌足らずな口調で言った。
「音楽の教科書に載ってたの」
「ええー、そうなんだ!」
神奈が大げさにのけぞる。めぐさんは「じゃあ、いくよ」と言って、再びピアノを弾き始めた。夜の子守唄のように、優しい声で歌い始める。授業で聞いたのと少し違う。ふらりふらりとおぼつかない、波のようなリズムだ。こっちのアレンジの方が好きかもしれない。
うつ伏せていた蒼葉が、急にむくりと起き上がった。前髪に隠れた瞳が、めぐさんの姿を一途に捉えた。唇がぼそぼそと動いている。耳を澄ませると、どうやら歌っているらしかった。流れ星のように儚くて、砂のように小さなその歌声は、耳を傾けなければピアノの音にかき消されてしまう。周りのおじさんも神奈も、蒼葉の歌声には気づいてはいない。ぼくだけが聞いている。ぼくだけに聞こえる蒼葉の声。とても低くて、弱々しくて、たどたどしくて、不器用な歌。それがとっても心地よくて、ぼくはうっとり目を閉じた。