夕日が完全に海に沈んだら、空が黒く染まっていった。まんまるな月と星が暗闇に浮かんで、淡い光を放っている。昨日までと同じ光のはずなのに、昨日よりずっと綺麗に見える。

「リリィ・ローズ」のカウンター席に座って、ぼくはぼんやりと外を眺めた。あんなに青く澄んでいた海は、暗闇に紛れてよく見えない。神奈が作った料理を蒼葉と一緒に食べていたら、お客さんがぞろぞろとお店に入ってきた。

「おっ、今日はかわいい子がいるねぇ」 

 真っ黒に日焼けしたおじさん二人組が、ぼくに気づいて面白そうに笑った。

「お嬢ちゃん、どこから来たの」
「だめだよ、怖がっちゃうでしょ」 

 神奈がしっしっと手を振って追い払う。おじさんたちは「何だよぉ」と言いながら奥のテーブル席に腰掛けた。 

 お客さんたちはみんな常連のようで、ぼくを見つけるたびに驚いて、面白そうに話しかけてきた。ぼくはそのたびにおろおろして、神奈はそのたびにお客さんを追い払ってくれた。

「ごめんね、みんなうるさくて。悪気はないんだ」
「ううん、平気」 

 ぼくは左右に首を振って、オレンジジュースのおかわりをもらった。バーというのは、大人たちがお酒を飲むところらしい。大人に囲まれるのはちょっと落ち着かないけれど、神奈と蒼葉がいるから、さほど居心地は悪くなかった。昼間はぼくら三人だけだったのに、今はお客さんで溢れ返っている。

「いつもはもうちょっと少ないんだけどね」

 そう言って、神奈は肩をすくめた。隣の席では、蒼葉が眠たそうに頬杖をついていた。ぼくと半分こしたピザを口にくわえて、ちまちまと噛んでいる。

 他のお客さんが騒げば騒ぐほど、蒼葉の周りはしぃんと静まり返るようだった。お店は人の笑い声で溢れているのに、蒼葉だけは微かな物音も発さず、ただ、そこに座っている。まるで波が引いたあとのような静けさだ。見えないバリアが張られているような、そんな雰囲気が、蒼葉にはあった。

「……それ、一口ちょうだい」

 眠そうな目をうっすらと開いて、蒼葉がぼくの方に手を差し出した。オレンジジュースを渡したら、細いストローで一気に半分も飲み干されてしまった。

「全然一口じゃない!」
「大人だから、いいの」 

 頬を膨らませて怒ってみても、軽く笑って返される。オレンジジュースを取り返して、ぼくは恨みがましく蒼葉を睨んだ。

「お酒、飲まないの?」
「飲んでほしいのか」
「そうじゃない、けど。バーって、お酒を飲むところなんでしょ」 

 さっきから、蒼葉はぼくと同じようにソフトドリンクしか飲んでいない。大人の男の人がジュースを飲むなんて、ちょっと不思議な感じがした。蒼葉はぼくから目を逸らして、手元にあるカルピスを掴んだ。

「全部、やめたんだ」 

 眠たいせいか、その声は低くかすれていた。横顔が、ちょっと寂しげに歪んだ。その意味を尋ねようとしたら、扉についている鈴が楽しげに鳴った。

「おっ、めぐちゃん!」 

 お客さんの一人が立ち上がって、大きく手を振った。扉の方を振り返ると、女の人が入ってくるところだった。ウェーブした長い髪。赤い唇。胸元のあいた黒いドレスを着ている。めぐ、と呼ばれたその人は、ぼくを見つけて上品に微笑んだ。

