ビート板を掴みながら、ぼくはバタバタと両足を動かした。波が邪魔をしてなかなか前に進まない。海面から顔を出したら、呼吸をした拍子にバランスを崩してしまった。

「おっと」

 沈みそうになるぼくの体を、神奈は慌てる様子もなく抱き留めた。神奈の首に抱きついて、ぼくは思いきりむせこんだ。

「大丈夫?」
「しょっぱい」
「海水だからね、そりゃしょっぱいよ」

 神奈は笑いながらぼくの背中を軽く叩いた。

「ちゃんと泳げるじゃん。てっきりカナヅチなのかと思ってたよ」
「でも、速く泳げないの」 
「遅くてもいいんじゃない? 泳ぎ方も綺麗だし、問題ないよ」
「そう、かなぁ」 

 そうそう、と頷きながら、神奈はぼくを浮き輪に通した。そのまま手を繋いで、ゆっくりと後ろ向きに歩いていく。神奈の手に引かれながら、ぼくは再び海底を蹴った。

 どれだけ足を動かしても、どれだけ海の中を進んでも、景色は全く変わらない。広い海、空を飛ぶかもめ、白い砂浜。右を見ても左を見ても、見えるものはたったこれだけだ。

「この海、ぼくら以外に人がいない」
「そりゃそうだよ。プライベートビーチだもん」
「なぁに、それ?」

 人の海ってことだよ、と言われて、びっくりした。こんな大きな海を持っている人がいるなんて。犬みたいに鎖で繋ぐこともできないのに、どうやって所有しているのだろう。

「誰の? もしかして、神奈の?」

 わくわくしながら聞くと、神奈は笑いながら「ぼくはそんなにお金持ちじゃないよ」と言った。

「じゃあ、誰の?」
「あのお屋敷に住んでる人だよ。ほら、あそこ」

 神奈は左手をぼくから離して、岬の上を指差した。さっき見つけた、おとぎ話に出てくるような大きな家だ。へぇ、と呟くと、神奈はまたぼくの手を取った。

「どんな人が住んでるの?」
「夜、お店に来たら会えると思うよ。……足、もうちょっと伸ばしてみて」 

 ぼくは言われた通り、両足をピンと伸ばしたまま上下に動かした。そう、上手上手。神奈はにこにこしながら、ゆっくりとぼくを誘導していく。水に濡れた金色の髪の毛が、きらきらと輝きを放って眩しい。

 まだ出会って数時間しか経っていないのに、ものすごく年も離れているのに、神奈は昔からの友だちのように思えた。テルのような、同級生の男の子とは少し違う。近所に住むお兄さんのような気さくさが、神奈にはあった。

 ぼくは元々、あまり大人と話すのが得意じゃない。担任の美奈子先生のことも、実を言うと少し苦手だ。大人は「大人」っていう、ぼくとは別の生き物だから、話が噛み合わないような気がするのだ。ぼくが気軽におしゃべりできる大人は、ユリさんただ一人だけだった。

 じゃあ、蒼葉はどうだろう? 神奈のような気さくさもないし、無愛想だし、見た目もちょっと怖い。だけどぼくは昨日、迷わず蒼葉の手を取った。この人と一緒に逃げたいと思った。それは、どうしてだろう……。

「なんだか不思議だなぁ」

 ふいに、神奈の歩みがとまった。ぼくは泳ぐことをやめて体を起こした。繋いだ手がそっと離れる。

「何が?」

 尋ねると、神奈は海水を両手ですくいあげた。

「野ばらちゃんとこうしていることが。もう何も変わらないし、変えられないと思ってたのにさ」 

 両手を高く上げて、水を、離す。太陽の光を浴びて、水滴がダイヤモンドのように輝いて落ちる。

「……野ばらちゃんが、蒼葉を変えてくれるといいな」 

 ひとりごとのように呟いて、神奈はちょっと寂しそうに笑った。その言葉の意味が何なのか、どうしてそんなことを言うのか、ぼくにはよく分からなかった。

 神奈の真似をして海をすくいあげたら、綺麗な空色がすっと消えて、ただの透明な水になった。指と指の間をすり抜けて、海の一部となったら、また輝きを取り戻した。