「こんばんは」
「こ……こんばんは」 

 どきどきしながら答えると、めぐさんはぼくの隣に腰掛けた。花のような、甘い香りが漂ってくる。神奈にお酒を注文して、めぐさんはぼくを味わうように眺め渡した。

「それ、どうしたの」
「えっ」
「その服。ぶかぶかじゃないか」
「これはね、蒼葉の」
「へぇ。だめだよ、ちゃんとしたもの着せなきゃ」

 蒼葉はふてくされたようにカルピスを喉に流し込んだ。二人の大人に挟まれたぼくは、どこを向いたらいいのか分からずに視線をきょろきょろさせた。

 この女の人は誰なんだろう。若く見えるけれど、表情や仕草は蒼葉よりも大人びて見える。もしかしたら、お母さんと同じくらいの年かもしれない。

「野ばらちゃん、この人だよ。昼間言ってた海の持ち主」

 神奈が、めぐさんにお酒を渡しながら教えてくれた。

「今はもう神奈のものだよ」

 めぐさんは苦笑しながら前髪をかき上げた。左腕に銀色のブレスレットをしている。蒼葉たちとお揃いの、シルバーの花。この人も、「リリィ・ローズ」の仲間なんだ。

「で、こっちが野ばらちゃん。しばらく蒼葉のところで暮らすんだって」
「あら、そう。蒼葉に隠し子がいたなんて知らなかったよ」
「カクシゴ?」
「違う」

 首を傾げたら、蒼葉がすぐさま否定した。神奈がおかしそうにくすくすと笑った。

「で、本当は何なんだい? 家出?」

 めぐさんの鋭い一言に、ぼくはぎくりとして黙り込んだ。「あら、図星」めぐさんがちょっと目を見開いた。 

 ああ、そうか。これは「家出」ってことなのか。ぼくは俯いて、両手を固く握り締めた。蒼葉の手を取って、住んでいる場所から逃げ出した。エメラルドグリーンの海。赤い夕焼け。それらは全て、ぼくだけに与えられた、特別なものだと思っていた。でも、そうじゃないんだ。あの町から抜け出したことも、今ここにいることも、全て「家出」に含まれてしまうような、ありふれたことなんだ。そう考えたら、悲しいような、悔しいような、やるせない気持ちになった。

「これくらいの時期ってみんな悩むものだからね。それもまた青春さ」

 めぐさんはそう言って、ぼくを安心させるように微笑んだ。

「家の人には言ってあるの?」
「ううん」
「あら。連絡くらいしとくべきだと思うけどね。親御さん、心配してるんじゃない。捜索願とか出されてるかも」
「そ、捜索願!?」

 声を上げたら、近くにいたお客さんが一斉に振り返った。ぼくは慌てて声を潜めた。
「そしたら蒼葉、逮捕されちゃう?」
「そうだねぇ」

 めぐさんは呑気な口調で、お酒が入ったグラスをゆらゆらと揺らした。
 どうしよう。ぼくは両手で頭を抱えた。お母さんたちのことをすっかり忘れていた。もし本当に警察に連絡していたら? 寧々やテル、ううん、もしかしたら、町中の人がぼくを探し回っているかもしれない。まるで指名手配犯にでもなった気分だ。ニュースで報道されていたらどうしよう。

「あらやだ、そんな本気にしないでよ」

 青い顔をしているぼくを見て、めぐさんが困ったように笑った。

「手紙でも書きな。出しといてあげるから」
「手紙?」
「『元気です』って伝えるためさ。神奈、何か書くものちょうだい」
「えーと、ちょっと待って」

 神奈は戸棚からメモとペンを取り出してぼくに渡した。ぼくはうーんと頭を悩ませた末、

『ぼくは元気です。しばらく旅に出ます』

 ちょっと素っ気ないかな。『心配しないでください』そうつけ足してから、裏面に住所とお母さんの名前を書いてめぐさんに差し出した。

「じゃ、確かに受け取ったよ。出しておくね」

 めぐさんはそう言って、ぼくの手紙をショルダーバッグにしまった。よかった。これで蒼葉が逮捕される心配はなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろして隣を見ると、蒼葉の頭が船のように揺らめいていた。人がこんなに心配してあげてるのに。べーっと思いきり舌を出してみるけれど、やっぱり蒼葉は気づかない。

 しばらくすると、店内に流れていた音楽がフェードアウトしていった。

「めぐさん、よろしく」
「はいはい」

 神奈の言葉で、めぐさんが席を立つ。奥にあるグランドピアノの椅子に腰掛けると、お客さんたちが一斉に拍手をした。一体何が始まるんだろう。答えを求めるように神奈を見ると、口元に人差し指をあてて「しーっ」と言った。ぼくはもう一度めぐさんに視線を戻した。